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幻想世界のにじいろスープ (3/3)

 止まっていた時がスイッチを押されて動き出したように。ニーナは「ふおおお」と奇声を上げながら、ものすごい勢いで後退した。下がれるだけとことん下がり、最後はびたんと壁にへばりつく。


 怖いより先に、もう色々とわけがわからない。一体誰だ、結局ここはどういうところなんだ、この人どこから出てきた、だいたいなんで名前を知っている。聞きたいこと、聞かなければいけないことはたくさんあるのに、たくさんありすぎて、混乱した頭ではうまく言葉にできない。ただ口をぱくぱくさせているばかり。


 そんなニーナの慌てっぷりを見ながら、謎の魔女は口元に手をやりくつくつと笑った。


「そんなのでベルジェロイとは仲良くやれているのかしら? あれは、もっと破天荒なことをするでしょうに」

「べ、べる……?」

「ベルジェロイ。あなたの師匠よ。ベルジェロイ=エノ=ジュバレーン」

「あっ、ジュバレーン様! お知り合い、なのですか?」

「ええ。ずっと昔からね」


 はあ、とニーナは安堵の混じった息をはいた。戸惑っていたことの一部が解消された。ジュバレーンは伝説的な魔法使い、自分の城を異次元に存在させている通り、時空を移動する術も心得ている。自分と同じように異次元に暮らす友人のもとを訪ね歓談する、そう思えば普通の話だ。熟練の魔法使いが通名をつけたり、二つ名をつけられたりして、普段はそちらの名で交流することもままあること。


 初対面のニーナのことを知っていたことも納得できる。ジュバレーンが話したのだ。うちの弟子はすごいという自慢話なのか、こんな不出来な弟子がという愚痴なのか、どちらかは知らないけれど。


 魔女は手招きをしてニーナを呼び寄せる。ながらに、あの人はね、と楽しそうに語り始めた。


「昔から、今も全然変わらない。傲慢で身勝手でひねくれ者で向こう見ずで子供みたいで、そのくせ一回落ち込むととことん落ち込んでいつまでも引きずるし、もうどうしようもなく馬鹿なやつなの」

「は、はあ……」

「でもね。あの人は強くて優しくて温かい。だから頼って大丈夫。あなたを困らせることはたくさんあるかもしれないけれど、あなたを裏切ることは絶対にないわ」


 そんな心配なんてしたことがない。だが、それをこの人に向かってはっきり言うのは失礼な気がして、ニーナは控えめに頷き答えるだけにした。


 魔女の話はそこで区切りとなった。ニーナが握りしめていたスプーンを取り上げて、戸棚のもとあった場所へ片づけに向かう。魔女がニーナの隣を通り過ぎたとき、爽やかな花の香りが漂った。


 質問をするなら今しかない。そう思ったニーナは、魔女の背中に向かって勢いにまかせ早口で投げかけた。


「あなたは誰なんですか? ここはどこ、どういう場所なんですか。わたしは帰してもらえるんですか? ううん、お城に帰るには、どうすればいいですか」

「そんなにたくさんの質問を一気にしてはいけないって、学校では教わらなかったかしら? 私が居た時は、そういうことをしないよう指導していたのだけれど」

「ごっ、ごめんなさい!」


 肩を跳ねさせて萎縮するニーナ。だが、魔女は相変わらず優しく笑っているから、すぐに肩の力を抜いた。


 それと、頭の中でひっかかるものがあった。この魔女は学校、ナンクアッドの魔法学院に居た時があると言った。そこに学院の開祖の一人であるジュバレーンの知り合いという事実を重ねると……?


