38.歌の真理、偽物への宣戦布告
腕の中に横たわるアスモデウスの身体は、驚くほどに熱く、そして急速に冷たくなろうとしていた。
へし折れた漆黒の角、引き裂かれた翼、そして奏のメイド服を赤黒く染め上げていく、大量の魔王の血。すべてが、奏という不完全な存在を、ただ守るためだけに支払われた代償だった。
「奏……歌え……。歌って、くれ……」
血の混じった息を吐き出しながら、アスモデウスはなおも、奏の頬に添えた手を離そうとしなかった。
その紅蓮の瞳を見た瞬間、奏の脳裏に、これまでのアスモデウスの姿が走馬灯のように、鮮烈に蘇ってきた。
初めて魔王城の玉座の間で出会ったとき、アスモデウスは奏を見て、文字通り椅子から転げ落ちて悶絶していた。奏がただ生きているだけで「尊い」と涙を流し、奏が少し声を出すだけで「全宇宙の奇跡」だと本気で叫んでいた。過激すぎる条例を作って城の魔物たちから奏を隔離したのも、この泥だらけのスラムで場違いなほど過剰に奏をエスコートしたのも――その根底にあったのは、いつだって同じ、どこまでも純粋で、盲目的な『推し』への眼差しだった。
(ああ、そうだ……。この人は、僕が『完璧な道具』だから愛してくれたんじゃない。なんでそんなことを思ったんだろう)
王宮の連中は、奏の歌がもたらす利益や治癒の奇跡だけを求めた。それが使えなくなれば、用済みだとゴミのように捨てた。
だけど、アスモデウスは違った。奏が泣いていても、泥にまみれていても、声を失いかけていても、アスモデウスはただ「奏が奏であること」そのものを、命を懸けて肯定し続けてくれた。世界中の誰もが奏の歌を偽物と笑おうとも、この人だけは、奏という存在そのものの熱狂的な信者でいてくれたんだ。
アスモデウスの網膜に焼き付いている、奏という光。
それを、こんな絶望の底で、奏自身の諦めによって消してしまうことなんて、絶対に許されない。
奏の胸の奥で、カチリ、と、何かが嵌まる音がした。
喉を締め付けていた魔笛の呪いの鎖が、アスモデウスの残した愛の熱によって、内側からドロドロと溶けていく。
「ふふ、まだ諦められないの? 哀れな小鳥さん」
上空から、リリアが嘲笑を投げかけてくる。彼女の背後では、暴走した魔笛の紫色の霧がスラムの建物をさらに削り取り、怯える住人たちを恐怖で縛り付けていた。
「私の歌は完璧。神聖にして絶対の美。それに比べて、あなたの歌は人間に消費されるだけの、ただのまやかし。声を失ったあなたに、一体何ができるというの?」
「……違う」
奏は、アスモデウスの手をそっと自分の頬から下ろし、泥の中にしっかりと両足をつけて立ち上がった。
まだかすれている。だけど、今度はもう、喉の震えは恐怖によるものじゃなかった。
「リリア。あなたの歌は確かに完璧で、綺麗かもしれない。……だけど、それはただの『暴力』だ」
「何ですって?」
リリアの琥珀色の瞳が、不快そうに細められる。奏は彼女を真っ直ぐに見据え、お腹の底から、このスラム街の空気をすべて震わせるような声で叫んだ。
「あなたの歌は、みんなの心を縛り付けて、無理やり従わせるためのものだ! 恐怖と圧倒的な力で、聴く人の心を支配しているだけだ! そんなのは、王宮の連中が僕の歌を道具にしていたのと、何も変わらない!」
そうだ。奏はかつて、自分の歌が誰かを騙すための道具にされるのが嫌で、歌うことを恐れた。
だけど、アスモデウスが奏に教えてくれた。歌は、誰かを支配するためのものじゃない。誰かを無理やり跪かせるためのものじゃない。
「僕の歌は、誰かを支配するためじゃない! 傷ついた人に寄り添って、一緒に泣いて、もう一度立ち上がるための、ただ一つの『光』なんだ! 自分の正義を押し付けるだけのあなたの歌こそ――本当の、偽物だ!!」




