⑨「サイボーグ感あったんすよ」
正月休みが本格的に明け、世界はまた急ぎ足で動き出した。
あの日、あんなに弱っていた彼女の背中を見送ってから、一通のLINEが届いた。
『最近ガチで実習バタバタでさ〜。今月まじで休みない死ぬ。またアルちゃんに会いたいよ〜〜!!』
相変わらずのテンションだ。
彼女はあの苦いココアの夜を越えて、今は自分の戦場に立っている。それは正しいことだ。
通知が消え、強引に連れ出されることがなくなった毎日は、以前よりもずっと、静止したように感じられた。
一度、外の世界の眩しさを。商店街のコロッケの温かさを。バカげたほどに鮮やかな温度を知ってしまった。
知らなければ、この静寂は平穏でしかなかったはずだ。今は、この静けさが「孤独」という名前を持って、重くのしかかってくる。
仕事帰りにコンビニに寄って、かつて彼女と食べた「あんまん」を買ってみた。
口にしても驚くほど味がしない。以前はこれで完結していたはずの無味乾燥な日常が、今はただ、塗りつぶしようのない欠落として俺を苛む。
年が明けてからの工場は、驚くほどいつも通りだった。
機械の駆動音と油の匂いが満ちる中、班長として、自分のラインを回しながら後輩たちの作業を見て回る。
「そこ、ちょっとピッチ遅れてるみたい。焦らなくていいから、手元確実に行こうか」
「あ、すんません班長! 助かります!」
二十そこそこの後輩が、ホッとしたように作業着の袖をまくった。
以前の俺なら、そうやって現場の無機質で規則正しいリズムを丁寧にコントロールすることに、それなりの充実感と平穏を見出せていた。
休憩のチャイムが鳴り、自販機の前で缶コーヒーを買い終えた時、先ほどの後輩が隣に並んできた。
「そういえば班長、なんか最近、雰囲気変わりましたよね」
「え? そうか?」
「なんていうか、ちょっと明るくなったっていうか……前はもっとこう、話しかけんなオーラっていうか、サイボーグ感あったんすよ」
「……サイボーグって、お前な」
苦笑いしながら、保護メガネに反射する自分の前髪に触れる。
彼女が綺麗に染めてくれたアッシュベージュ。水銀灯の鋭い光の下で見ると、少しだけ根元の黒が目立ち始めている。
変わった、のだろうか。自分では、あの賑やかな嵐が去って、以前よりずっと暗い底に落ちている気分だった。
「――班長、次のロットの段取り、これでいいですか?」
「あ……うん、ちょっと見せて」
別の作業員からの呼びかけに、ワンテンポ遅れて意識を戻す。ピントが合っていない。
周りには「明るくなった」と言われる。指示を出す側の当の本人は、世界をどこか薄暗いフィルター越しに見ている。
定時を告げるチャイムが鳴り、後輩たちに「みんな、今日もお疲れ様。気をつけて帰ってね」と声をかけ終えると、逃げるように作業着を脱いで工場を飛び出した。
「――ただいま」
声に出してドアを開けても、部屋は冷え切ったままだ。
以前は、鍵を開ければテトが真っ先に足元へすり寄ってきた。
最近のアルは、キャットタワーの天辺から、気怠げにこちらを見下ろすだけの日が増えている。
「……お腹、空いたか?」
アルに話しかけても、返ってくるのは短い鳴き声だけだ。
ふとした拍子にアルが玄関を振り返るたび、俺もまた、開かない扉の向こうに、かつての賑やかな気配を探してしまう。
上着を脱ぎ、ソファに深く腰を沈めると、ようやくアルが膝の上へと飛び乗ってきた。
「お前も、退屈か」
ゴロゴロと鳴るお腹の音を聞きながら、その柔らかい背中を撫で回す。
いつもなら、この小さな温もりだけで夜は満たされていた。職場で責任を背負う毎日の疲れを癒やすには、これだけで十分だったはずだ。
今の俺の手のひらは、アルの毛並みの向こう側に、あの『メタキン先輩』を抱えてフリーズしていたギャルの、小さくて、傷だらけの指先の冷たさを探してしまっている。
アルを抱き上げたまま立ち上がり、キッチンの隅に目を向けると、あの日彼女に飲ませた「闇の配合」の残骸がそのままになっていた。
使いかけのココアの袋と、インスタントコーヒーの瓶。
片付ければいい。それだけのことなのに、なぜか手が動かない。
これを片付けてしまったら、あの夜、この狭いキッチンに漂っていた熱まで、完全に消えてしまうような気がした。
ふと視線を落とせば、メタキンを包んでいた大きなビニール袋が、ゴミ箱の横でクシャリと丸まっている。
主のいなくなった抜け殻。
かつては「三点」を繋ぐだけの完璧な要塞だったこの部屋が、今はどうしようもなく寒々しい。
冷蔵庫の低い唸り声が、やけに耳につく。
以前は気にも留めなかったこの音が、今は彼女の笑い声や、アルと戯れる衣擦れの音を奪い去った後の「空虚」を、残酷なまでに強調していた。
ふと、スマホが震えた。心臓が跳ねる。
届いたのはメッセージではなく、彼女が投稿したお店のインスタの通知だった。
そこには、俺が贈った銀色の巨大なメタキンを枕にして、ウィッグと格闘する彼女の指先が写っていた。
『メタキン先輩の経験値えぐい。絶対今夜中にタイム入れる! 見てろよ教官!』
画面越しの彼女は、俺が与えた「経験値」を糧に、泥臭く、けれど確実に前へ進んでいる。
それに引き換え、俺はどうだ。
窓の外を見れば、雪を被った鉄塔が冷たく立っている。
「前からあったっけ」なんてとぼけていたあの頃とは違う。
今は嫌でも目に入る。けれど、一人で見るそれは、ただの巨大な鉄の塊でしかなかった。
世界の解像度を上げてくれていたのは鉄塔じゃなくて、隣にいたアイツだったんだ。
その事実が、今の俺をどこまでも惨めにする。
スマホの画面を開き、トーク画面に「元気?」と打ち込んでみる。
けれど、その指は送信ボタンを押せないまま止まる。
俺はただの練習台だ。
そんなことは分かっている。
今の俺は、彼女がいないと自分の世界のピントすら合わせられない。
打ち込んだ文字を、一文字ずつバックスペースで消していく。
消えていく文字の分だけ、心に空いた穴が、暗く、深く、広がっていくのが分かった。
結局、メッセージをすべて消去し、再び部屋の灯りを消した。
最後に彼女が染めてくれた髪は少しずつ色が落ち、根元の黒い地毛が顔を出し始めている。鏡を見るたびに、あの夜の彼女の傷だらけの指先を思い出してしまう。
――予約、強制だからね!
暗闇の中で、その声だけが鼓膜を震わせる。
その根元の黒を指でなぞりながら、まだ見ぬ次の「予約」を、心のどこかで必死に待ち続けていた。