 目をぱちくりさせて考えていると、ニーナの頭に魔女の手のひらが置かれた。そのままわしゃわしゃと撫でまわす。 


「私は何者でもないわ。幻想世界に漂う、個ではない、意識のようなもの。人の幻想に依ることでようやく、私は私としてこのように在れる」


 それは誰だという質問に対する答えだったのだろう。しかし、意味合いがよくわからない。ニーナがぽかんとしていると、魔女は手のひらを上に向けて前に出した。


 白くすらりとした指先からキラキラした光がこぼれ落ちる。それとは逆に上の方向へ、すうっと一本の帯が伸びた。虹だ。


「虹は何色かしら?」

「赤とオレンジと黄色と、それから緑に青に紫!」

「それだけ? 黄色と緑の間は?」

「き、黄緑」

「じゃあ、黄緑と緑の間は?」

「むぅ……」


 黄色っぽい緑、または緑っぽい黄色。答えるならそうだけれど、きっとそういうことを聞かれているのではない。それにそう答えたところで、次にはまた「その間は?」と問われるのが目に見えている。


 沈黙、つまり答えられない。それが正解だったようだ。魔女は笑った。


「名前のない色。それでいいの。定義して認識できないだけで、虹の持つ色の数は無限大よ」

「それがこの世界と関係があるのですか?」


「あなたがどう思うか次第よ。私が伝えたかったのは、目で見て何だとはっきりわかるものだけで世界ができているのではないということ。実体はないし、触れることもできないけれども存在している、そういうものが世界にはある。そもそも世界というものだって、あなたの知っている一つだけではない、かもしれない。あなたは今その片鱗に触れている」


「よくわからないです。わたし、そんなに頭が良くないから……」

「わからなくていいのよ。わからないのは、正しい順序を踏んできたのではないから。あなたはまだこれから学び知ること。慌てて理解しようとしなくていい。だから、帰りなさい。幻想の向こう、あなたの居るべきうつつへ。あなたはまだ、こちら側を覗くには早すぎる」


 魔女は手を握って虹の柱を消す。その手で今度はニーナに家の玄関を見るよう促した。


 外を見ると、景色が変わっているではないか。さっきは芝生の中の小道を歩いてきたのに、今は間口がそのまま薔薇のアーチに繋がっている。しかもアーチの距離が長くなっていて、さらには終わりがうっすら色味のある彩雲の中に入り込んでいて出口が見えない。


 あそこを進んだら元の世界に帰れるということなのだろうか。ニーナは虹色の花咲く薔薇のアーチを見て、しかし別の理由ではっとした。薔薇、そう薔薇だ。自分がこの空間へくる羽目になった大元の原因。あの鉢に植えられた薔薇は、もしかしたら――


「あの。ジュバレーン様のお城に、薔薇の鉢植えがあるんです。それって、もしかして、あれと同じ薔薇ですか?」

「ええ」

「枯れかけているんです、その薔薇。どうやって復活させたら、あんな風に花を咲かせてあげられますか」


 魔女は首を横に振った。


「精霊の息吹がない場所にこの花は根付かない。あの城が外と隔絶されている限り、どうやったって枯れるに決まっている。あの人もわかっているはずよ」

「だけどジュバレーン様、まだ育てるつもりはあるみたいです。水やりがしてあったから」

「それが問題よ、本当に。まったく、いつまでも未練がましいわ、もう思い切って捨ててしまいなさい。そうベルジェロイに伝えてちょうだい」 

「そんな! 薔薇がかわいそう、まだ生きているのに……」

「生きている、か。そうか、そうよね」

「はい……だから……助けてあげたいんです」

「わかったわ。少し待って」


 魔女はテーブルに向かうと、スープ鍋の上に両手をかざした。そして目を閉じ、黙したまま祈るように。


 ふわ、と魔女の髪やケープが無いはずの風に舞い上げられた。直後、鍋から光の柱が立ち昇った。強く眩しい光、肌がぞわぞわするほど莫大なエネルギーの塊だ。ニーナは思わず一歩後ずさった。


 やがて光の柱は細くなり、ぷつんと消えた。


 鍋のスープが無くなっている。代わりに鍋底には、小ぶりの水晶玉のような物体が転がっていた。透明だが無色ではない、虹の色が混ざっている。ちょうどスープをそのまま結晶にした雰囲気だ。


