35.喪失の感覚、冷酷なる嘲笑
「嫌だ……、みんな、僕を見て! 忘れないでっ!」
狂おしいほどの焦燥感に駆られ、奏は喉がちぎれんばかりの力で、もう一度歌おうとした。みんなの心を、奏の大切な人たちを、あの呪いから引き剥がすために。
「あ、あ、――カ、は……っ」
その時、奏の身体の奥底で、何かがパキリと音を立てて崩壊した。
喉から出たのは、美しく澄んだ奏の歌声ではなかった。カサカサと乾燥した、まるで老人の吐息のような、酷く掠れた、醜いノイズ。
「……え?」
声が、出ない。
それだけじゃない。自分の喉でありながら、どこに力を入れれば音を結べるのか、どうやって息を響かせればいいのか、その感覚が完全に消滅していた。
まるで、自分の身体の中にあった歌という概念そのものが、根こそぎ奪い取られてしまったかのような、凄惨な喪失感。声帯が、肺が、奏の意志を完全に拒絶している。
自分の声が、自分のものでなくなった感覚。
歌うことでしか自分の存在を証明できなかった奏から、歌を奪えば、後に残るのは何もない。
(これじゃ、僕はまるでただの『空っぽのゴミ』じゃないか……)
王宮で無能と罵られたあの日の恐怖が、今度は現実の肉体の部位として、奏を完全に沈黙させた。奏は喉を押さえ、絶望のあまり泥の中に崩れ落ちた。
声も、仲間も、積み上げてきた覚悟も、すべてを失って泥の中に丸まる奏。
その哀れな姿を見下ろし、リリアの歌声がピタリと止んだ。スラムの住人たちは、糸の切れた人形のようにその場に呆然と立ち尽くしている。
リリアは優雅に地上へと降り立ち、泥を這う奏のすぐ目の前で、冷酷な、美しい笑みをその唇に浮かべた。
「ふふ……、あはははは! 見苦しいわね、偽物の歌姫。声を失い、民に忘れ去られ、泥水をすする。それが、身の程知らずに人間に媚び、魔王に甘えていたあなたの、本当の価値よ」
彼女の冷たい笑い声が、奏の頭上から容赦なく降り注ぐ。
背後で、アスモデウスが奏を救おうと激しい魔力を解放するのが分かったけれど、今の奏の心には、その温かさすら届かなかった。
すべてを失った。奏はやっぱり、誰のことも救えない、ただの無力な存在だったんだ。
リリアの嘲笑と、魔笛の残響が響くスラムの底で、奏は深い、底なしの絶望へと、ただ静かに沈んでいくのだった。




