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第1話

僕は、絶対にできないと思われていた宿題をやり遂げた。


 しかも――自分で小説まで書いた。


 その噂は、驚くほどの速さで学年中に広がった。


「小宮、お前マジですごくね!?」


「ねえ、その小説読ませてよ!」


「ウェブ小説とか出したら? 絶対ウケるって!」


 今までほとんど話したこともないクラスメイトにまで声をかけられる始末だった。


 有名人って大変なんだな。


 などと、僕は少し浮かれていた。


 今まで、特に目立つこともなかった僕が、急に周囲から注目されるようになったのだ。


 悪い気はしない。


 むしろ、かなり嬉しかった。


 そして僕は、その勢いのまま本格的に小説を書き始めた。


 不思議なことに、文章は意外なほどスラスラ出てきた。


 あの夢を、何度も頭の中で反芻し、それを文章にしてきた経験が、多少は役に立っているのかもしれない。


 もちろん、プロみたいなすごい文章ではない。


 けれど、自分の頭の中にある景色を言葉にするのは、思ったより楽しかった。


 ただ――。


 やっぱり経験不足なのだろう。


 気づけば、僕の書く話は空想の世界のファンタジーばかりになっていた。


 剣と魔法。


 夢の世界。


 不思議な少女。


 どこか現実離れした物語。


「うーん……」


 机に向かったまま、僕はペンを止めた。


 何かが足りない。


 もっと“本物”が必要な気がした。


 その時、ふと思い出した。


 小説家って、温泉とか旅館で執筆してるイメージないか?


