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冬。鉄塔。令和ギャル。―閉じた世界を照らす灯火―  作者: 乙都セイ


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9/15

⑨「サイボーグ感あったんすよ」

 正月休みが本格的に明け、世界はまた急ぎ足で動き出した。

 あの日、あんなに弱っていた彼女の背中を見送ってから、一通のLINEが届いた。


『最近ガチで実習バタバタでさ〜。今月まじで休みない死ぬ。またアルちゃんに会いたいよ〜〜!!』


 相変わらずのテンションだ。

 彼女はあの苦いココアの夜を越えて、今は自分の戦場に立っている。それは正しいことだ。

 通知が消え、強引に連れ出されることがなくなった毎日は、以前よりもずっと、静止したように感じられた。


 一度、外の世界の眩しさを。商店街のコロッケの温かさを。バカげたほどに鮮やかな温度を知ってしまった。

 知らなければ、この静寂は平穏でしかなかったはずだ。今は、この静けさが「孤独」という名前を持って、重くのしかかってくる。


 仕事帰りにコンビニに寄って、かつて彼女と食べた「あんまん」を買ってみた。

 口にしても驚くほど味がしない。以前はこれで完結していたはずの無味乾燥な日常が、今はただ、塗りつぶしようのない欠落として俺を苛む。


 年が明けてからの工場は、驚くほどいつも通りだった。

 機械の駆動音と油の匂いが満ちる中、班長として、自分のラインを回しながら後輩たちの作業を見て回る。


「そこ、ちょっとピッチ遅れてるみたい。焦らなくていいから、手元確実に行こうか」

「あ、すんません班長! 助かります!」


 二十そこそこの後輩が、ホッとしたように作業着の袖をまくった。

 以前の俺なら、そうやって現場の無機質で規則正しいリズムを丁寧にコントロールすることに、それなりの充実感と平穏を見出せていた。


 休憩のチャイムが鳴り、自販機の前で缶コーヒーを買い終えた時、先ほどの後輩が隣に並んできた。


「そういえば班長、なんか最近、雰囲気変わりましたよね」

「え? そうか?」

「なんていうか、ちょっと明るくなったっていうか……前はもっとこう、話しかけんなオーラっていうか、サイボーグ感あったんすよ」

「……サイボーグって、お前な」


 苦笑いしながら、保護メガネに反射する自分の前髪に触れる。

 彼女が綺麗に染めてくれたアッシュベージュ。水銀灯の鋭い光の下で見ると、少しだけ根元の黒が目立ち始めている。

 変わった、のだろうか。自分では、あの賑やかな嵐が去って、以前よりずっと暗い底に落ちている気分だった。


「――班長、次のロットの段取り、これでいいですか?」

「あ……うん、ちょっと見せて」


 別の作業員からの呼びかけに、ワンテンポ遅れて意識を戻す。ピントが合っていない。

 周りには「明るくなった」と言われる。指示を出す側の当の本人は、世界をどこか薄暗いフィルター越しに見ている。

 定時を告げるチャイムが鳴り、後輩たちに「みんな、今日もお疲れ様。気をつけて帰ってね」と声をかけ終えると、逃げるように作業着を脱いで工場を飛び出した。


「――ただいま」


 声に出してドアを開けても、部屋は冷え切ったままだ。

 以前は、鍵を開ければテトが真っ先に足元へすり寄ってきた。

 最近のアルは、キャットタワーの天辺から、気怠げにこちらを見下ろすだけの日が増えている。


「……お腹、空いたか?」


 アルに話しかけても、返ってくるのは短い鳴き声だけだ。

 ふとした拍子にアルが玄関を振り返るたび、俺もまた、開かない扉の向こうに、かつての賑やかな気配を探してしまう。

 上着を脱ぎ、ソファに深く腰を沈めると、ようやくアルが膝の上へと飛び乗ってきた。


「お前も、退屈か」


 ゴロゴロと鳴るお腹の音を聞きながら、その柔らかい背中を撫で回す。

 いつもなら、この小さな温もりだけで夜は満たされていた。職場で責任を背負う毎日の疲れを癒やすには、これだけで十分だったはずだ。


 今の俺の手のひらは、アルの毛並みの向こう側に、あの『メタキン先輩』を抱えてフリーズしていたギャルの、小さくて、傷だらけの指先の冷たさを探してしまっている。


 アルを抱き上げたまま立ち上がり、キッチンの隅に目を向けると、あの日彼女に飲ませた「闇の配合」の残骸がそのままになっていた。

 使いかけのココアの袋と、インスタントコーヒーの瓶。


 片付ければいい。それだけのことなのに、なぜか手が動かない。

 これを片付けてしまったら、あの夜、この狭いキッチンに漂っていた熱まで、完全に消えてしまうような気がした。


 ふと視線を落とせば、メタキンを包んでいた大きなビニール袋が、ゴミ箱の横でクシャリと丸まっている。

 主のいなくなった抜け殻。

 かつては「三点」を繋ぐだけの完璧な要塞だったこの部屋が、今はどうしようもなく寒々しい。


 冷蔵庫の低い唸り声が、やけに耳につく。

 以前は気にも留めなかったこの音が、今は彼女の笑い声や、アルと(たわむ)れる衣擦れの音を奪い去った後の「空虚」を、残酷なまでに強調していた。


 ふと、スマホが震えた。心臓が跳ねる。

 届いたのはメッセージではなく、彼女が投稿したお店のインスタの通知だった。

 そこには、俺が贈った銀色の巨大なメタキンを枕にして、ウィッグと格闘する彼女の指先が写っていた。


『メタキン先輩の経験値えぐい。絶対今夜中にタイム入れる! 見てろよ教官!』


 画面越しの彼女は、俺が与えた「経験値」を糧に、泥臭く、けれど確実に前へ進んでいる。


 それに引き換え、俺はどうだ。

 窓の外を見れば、雪を被った鉄塔が冷たく立っている。

「前からあったっけ」なんてとぼけていたあの頃とは違う。

 今は嫌でも目に入る。けれど、一人で見るそれは、ただの巨大な鉄の塊でしかなかった。


 世界の解像度を上げてくれていたのは鉄塔じゃなくて、隣にいたアイツだったんだ。

 その事実が、今の俺をどこまでも惨めにする。


 スマホの画面を開き、トーク画面に「元気?」と打ち込んでみる。

 けれど、その指は送信ボタンを押せないまま止まる。

 俺はただの練習台だ。

 そんなことは分かっている。

 今の俺は、彼女がいないと自分の世界のピントすら合わせられない。


 打ち込んだ文字を、一文字ずつバックスペースで消していく。

 消えていく文字の分だけ、心に空いた穴が、暗く、深く、広がっていくのが分かった。


 結局、メッセージをすべて消去し、再び部屋の灯りを消した。

 最後に彼女が染めてくれた髪は少しずつ色が落ち、根元の黒い地毛が顔を出し始めている。鏡を見るたびに、あの夜の彼女の傷だらけの指先を思い出してしまう。


 ――予約、強制だからね!


 暗闇の中で、その声だけが鼓膜を震わせる。

 その根元の黒を指でなぞりながら、まだ見ぬ次の「予約」を、心のどこかで必死に待ち続けていた。

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