11.完全に消失したプライベート、飾り物としての絶望
条例の狂気は、さらに奏のプライベートという名の聖域をも侵食し始めた。
ある日の午後、奏が自室のベッドに腰掛け、少し疲れてふぅ、と小さく溜息をついた、その瞬間だった。
ガタガタガタッ!! と、部屋の床がいきなり激しく振動し始めた。
「えっ、何!? 地震!?」
慌てて立ち上がると、部屋の壁が左右にスライドし、そこから巨大な黒い機械構造物が姿を現した。それは、アスモデウスが奏のために特注したという【魔力冷却超高級扇風機】だった。
ゴオォォォォッ!! という重低音とともに、魔界の清涼な冷気が部屋中に吹き荒れる。それと同時に、天井の隠し扉から、顔に防毒マスクを装着した下級悪魔たちが逆さ吊りで何匹も降りてきた。
「奏様が溜息をつかれたぞ! 空気を清浄せよ! 湿度は五十%を維持! 塵一つ残すな!」
彼らは奏と目を合わせないまま、猛烈なスピードで部屋の空気を魔法で浄化し、床を磨き上げ、そして嵐のように去っていった。
残されたのは、完璧に温度と湿度が管理され、フローラルの香りに満ちた、寒気すら覚えるほど清潔な部屋。そして、呆然と立ち尽くす奏一人だけだった。
「……僕、ただ、一息ついただけなのに」
涙がこぼれそうになるのを、奏は必死で堪えた。
もはや、この城の中に、奏のプライベートなんてどこにも存在しなかった。
奏がどこで何をしようとも、すべては魔王の推し活監視網によって把握されている。奏が汗をかけば風が吹き、奏が悲しめば城が揺れる。一見すれば、神様のように至れり尽くせりの扱いだ。
だけど、奏にとっては、それは呼吸をすることさえ許されない、透明なガラスの棺の中に閉じ込められているのと同じだった。
中庭の薔薇園に行っても、同じだった。
奏が鋏を持とうとすると、どこからともなくマルバスが現れ、「奏様のお手を傷つける可能性のある鋭利な刃物の使用は、条例により制限されております」と、鋏を取り上げられてしまう。奏ができるのは、ただ、目の前に並ぶ美しい薔薇を、手を触れることもなく眺めることだけ。
「これじゃあ、ただの飾り物じゃないか……」
ぽつりと、結界に囲まれた部屋で呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。
今の奏は、アスモデウスの愛を満たすための崇高な置物だ。
扱いの良し悪しは天と地ほどの差がある。けれど、一人の『人間』として、一人の『男』としての存在を否定され、ただ都合のいいものとして扱われているという点において、この二つに一体どれほどの違いがあるというのだろう。
奏はベッドに倒れ込み、枕に顔を押し当てた。アスモデウスが用意してくれた最高級のシルクの枕は、驚くほど柔らかいのに、奏の心を少しも温めてはくれなかった。




