02.遠くからの悶絶と、聖なる推し活
厨房を出て、朝食を載せたワゴンを押しながら大回廊を進む。
アスモデウスの寝室へと続くその通路の途中で、奏はふと、強烈な視線を感じて足を止めた。大理石の太い柱の陰から、禍々しくも美しい二本の角がわずかに覗いている。
(あ……、またあそこにいる)
気配を完全に隠しているつもりのようだけれど、奏には丸分かりだった。この城の絶対強者であり、自分をここに迎えてくれた魔王アスモデウスだ。
柱の隙間から覗くその顔は、魔王としての威厳など微塵もなく、ただただ奏を凝視して激しく悶絶している。あまりの熱量に呼吸を忘れているのか、漆黒の長衣に包まれた胸が激しく上下し、今にも鼻血を噴き出しそうなほど顔を真っ赤に染めていた。
「魔王様、そこでおいたわしそうに胸を押さえ、鼻血を堪えるのはおやめください。威厳が地に落ちております」
アスモデウスの背後から、冷徹極まりないマルバスの声が響くのが聞こえた。奏はワゴンを止めて、そっと耳を澄ませてみる。
「黙れ、マルバス! お前にはわからんのか!? あの給仕服の絶妙な丈、自由を愛する奏が自らの意志で髪をハーフアップにまとめているその健気さが! 俺は今、奏が生きているというその事実に、魔界の全エネルギーを捧げて感謝したいのだ!」
「はあ。結構でございますが、王妃候補であらせられる奏様を、いつまであのように下働きの真似事をさせておくおつもりですか?」
「馬鹿者がッ! 奏は、あの健気さこそが至高なのだ! 人間どもに裏切られ、傷つきながらも、なお誰かのために尽くそうとするあの清らかな魂……! それを俺のエゴで城の奥に閉じ込め、退屈な王妃教育とやらに染めるなど、神聖冒涜も甚だしい! 俺はただ、彼がそのままで、自由で、幸福であってくれればそれでいいのだ!」
……また言っている。
アスモデウスの言葉が耳に届くたび、奏は胸の奥がくすぐったくなるような、けれど同時に少しだけ胸が締め付けられるような、複雑な気持ちになる。
アスモデウスはいつもそうだ。奏のファンを自称し、奏のすべてを全肯定してくれる。本当は、奏が近くに行けば喜んでくれるはずなのに、アスモデウスは奏を『神聖な推し』として扱いすぎるあまり、自分から距離を置いてしまうのだ。
「ああ、奏……。お前は今日も世界一可愛いぞ……」
柱の影から漏れ聞こえる、重すぎる愛の呟き。
奏は小さく苦笑いをもらしながら、気づかないふりをすることにした。
「アスモデウス様、朝食をお持ちしました」
あえて少し大きな声で呼びかけると、柱の奥で「ひぃっ!?」という情けない悲鳴と、何かが派手に転倒する音が響いた。
アスモデウスは今日も変わらず、遠くから自分を応援してくれている。その優しさは痛いほど伝わってくるけれど、自分たちの距離は、いつもこの絶妙な『ファンとアイドル』の境界線で阻まれているような気がしてならなかった。




