34.絶対なる「神聖の歌」、届かぬ声
これっぽっちも、勝てる気がしなかった。
セイレーンのリリアが大きくその翼を広げ、ゆっくりと宙へ浮き上がった瞬間、世界のすべてが彼女の支配下に置かれたような、圧倒的な錯覚に囚われた。
「人間どもに媚び、愛玩物として飼い慣らされた小鳥よ。本物の『歌』がどのようなものか、その魂に刻むがいいわ」
リリアの琥珀色の瞳が怪しく光る。エリカの吹く歌殺しの魔笛の禍々しい旋律を吸い込みながら、彼女はその美しい唇を開いた。
「――ア、アーーーー……」
その瞬間、脳髄を直接揺さぶるような、凄まじい衝撃がスラム街を駆け抜けた。
それは、奏がこれまで聴いてきたどんな音楽とも違っていた。天から降り注ぐ光の粒子のように神聖で、同時に、聴く者の心を強引にねじ伏せるような、絶対的な強制力を持った旋律。
リリアの歌声は、魔笛の呪いと融合し、物理的な波動となって大気を震わせる。スラムのどんよりとした灰色の雲が割れ、まるで彼女を祝福するかのように、一筋の美しい後光が差し込んできた。
神聖でありながら、底知れない恐怖を内包した「神聖の歌」。そのあまりにも完璧で、一切の迷いのない美しさに、奏はただ息を呑み、その場に立ちすくむことしかできなかった。
恐ろしいのは、その歌声がもたらした「効果」だった。
「ああ……、なんて、なんて美しい歌声なんだ……」
さっきまで奏の周りに集まり、王宮への怒りを燃やしていたスラムの住人たちの目が、一瞬にして虚ろに濁っていく。
レイルが、そして小さな子供たちが、まるで魂を吸い取られたかのように、ふらふらとリリアへと歩き出し、泥の中に跪いた。彼らの顔からは一切の感情が消え失せ、ただリリアの歌声に陶酔し、彼女を神のように崇める奴隷のそれへと変わっていく。
「みんな! 聴いちゃダメだ! 目を覚まして!」
奏は必死に叫んだ。みんなの正気を取り戻すために、奏も自分の歌を届けようと、喉に力を込める。
「――っ、~~~っ!」
だけど、奏の歌声は、リリアの圧倒的な旋律の渦にかき消され、スラムの住人たちには一音たりとも届かない。それどころか、魔笛の呪いが奏の声を拒絶するように喉を締め付け、紡いだはずのメロディが霧のように霧散していく。
みんなの視線は、泥にまみれた奏を完全に通り越し、宙で輝くリリアだけへと向けられていた。かつて奏の歌に涙し、笑顔をくれたスラムの家族たちが、今は奏の存在すら忘れたかのように、別の歌姫に心酔している。
奏の居場所が、奏の繋いできた絆が、彼女の歌声一つによって、いとも簡単に塗り替えられ、奪われていく。届かない奏の声は、ただの哀れな雑音として、冷たい風にかき消されるだけだった。