 いや、実際にそうなのかは知らない。


 テレビかネットか、どこかでそんな話を聞いたような、聞いてないような。


 でも――なんだか良さそうだった。


「……行ってみるか。」


 僕は立ち上がった。


 幸い、ちまちまと貯めていた小遣いが少しある。


 せっかくだし、一人旅も悪くない。


 熱海あたりの温泉旅館で、ゆっくり小説を書く。


 なんだか、ちょっと“作家っぽい”。


 そんな軽い気持ちで、僕は温泉一人旅を計画した。


 そして、出発当日。


「熱海と言えば、やっぱ踊り子号だろ。」


 誰に言うでもなく呟きながら、僕は窓際の席に腰を下ろした。


 電車がゆっくり動き出す。


 やがて窓の向こうに海が見え始めた。


 陽の光を受けて、青い水面がきらきらと輝いている。


 空は快晴。


 雲ひとつない。


 そして――僕の心も、快晴だった。


 この時の僕は、まだ知らなかった。


 この旅が、僕の人生をめちゃくちゃにすることになるなんて。


 親父に頼み込んで、温泉旅館を予約してもらった。


 もちろん、ただ頼んだだけではない。


「高校生だけで泊まるには親の承諾書がいるらしいぞ。」


 そう言われた瞬間、親父は露骨に嫌そうな顔をした。


「お前、最近ちょっと調子に乗りすぎじゃないのか?」


「はぁ!?」


 僕は思わず立ち上がった。


「将来有望な小説家の人生を、ここで棒に振らせる気!?」


「いや意味が分からん。」


「創作には経験が必要なんだよ!」


「温泉に行く理由としては過去一でめちゃくちゃだな……。」


 そんなやり取りの末、半ば呆れられながらも、僕はなんとか承諾書を勝ち取った。


 そして晴れて、一人温泉旅行へとこぎ着けたのである。


 列車が熱海駅に到着したのは昼過ぎだった。


 昼食は列車の中で弁当を食べた。


 それも、やってみたかったことの一つだ。


 窓の外を流れる景色を眺めながら駅弁を食べる。


 たったそれだけなのに、なんだか“大人”になった気がした。


 やってみたかったことが、どんどん叶っていく。


 本当に夢みたいだった。


 旅館は熱海駅から徒歩十五分ほどらしい。


 まだチェックインには少し早い。


 商店街をぶらぶら歩いていると、一軒の喫茶店が目に入った。


 その瞬間、僕の中で何かがひらめいた。


「……これは。」


 僕は迷わず店の扉を開けた。


 カラン、と小さなベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。」


 落ち着いた店内。


 静かに流れるジャズ。


 窓際には海が見える席。


 僕は少し緊張しながら席についた。


「ブレンド、お願いします。」


 一人で喫茶店に入り、コーヒーを頼む。


 それすら初めてだった。


 普段飲むコーヒーなんて、せいぜいファーストフード店かドリンクバーくらいだ。


 運ばれてきたコーヒーを一口飲む。


「……苦っ。」


 でも、その苦さすら妙に格好良く思えた。


 窓の向こうには青い海が広がっている。


 駅のホームから海が見えた時も驚いたが、熱海という街は、本当に海が近い。


 潮風が、ほんの少しだけ窓の隙間から入り込んでくる。


 本当に、初めての体験ばかりだった。


 胸の奥のワクワクが止まらない。


 その時、不意に親父の言葉を思い出した。


『調子に乗りすぎるなよ。』


「……。」


 だが、その言葉を僕はすぐに頭の中から追い払った。


 今の僕は、何でもできる気がしていた。


 僕はリュックからノートパソコンを取り出した。


「へへっ。」


 あの有名な映画作家も、喫茶店で執筆していたらしい。


 だったら――。


「僕だって書かないわけにはいかないだろ。」


 今日は、今書いている小説の最終回を書く予定だった。


 一番大事な場面。


 それを旅先の喫茶店で書く。


 なんだか、本当に作家になった気分だった。


 コーヒーを飲みながら、僕は夢中でキーボードを叩いた。


 気づけば三十分が経っていた。


「……完成。」


 思わず笑みがこぼれる。


 やっぱり筆が進む。


 いや、正確にはキーボードだけど。


 店内の少しざわついた空気が、逆に集中力を高めてくれるのかもしれない。


「さてと。」


 僕はパソコンを閉じ、席を立った。


 コンビニで夜食でも買って、それから旅館へ向かおう。


 そんなことを考えながら歩いていると、ほどなくして目的の旅館が見えてきた。


 いかにも“ザ・旅館”という雰囲気の建物だった。


 木造の外観。


 落ち着いた暖簾。


 どこか昔ながらの空気。


「……小説家なのに、こんな描写しかできないのか。」


 僕は苦笑した。


「これが今の僕の実力か。ははは。」


 でも、まあいい。


 今はまだ始まったばかりだ。


 簡単な説明を受けたあと、仲居さんが部屋へ案内してくれた。


 部屋に入った瞬間、畳の香りがふわっと鼻をくすぐる。


「おお……。」


 それだけで、少し感動した。


 しかも窓の外には海が一望できた。


 青い海。


 夕暮れに染まり始めた空。


 ゆっくり進む船。


 そこでまた、親父の言葉が頭によみがえった。


『良い部屋取ってやったぞ。海が一望できる。父さんが行きたいくらいだ。』


「……。」


 結局、まだ親に頼らないと何もできない年齢なんだな。


 そんなことを少し思った。


「早く、一人前にならないとな……。」


 僕は座椅子にもたれ、窓の外を眺めた。


 潮の香りが、わずかに漂ってくる。


 海を見ると、不思議と心が落ち着いた。


 家族旅行で来た時は、弟や妹が騒がしくてゆっくり景色を見る余裕なんてなかった。


 でも今日は違う。


 少しだけ、大人になった気分だった。


 やがて時計は十八時を指した。


 部屋食。


 浴衣に着替え、ゆっくり食事を済ませる。


 そして食後――。


 僕は再びノートパソコンを開いた。


「ふふふ。」


 温泉旅館。


 浴衣。


 海の見える部屋。


 そして執筆。


「……プロっぽい。」


 そんなふうに浮かれていられたのも、この時までだった。



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