30.絶対強者の鉄槌
その時だった。
ドクン、と。
奏の心臓が、恐怖とは全く違う『何か』によって、一瞬だけ停止したような錯覚に陥った。
――世界から、すべての音が消えた。
風の音も、エリカの狂った笑い声も、王宮の軍勢のざわめきも。すべてが、まるで分厚い氷の中に閉じ込められたかのように、完全に静止した。
信じられないほどの、圧倒的な『殺気』が、スラム街の全域を瞬時に支配したのだ。
奏のすぐ後ろの空間が、バリバリと黒い稲妻を放ちながら、生き物のように裂けた。
姿を隠していた隠蔽魔術が、内側から爆発する魔力によって粉々に吹き飛ぶ。そこから現れたのは、もはやオタクの影など微塵もない、真の絶望を体現した魔王アスモデウスの姿だった。
「――お前ら、今、俺の奏に何をした?」
その声は、低く、静かだった。だけど、大気を、大地を、人々の魂を、直接削り取るような悍ましい響きを持っていた。
アスモデウスの紅蓮の瞳は、底なしの奈落のように濁り、その頭上の角からは、空間を歪ませるほどの漆黒の魔力が溢れ出している。
アスモデウスの我慢の限界は、奏の頬にエリカの杖が触れた瞬間に、完全に消し飛んでいたのだ。
「ひ……、あ……」
さっきまでイキり散らしていた勇者レオの顔から、一瞬で血の気が引いた。大剣を握るその手が、ガタガタと目に見えて震え始める。聖女エリカにいたっては、アスモデウスが放つ規格外の威圧感だけで息ができなくなり、喉をかきむしりながらその場にへたり込んだ。
スラムの住人も、王宮の正規軍も、一人残らずその場に直立不動のまま硬直している。動けば、その瞬間に魂ごと消滅させられると、本能が理解しているからだ。時が止まったかのような絶望的な静寂の中、魔王の怒りだけが、ゴオォォ、と不気味な重低音を響かせていた。
「俺の前で、俺の最愛の光を汚し、傷つけ、泥に塗れさせた……」
アスモデウスが一歩、前へと足を踏み出す。その足が地面に触れた瞬間、周囲の空間がガラスのようにひび割れた。
「神の正義だと? 洗脳だと? 笑わせるな、下等生物どもが。お前らのその汚れた手、不浄なる口、存在のすべてが、俺の奏に対する大逆不敬罪だ。……塵すら残さず、奈落の底で永遠に悔いるがいい」
アスモデウスが、静かに右手を天へと掲げた。
その指先が、スッと下を向く。
「――『重力崩壊』」
スラム街の広場に、凄まじい質量爆弾が落ちたかのような大轟音が炸裂した。
だが、それは爆発ではない。超高密度の重力が、ピンポイントでレオとエリカの二人だけに叩きつけられたのだ。
「がはっ……!?」
「あぎゃあぁぁぁーーっ!?」
二人の悲鳴は、一瞬で押しつぶされた。
防具や魔力防御など、何の意味もなさなかった。圧倒的な神の如き力によって、勇者レオと聖女エリカの身体は、泥の大地ごと、一瞬にして地中へとめり込んでいった。
二人の立っていた場所には、直径十メートルを超える巨大なクレーターが出来上がっており、その中心で、レオとエリカは首から下を完全に土の中に埋められ、身動き一つ取れずに白目を剥いて泡を吹いていた。
王宮の正規軍は、その光景を見て完全に戦意を喪失し、武器を投げ捨ててガタガタと震え上がった。スラムの住人たちも、魔王の文字通りケタ違いの破壊力を前に、言葉を失って立ち尽くす。