 魔女はその虹色の球を拾い上げると、ニーナの手に握らせた。少女の手にぴったりと収まる大きさだ。


「これを薔薇の根元に埋めなさい。そうして大事に育ててあげれば、いつか必ず花を咲かせるでしょう」


 原理はよくわからないけれど、この球がとても力のあるものだとはニーナもすぐに理解できた。その力とは、おそらく生命力のようなもの。虹の水晶玉は手に持っているだけで温かく、胸に抱き寄せると、自分の体の奥底から活き活きとしたエネルギーが沸いてくるのを実感できるのだ。これがあれば、枯れかけた花もきっと元気になる。


 ニーナは顔をほころばせてお礼をいう。お辞儀も何度もして。そんなニーナに、魔女も優しい笑顔を手向けていた。


「さあ、もう行きなさい。虹の向こうまで、迎えも来ているようだから」

「迎え!?」


 そんなまさか。ニーナはたまらず外に走った。薔薇のアーチを駆け抜けて、彩雲につっこむ寸前まで行く。だが、誰もいない。


「ほら、よく目を凝らして」


 家の中にいたはずの魔女の声がすぐ背後から聞こえた。振り返ると、本当にそこに居た。でももう驚かない。


 言われたとおり雲の中に目を凝らす。じっと見る。


 すると、虹のうねりの中に人影が見えた。金色の髪に灰色のローブ。ジュバレーンだ。真剣な顔つきで周囲を広く見回しながら、雲の中をうろうろとしている。名前を呼んでも聞こえていないのか、方向が定まる様子はない。


 しかし探索をするうちに、ジュバレーンもニーナたちの影を見つけたらしい。はっとした表情を見せた後、半ば走るように真っ直ぐとこちらへ近寄ってきた。


 が、互いの姿がくっきりと見える距離までくると、ジュバレーンは驚愕し、その場で足を止めた。彼が凝視しているのはニーナではなく、その後ろに立つ魔女のこと。


「――!」


 ジュバレーンは必死の形相で叫んでいる。が、ニーナたちのところに声は届かない。


 と、ニーナの背中が強く前に押された。直後、ざわざわと激しく木の葉が騒ぐような音も後ろから近寄ってくる。


 振り向くと、もうそこに魔女は居なかった。薔薇のアーチも姿を消し、代わりに虹色の花びらの嵐が迫ってくる。


 ニーナはあっという間に花びらの洪水に飲み込まれた。視界は虹に埋め尽くされ、立っていることもままならず、徐々に前へ押し出される。


 すぐに体が抱きとめられた。ジュバレーンの腕の中にいる。それを確認して、泣きそうになる。ぎゅっと師の灰色のローブを握りしめた。


 それからニーナは謝罪とお礼を言おうとした。しかし言葉を発する前に、まるで魔法にかけられたようにすうっと意識が薄らぎ、消えてしまった。




「――ニーナ……ニーナ!」


 呼び声に目を覚ます。ニーナは芝生の上で仰向けになっていた。心配そうに覗き込むジュバレーンとプリズマの顔が見える。その肩越しに城や温室も。


 ニーナはわあっと叫んで起き上がった。


「ジュバレーン様、プーちゃん……」

「よかったよ、帰って来れて。大丈夫? 体はなんともない?」

「うん。ありがとう」

「プリズマ。中行ってなんか温かいもん、茶でも白湯でもなんでもいいや、持ってこい」

「了解!」


 プリズマが意気揚々と城の中へ飛んでいった。


 なんだか不思議な夢を見ていたようだ。しかしあれは夢ではなかった、その証であるのは手に持っている虹の水晶球。花園も虹色スープも不思議な魔女も、すべて実際に見てきたもの。


