37.歌を捨てる決意と血塗られた懇願
「なぜ……、どうして僕なんかを庇ったんですか……!」
奏はアスモデウスの巨体を支えようと必死に手を伸ばしたが、アスモデウスの身体はあまりにも重く、奏たちは二人して泥の中に倒れ込んだ。アスモデウスの胸からは、今もドクドクと、温かい魔王の血が流れ続けている。
右を見れば、家を壊され、泣き叫びながら逃げ惑うスラムの仲間たち。
正面を見れば、奏を偽物と嘲笑い、冷酷に見下ろすセイレーンのリリア。
そして奏の腕の中には、奏を鳥籠から出し、守ると誓ってくれた、世界で一番大切な奏のファンが、瀕死の重傷を負って横たわっている。
(僕のせいだ……。全部、全部僕のせいなんだ……)
奏が歌を歌いたいなんて願ったから。奏が一人の人間として立ち上がりたいなんて思い上がったから。
王宮にいた頃と同じだ。奏の存在そのものが、周りのすべてを不幸に巻き込み、傷つけ、破壊していく。奏の歌は、みんなを救う奇跡の光なんかじゃない。大切なものをすべて引き裂いていく、最悪の呪いだったんだ。
「もう……歌わない」
奏は喉を押さえ、涙まみれの顔で、静かに、だけど決定的な絶望とともに呟いた。
「もう二度と、歌なんて歌わない! 僕が歌わなければ、誰も傷つかずに済んだんだ! 僕はもう、ただの無能でいい……。だから、これ以上みんなを、アスモデウスを傷つけないでっ!」
奏は自ら歌という存在のすべてを捨て去り、心の暗闇の奥底へと、完全に閉じこもることを選んだ。声を失ったのではない。奏は、奏自身の意志で、二度と響かないように、その魂の喉を完全に潰したのだ。
奏のその言葉を聞いた瞬間、奏の腕の中で意識を失いかけていたアスモデウスの身体が、ビクリと大きく震えた。
「か、……な、で……」
ゴボリ、とアスモデウスの口から再び鮮血が溢れる。アスモデウスは、死線に彷徨うその薄れゆく意識の中で、残された全ての力を振り絞るようにして、奏の泥まみれの頬に、その大きな手をそっと添えた。その手は、驚くほど熱く、そして、奏の涙を拭うように優しく動いた。
「……何を、言うのだ……。お前は……、俺の……、世界を、照らす……最高の、歌姫……だろう……っ?」
紅蓮の瞳が、血の膜に覆われながらも、狂おしいほどの熱量を持って奏を真っ直ぐに見据えていた。それは、魔王としての命令ではない。一人のオタクとしての、命を懸けた、切実なる願いだった。
「奴らの……、戯言に……耳を貸すな……。お前の歌は……、偽物などでは、ない……。俺が、この俺が……、世界で一番……お前の歌に、救われたのだから……っ」
アスモデウスの指先から、ポタポタと奏の顔に血が滴り落ちる。アスモデウスは、自分の命が消えかけていることなんてどうでもいいとでも言うように、ただ奏が歌を捨てることだけを、激しく拒絶していた。
「奏……、歌え……。歌って、くれ……。俺は……、お前の、歌が……、もう一度……聴きたい……っ。お前の、歌が……、世界で、一番……尊いのだと……、あの、クズどもに……証明して、みせろ……っ!!」
それは、血を吐きながらの、魂の懇願だった。
すべてを失い、自ら心の檻へと閉じこもった奏に向かって、アスモデウスは瀕死の体で、その檻の扉を、こじ開けようと叫んでいた。
アスモデウスの血の温もりと、あまりにも狂信的で、どこまでも純粋な愛が、奏の凍りついた心の暗闇を、激しく叩き壊そうとしていた。




