第2話
次回作のアイデア。
旅先で出会った少女の話。
海辺の町で起こる殺人事件。
時間を越えて届く手紙――。
思いつくままに書き殴っているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。
ふと時計を見ると、針は二十時を回っていた。
「やば……」
悟は思わず苦笑した。
せっかく温泉旅館に来たのに、部屋にこもって小説を書いている。自分でも少しおかしかった。
だが、それが楽しかった。
誰にも邪魔されず、自分の好きな物語だけを考える時間。学校にも家にもない静けさが、この旅館にはあった。
僕は立ち上がると、浴衣の帯を締め直した。
「さてと……いよいよだな」
一人旅最大のイベント。
大浴場。
妙に緊張している自分に笑いながら、部屋を出る。
廊下には旅館独特の静かな空気が流れていた。足元の畳が柔らかく沈み、どこからか湯の匂いが漂ってくる。
壁に掛けられた古い日本画。
小さく流れる琴のBGM。
窓の外には夜の熱海の街明かりが見えた。
僕は暖簾をくぐった。
脱衣所には数人の大人たちがいた。会社帰りらしい男たちが世間話をしながら服を脱いでいる。
誰もこちらを気にしていない。
それが逆に心地よかった。
修学旅行なら、必ず誰かが騒ぐ。
「小宮ー! お前細いなー!」
そんな声が飛んできて、結局落ち着かない。
家族旅行でも、父親が長風呂で母親が怒ったり、妹がアイスを食べたいと言い出したりする。
だが、今は違う。
誰も僕を知らない。
誰も話しかけてこない。
自分だけの時間だった。
身体を洗い、ゆっくりと湯船へ入る。
「……っ」
熱い湯が足先からじわりと身体を包み込む。
肩まで浸かった瞬間、全身の力が一気に抜けた。
「うーん……いい湯だ……」
思わず声が漏れる。
天井を見上げる。
白い湯気がゆっくり揺れていた。
耳に入るのは、湯の流れる音だけ。
僕は深く息を吐いた。
やっぱり来てよかった。
最初は不安だった。
一人で温泉旅館なんて高校生が行く場所じゃない気もしたし、親父にも散々文句を言われた。
だが、来てみると、不思議なくらい心が軽かった。
執筆も思った以上に進んだ。
家では浮かばなかったアイデアが、次々と出てきた。
旅館の静けさ。
海の匂い。
見知らぬ街。
その全部が、小説の世界を広げてくれる気がした。
――癖になりそうだ。
僕はぼんやりそう思う。
だが同時に、現実も思い出した。
財布の中身。
残り少ない小遣い。
帰りの電車代。
「……まあ、当分は無理か」
小さく笑う。
この旅行で、ほとんど使い果たしてしまった。
次に来るには、またしばらく我慢しなければならないだろう。
けれど、その“しばらく”さえ、少し楽しみに思えた。
また来るために頑張ろう。
また新しい物語を書くために。
僕は静かに目を閉じた。
熱海の夜は、まだ始まったばかりだった。
湯に浸かりながら、僕はぼんやり天井を見上げていた。
静かだ。
家の風呂とは全然違う。
誰も騒がないし、誰も入ってこない。弟がドアを叩きながら「早くしろー!」と叫ぶこともなければ、妹のシャンプーを勝手に使って怒られることもない。
ただ、湯の流れる音だけが響いている。
「……ふう」
肩まで浸かっていたせいか、身体がじわじわ熱くなってきた。
あ、まずい。
僕は慌てて立ち上がった。
「のぼせる……」
少しふらつきながら脱衣所へ向かう。
脱衣所の隅では、大きな扇風機がゴォーッと音を立てて回っていた。
僕はその前に座り込む。
「ああぁ……生き返る……」
火照った顔に冷たい風が当たる。
気持ちいい。
最高だ。
僕はぼんやり回る羽を見つめながら、つくづく思った。
「……一人って、いいよなあ」
思わず笑ってしまう。
「はははっ……」
こんな自由、今までなかった。
好きな時間に風呂に入って、好きなだけ小説を書いて、誰にも急かされない。
だが同時に、家族の顔も浮かんできた。
今頃きっと弟たちは騒いでいる。
『お兄ちゃんどこ行ったの!?』
『勝手に消えたー!』
そんな声が聞こえてきそうだった。
その瞬間――。
「ぶぇっくしょん!!」
盛大なくしゃみが出た。
脱衣所にいたおじさんが一瞬こちらを見る。
僕は少し恥ずかしくなって頭を下げた。
「……絶対噂してる」
鼻をすすりながらそう呟く。
すると、脱衣所の横に小さな自販機が見えた。
缶コーヒー。
湯上がりの身体に、それが妙に魅力的に見えた。
僕は小銭を入れ、一本取り出す。
プシュッ。
一口飲む。
「ああ……うま……」
甘い缶コーヒーが喉を通っていく。
たまらない。
これだ。
温泉って、多分これのためにある。
僕は完全に満足していた。
缶を飲み干すと、浴衣を整え、のんびり暖簾へ向かった。
その時だった。
暖簾をくぐった瞬間、真正面から誰かとぶつかりそうになった。
「うわっ」
顔を上げる。
金髪。
しかも、外国人の女の子だった。
透き通るような白い肌に、大きな青い瞳。浴衣姿なのに、どこか映画のワンシーンみたいに目立っている。
僕が固まっていると、その女の子が突然、目を見開いた。
「――小宮くん!」
「……えっ?」
その瞬間、後ろにいたもう一人の外国人の女の子まで、僕を指差して叫んだ。
「あーっ!!」
二人とも、ものすごい勢いでこっちを見ている。
「小宮くんでしょ!?」
「え、いや……」
「ちょっと! 私たち帰れないじゃない! 何とかしてよ!」
「……は?」
僕の頭は完全に停止した。
知らない。
こんな外国人、知らない。
というか、何で僕の名前を知ってるんだ。
しかも二人とも普通に日本語を喋っている。
いやいやいや。
おかしい。
絶対おかしい。
僕はしばらく立ち尽くしたあと、ふと思った。
――あ、これ、ドッキリだ。
多分そうだ。
最近よくあるやつだ。
温泉旅館に一般人を放り込んで、突然外国人美女が話しかけてくるみたいな。
どこかにカメラがあるに違いない。
僕は周囲をちらりと見回した。
やばい。
こんな顔、全国放送されたら終わる。
しかも僕、今かなりヘラヘラしてる気がする。
そう思うと、逆に変な笑いが出てきた。
「……はは……」




