40.孤独な海妖への鎮魂歌(レクイエム)
奏の背後に広がる、紅蓮と純白のグラデーションの翼。それが、アスモデウスから受け取った無尽蔵の魔力をまとい、世界の空を美しく引き裂くように羽ばたいた。
もう、喉を締め付ける鎖のような呪いはどこにもない。奏の胸の奥から溢れ出るのは、ただひたすらに、目の前で傷つき、怯える人たちを救いたいという純粋な祈りだけだった。
「――っ、アーーーーーーーーーー……!」
奏の唇から放たれた最初の一音が、スラム街の濁った大気を一瞬で清浄なものへと塗り替えていく。
それは、リリアが先ほど披露した神聖の歌のような、聴く者を圧倒し、ひれ伏させるための威圧ではない。凍てついた大地に春の陽だまりがじわじわと染み込んでいくような、絶対的な包容力を持った、奇跡のグランドライブの幕開けだった。
「な、何よ、この波長は……!?」
上空のリリアが、驚愕に顔を歪ませて自分の美しい羽を震わせた。彼女は奏の歌声を打ち消そうと、再び必死に喉を鳴らして高音を響かせる。
だけど、もう遅かった。彼女の歌がどれだけ完璧な旋律であっても、それは、恐怖による支配という狭い檻の中の音に過ぎない。対する奏の歌は、アスモデウスが奏を全肯定してくれたあの盲目的な愛と、スラムの仲間たちが奏を家族として迎えてくれた温かい絆――そのすべてを融合させた、世界の理不尽を融かすための光そのものだった。
奏の声が重なるたび、リリアの紡ぐ神聖のベールが、ガラスのようにパリン、パリンと小気味いい音を立てて砕け散っていく。奏の歌の波動は、彼女の神聖さを完全に凌駕し、瞬く間にスラム街全体の空を、眩いばかりの紅蓮の粒子で満たしていった。
「どうして……! なぜ私の完璧な歌が、こんな人間に媚びた小鳥の囀りに押し流されるのよ!」
リリアは必死に声を張り上げるが、その旋律は徐々に乱れ、悲鳴のような焦燥が混じり始めていた。
宙に浮く彼女と視線が交わった瞬間、奏の感覚は、リリアの歌の奥底に隠された本質へと深く潜り込んでいった。
(ああ……、冷たい。なんて、寂しい音なんだろう……)
共鳴する魔力の中で、奏の脳裏にリリアの記憶の断片が流れ込んでくる。
かつて古代の戦いで人間に、そして魔族に恐れられ、暗い海の底へと何百年も封印されていた彼女の魂。誰にもその歌を聴いてもらえず、ただ恐ろしい魔獣として世界の果てに置き去りにされていた孤独。
彼女が奏の歌を「人間に媚びた偽物」と執拗に罵ったのは、かつて誰よりも、誰かに自分の歌を愛してほしかったという、激しい喪失の痛みの裏返しだったんだ。王宮の魔笛に操られる甘んじていたのも、ただ、自分の声を世界に響かせるための依り代を求めていたからに過ぎない。
「リリア……。あなたも、僕と同じだったんだね」
奏は彼女を拒絶するのではなく、その孤独の傷に寄り添うように、さらに優しく、深いメロディを紡いだ。
「一人で暗い底にいるのが、怖かったんでしょう? 誰も自分の名前を呼んでくれないのが、苦しかったんでしょう? ……もう、大丈夫だよ。あなたのその美しい歌声は、誰かを傷つけるためのものじゃないはずだ」
奏の歌声が、リリアの剥き出しの魂をそっと包み込む。
彼女の琥珀色の瞳から、すうっと刺々しい敵意が消えていった。かつて自分が味わった孤独の痛みが、奏の歌の温もりによって、じわじわと解きほぐされ、癒やされていくのを感じているようだった。彼女の唇から漏れる音が、鋭い牙を剥いた拒絶から、震える涙のようなハミングへと変わっていく。




