06.「民を照らす鏡」と、泥に塗れた記憶
「――奏様。『王妃』とは、民を照らす鏡でございます」
マルバスが放ったその言葉が、図書室の冷たい静寂の中に深く染み渡っていく。
「鏡……ですか?」
「いかにも。魔王様が圧倒的な武力と恐怖、あるいはカリスマによって民を平伏させる『天頂の太陽』であるならば、王妃様はその光を受け止め、世界の隅々へと優しく反射させる『鏡』。つまり、魔王様の意志を民に伝え、同時に、民の小さな声を魔王様へと届けるための存在でございます。民の在り方は王妃様の輝きによって変わり、王妃様の輝きはまた、民の生きる希望となる。それが、魔王城における伴侶の真なる役割なのです」
民を照らす鏡。民の生きる希望。
その言葉を耳にした瞬間、奏の胸の奥で、冷たい記憶の檻がガラガラと音を立てて開いた。
(……鏡。希望、か……)
視界が、急激に色褪せていくような感覚に襲われる。
気がつけば、奏は魔王城の豪奢な図書室ではなく、人間界の、あの薄暗く冷酷な王宮の舞台裏に立っていた。
かつて、奏はスラムにいた頃、『スラムの希望』と呼ばれるアイドルだった。
メイド服をまとい、笑顔を振りまき、歌声を響かせる。周囲の大人たちは口を揃えて奏を褒めそやした。――『君はみんなを照らす光だ』『君の歌が、戦う冒険者たちの、そしてスラムの希望なんだ』と。
だけど、現実はどうだっただろう。
勇者レオや、聖女エリカにとって、奏は『民を騙すための都合のいい道具』に過ぎなかった。
旅の道中、彼らがどれだけ裏で横暴を働き、私腹を肥やし、弱者を踏みにじっていようとも、奏が舞台の上で「勇者様は素晴らしい」「我が国は正義に満ちている」と歌えば、愚かな民衆はそれを信じ、歓声をあげた。
奏の歌は、彼らの醜い悪行を隠蔽するための、ただの綺麗な目隠しだったんだ。
奏が必死に『みんなのために』と願って捧げていた歌は、誰の心も救ってなどいなかった。それどころか、様々な国の権力者たちを喜ばせ、スラムで飢える本物の弱者たちから目を背けさせるための、最悪の加害兵器だったのかもしれない。
そして用済みになれば、彼らは手のひらを返した。
『スキルの成長が見込めない無能』
『ただの男のくせに、いつまで可愛い子ぶっているんだ』
『薄汚いスラム出身の分際で、聖なる舞台を汚した不浄の者』
浴びせられた罵詈雑言の数々。信じていた人間たちからの、裏切りの視線。
「……奏様? 顔色が優れませんが、いかがなさいましたか」
マルバスの落ち着いた声が、奏を暗い過去の底から引き戻した。
ハッと息を呑み、気がつけば奏は、図書室の椅子の上で自分の膝を白くなるほど強く握りしめていた。冷や汗が背中を伝うのを感じる。
「あ……いえ、なんでも、ありません。すみません、少し、昔のことを思い出してしまって……」
奏は慌てていつもの「完璧な微笑み」を作ろうとしたけれど、うまく口元が動かなかった。
民を照らす鏡。もし自分がまた、誰かを照らす存在になるのだとしたら、今度こそ、本当の光になれるのだろうか。それとも、また誰かの都合のいい道具として、偽りの希望を振りまくだけの偶像になってしまうのだろうか。その恐怖が、奏の胸を強く締め付けていた。




