42.光に満ちた泥の街での一夜限りの宴
王宮の軍勢が這う這うの体で逃げ去り、あの禍々しい魔笛の呪いが完全に浄化されてから数日。スラム街は、これまでにない活気と笑顔に包まれていた。
どんよりと垂れ込めていた灰色の雲はどこへやら、透き通るような青空から暖かい光が降り注いでいる。崩れかけていた小屋は、スラムの若者たちと、アスモデウスが呼び寄せてくれた不器用な下級魔族たちの手によって、以前よりもずっと頑丈に建て直されていた。
「奏様、本当にありがとう……! あなたの歌が、俺たちを、この街を救ってくれたんだ」
「奏ちゃん、これ、少ないけど食べて!」
広場を歩けば、あちこちから住人たちが集まってきて、次々と感謝の言葉をかけてくれる。泥だらけの手で差し出される不揃いの果物や、ボロボロだけど綺麗に洗われた小芋。そこには、王宮にいた頃に浴びせられていた強要された称賛や打算的な期待なんてものは一切なかった。あるのは、ただ純粋な、奏という一人の人間に対する温かい『感謝』の気持ちだけ。
自分の足で泥の輪に入り、みんなを守るために声を枯らしてよかった。みんなの弾けるような笑顔を見つめながら、奏は胸の奥がじんわりと熱くなるのを確かに感じていた。
「ちょっと、奏。いつまでそんな締まりのない顔をして泥ネズミたちと戯れているのよ」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、奏の隣に並んだのはセイレーンのリリアだった。彼女は極彩色の美しい羽を器用に折り畳み、ボロボロのメイド服を着た奏をジロジロと見てため息をつく。
「勘違いしないでよね。私はただ、あなたのあの妙な歌の仕組みに、音楽家としてほんの少しだけ興味が湧いたからここに残っているだけなんだから。別に、あなたと友達になりたいとか、そういうわけじゃないんだからね!」
「うん、わかってるよ、リリア。いつも一緒にいてくれてありがとう」
「なっ……! だから、お礼なんて言われる筋合いは――!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向く彼女は、今や奏の『熱心な友人』だった。口を開けばツンツンとした言葉ばかり飛び出すけれど、奏の喉を心配して魔界の珍しいハーブティーを淹れてくれたり、歌のレッスンに付き合ってくれたりする、誰よりも優しい女性。
そんなリリアを連れて、奏はスラム街の片隅にある、バーバラが営む古びた酒場『夜鴬の止まり木亭』へと向かった。
王宮の方では、今回のスラム街壊滅作戦は『聖女エリカと勇者レオの度重なる暴走と独断』として片付けられ、正式に軍の撤退が決まったという。つまり、この街に本当の平穏が訪れたのだ。
この最高の報せを祝して、今夜は『夜鴬の止まり木亭』で一夜限りの特別な宴――奏とリリアの合同ライブを開くことになった。
「さあさあ、今夜は魔王様のお奢りだ! 遠慮せずにガブガブ飲みな!」
バーバラの豪快な掛け声とともに、宴が始まった。
酒場の中は、まさに混沌、だけど最高に幸福な空間だった。
長机を挟んで、スラムの住人たちと魔王軍の幹部たちが肩を組み合って笑っている。レイルが不器用な魔族の大男に酒を注ぎ、子供たちは姿を隠すのをやめた上級悪魔の尻尾にぶら下がって遊んでいる。そして部屋の特等席では、アスモデウスがハーブ酒を片手にボロ泣きしていた。
「奏とリリアのデュエット……尊い……この空間の全粒子が聖なる光に満ちている……」
奏とリリアが即興で紡ぐ歌声に合わせて、人間も魔族も、人種なんて関係なく全員がステップを踏み、木製のジョッキを掲げる。夜が明けて、東の空が白み始めるその瞬間まで、奏たちの歌と笑い声は、スラムの街に響き渡り続けた。