 ニーナ、とジュバレーンがいつになく真面目な声音で呼んだ。――ものすごく叱られる。そう思って反射的に身を縮ませた。


 が、そうではなかった。ジュバレーンは怒っている顔をしていない。


「おまえ……フェオルと話したのか?」

「えっ、あっ」

「気づかなかったか」

「い、いえ! あの、もしかしたらって思ってたんですけど、ほんとにそうだったんですか!? なんかの勘違いとかじゃなくって。だって、フェオル様……」

「俺があいつを見間違えるかよ。チクショウ、なんであいつは……!」


 悔しげな声の混じったため息を響かせ、それからジュバレーンはぽつりと呟くように言った。


「あいつは、俺のことを恨んでいただろう」


 いつものように冗談めかした風はない。本気でそう思っているようだ。


 フェオルとジュバレーン、魔法学院を創った二人の間にどんなことがあったのかはわからない。ただ、違う、それは思い込みだ、ということだけは断言できる。


「そんなことないです! 確かに、ジュバレーン様はわがままで偉そうで大馬鹿者だけど」

「うるせえ、馬鹿。馬鹿に馬鹿って言われる筋合いねぇぞ」

「言ったのはフェオル様です! だけど、ジュバレーン様は優しいから、頼りにして大丈夫だって、そう言われました。たぶんですけど、フェオル様は――」

「もういい。それ以上はもう、言わないでくれ」


 どこか不貞腐れたように、どこか悲痛な口ぶりで言い捨てて、ジュバレーンは顔を背けた。


 過去になにがあったのか、それを聞き出そうとは思わなかった。しかし一つだけ、どうしても確かめたいことがある。


「あの。フェオル様は亡くなられたのではなかったのですか。ジュバレーン様と違って、王国にお墓もありました。とっても立派なのが」

「ああ、そうだ。もうこの世の人ではない」


 それはつまり自分が出会ったあの人は、あの場所は……ニーナはぷるりと寒気に震えた。もしもあのスープを食べてしまっていたら、本当に帰らぬ人になっていたのだろう。危ないところであった、フェオル様には頭が上がらない。


 しかしなぜ死んだはずの人が現れて、助けてくれたのだろうか。それに幽霊だというにはどうにも語弊がある気がする。温かかったし、実体もあったし、生きている人と変わらなかった。


 ひっかかりを覚えるニーナに聞こえるか聞こえないかの音量で、ジュバレーンが静かに呟く。


「今日が、あいつの死んだ日なんだ」


『人の幻想に依ることでようやく、私は私としてこのように在れる』


 フェオルの言葉を思い出し、重ね、ニーナは察した。


 ジュバレーンはさっと立ち上がり、ニーナに背を向け去っていく。偉そうに胸を張り、肩で風をきり、目線は天を仰ぎ、尊大な態度で。しかしきっと泣いている。


 ニーナは後ろ姿を見ることもやめた。見ていると辛くなってくるから。そっとしておけ、プリズマにも言われたことだ。


 手に持っていた虹の球を胸に抱く。それは初めて手にした時と変わらず温かく、生命力に満ちていた。


 ――ううん、まだ生きている。


 ニーナは思った。フェオルはまだ生きている。幻想の世界で、幻想の中にだけ生きる人として。こちらの世界で生きる自分たちが思い出を捨て、存在を忘れてしまわない限り、ずっと生き続けるのだ。近くて遠い隣人として。


 あの薔薇は絶対に咲かせよう。そしていつか、立派な薔薇のアーチを作るんだ。そうすれば、アーチの向こうから幻想の垣根を越えてひょっこりと顔を出してくれるかもしれない。そんな幻想を抱いていれば、きっと。


 やってやるぞ。想いを込めてニーナは空に向かって拳を突き出した。手に握っていた虹の水晶が、無限の色をはらんできらきらと輝いていた。


<幻想世界のにじいろスープ 完> 

このお話でオムニバスシリーズ「幻想世界のにじいろスープ」も完結とさせていただきます。

お読みいただきありがとうございました。

また別の幻想でお会いできることを願っております。


2018.4.20 久良 楠葉

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