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32.歌殺しの魔笛

 一度は地面にめり込み、完全に戦意を喪失したかに見えた勇者レオと聖女エリカ。しかし、彼らの誇りと執念は、奏たちの想像以上に醜く、そしてしぶとかった。

 正規軍の残党に引きずり出されるようにしてクーターから脱出した二人は、這うようにして自分たちの本陣へと退却していった。これで終わりだ――そう誰もが安堵したのも束の間、彼らが王宮の奥深くから持ち出していた『とっておきの切り札』をその手に掲げた時、スラムの空気は再び絶望へと塗り替えられた。


「おのれ、おのれ魔族どもめ……! よくもこの私に恥をかかせてくれたわね……!」


 エリカが泥に汚れた手で天幕の奥から引きずり出してきたのは、禍々しい紫色の光沢を放つ、骨でできた一本の縦笛だった。それを見た瞬間、奏の喉の奥がキュッと凍りついた。


「あれは……王宮の秘宝、『歌殺しの魔笛』!?」


 かつて王宮の資料室でその存在を知り、あまりの恐ろしさに戦慄した記憶が蘇る。

 それは、世界中の歌姫や音術士たちの声と魔力を喰らい、その旋律を呪いへと反転させるために作られた、古代の禁忌の遺物だった。道具として奏の声を搾り取っていた王宮が、もし奏が反旗を翻した時のためにと、密かに保管していた呪物そのもの。


「ハハハ! 奏、お前がいくら魔王の威光を傘に着ようとも、その喉を潰してしまえばただの置物だ! エリカ、やれ! その偽りの光を、今すぐ永遠の絶望へと変えてやるのだ!」


 レオが狂ったように叫ぶ。エリカはその青白い唇に魔笛を当て、ありったけの魔力を込めて、その穴へと息を吹き込んだ。

  キィーンと鼓膜を直接針で突き刺すような、不快極まりない高周波の音がスラム中に響き渡る。その音波が広がると同時に、奏の胸を掻きむしるような激しい動悸が襲い、声帯が、まるで目に見えない鎖で縛り上げられるかのように激しく締め付けられた。

 魔笛から放たれた紫色の濃霧が、スラムの広場の中央で激しく渦巻く。その霧の奥から、美しい、だけど背筋が凍るほど冷酷な歌声が漏れ聞こえてきた。


「――お呼びですか、王宮の哀れな道化たちよ。我が名はリリア」


 霧を割って姿を現したのは、人間の女性の上半身と、極彩色の美しい羽、そして鋭い鳥の爪を持つ伝説の魔獣――セイレーンのリリアだった。

 彼女はかつて、その至高の歌声で数々の船を難破させ、魔界でも一目置かれていた高位の海妖だった。しかし、なぜ彼女が王宮の、それもエリカの操る魔笛の召喚に応じているのか。

 リリアの冷徹な、すべてを見透かすような琥珀色の瞳が、真っ直ぐに奏を捉えた。


「あなたが、人間どもに『奇跡の歌姫』ともてはやされていた少年ね。……呆れたわ。まさかこれほどの高位の魔力を持っていながら、あのような脆弱で強欲な人間界に媚びを売り、彼らの玩具として声を枯らしていたなんて」


 リリアは奏の前にゆっくりと降り立つと、その鋭い爪を奏の喉元へと突きつけた。


「あなたの歌は、人間たちの都合のいい欲望を満たすために放たれた、薄っぺらな『偽物』よ。心などそこにはない。ただ家畜のように飼い慣らされ、拍手を浴びて満足していただけの、哀れな人形の囀り。そんな汚れた声で『みんなを救う』などと、よくも大言壮語が吐けたものね」

「偽物……、僕の歌が……?」


 リリアの言葉は、奏がずっと心の奥底に隠し、見ないようにしてきた『かつての自分への嫌悪感』を、的確に、そして容赦なく抉り出してきた。王宮で言われるがままに歌い、民衆を欺くための道具になっていたあの頃の奏。彼女の言う通り、あの時の奏の歌には、本当に自分の意志なんてあったのだろうか。

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