19.二つの感情
アスモデウスの圧倒的な魔力が、玉座の間の空間を裂くようにして激しく渦巻いた。
アスモデウスが奏とレイルの肩を引き寄せ、漆黒の長衣を大きく翻した瞬間、視界が猛烈な速度で反転する。次元の壁がガラスのように砕け散る不快な轟音のあと、奏たちの足は、懐かしい、だけど酷くひび割れた大地を力強く踏みしめていた。
「――到着だ。ここが、お前の故郷だな、奏」
煤煙と泥の匂い、そして生ゴミが腐ったような、特有のツンとした悪臭。
間違いない。ここは奏が生まれ育ち、そして王宮に連れて行かれるまで必死に生き延びていた、人間界の辺境にあるスラム街だった。
周囲を見渡せば、トタンや木切れを乱雑に組み合わせただけの粗末な小屋がひしめき合い、どんよりとした灰色の雲が、光を遮るように低く垂れ込めている。魔王城のあの息を呑むような豪華絢爛さとは、まさに正反対の、世界の底辺のような場所。
「う……あ……。か、奏様……? 本当に、戻ってきてくれたんだ……!」
アスモデウスの転移魔術の凄まじい衝撃に耐えかねて、その場にへたり込んでいたレイルが、涙目で奏を見上げた。
その声をきっかけに、周囲の物陰から、ボロボロの衣服をまとったスラムの住人たちが、恐る恐る姿を現し始めた。
「おい、見ろよ……あれ、奏じゃないか!?」
「本当だ! 王宮に連れて行かれて、それから魔族に拉致されたって聞いてたのに……!」
「奏様! 奏様が帰ってきたぞ!」
あちこちから、奏の帰還を純粋に喜ぶ歓声が沸き起こる。飢えと、すぐそこに迫る王宮の軍勢への恐怖に怯えていた住人たちの顔に、一瞬だけパッと明るい希望の光が灯った。子供たちが泥だらけの顔を輝かせ、奏の名前を呼びながら駆け寄ろうとする。
――だが、その歓声は、次の瞬間にピタリと凍りついた。
住人たちの視線が、奏のすぐ後ろに立つ存在へと向けられたからだ。
そこにいたのは、燃え盛るような紅蓮の瞳、頭部にそびえ立つ禍々しい漆黒の角、そして世界を容易に破滅させてしまえるほどの圧倒的な覇気を全身から放つ、魔界の絶対支配者――アスモデウスだった。
「ひっ……!?」
「ま、魔王……! 本物の、魔王だ……!」
歓声は、瞬時に悲鳴と絶望の呻きへと変わった。
子供たちは母親のボロボロのスカートの裏へと泣き叫びながら隠れ、大人たちは腰を抜かして泥の中にへたり込む。
奏との再会を喜ぶ温かい空気と、世界を滅ぼす魔王への絶対的な恐怖。その二つの相反する感情が狭いスラムの広場で激しくぶつかり合い、何とも言えない、張り詰めた、奇妙な静寂が辺りを支配していった。




