⑩「ちょい顎引いてもろて〜」
二月二十七日。
冬の終わりを告げるように、商店街の空気は少しずつ柔らかさを帯び始めていた。
吐く息はまだ白い。けれど、頬を撫でる風の奥には、確かに春の匂いが混じっている。
あれほど積もっていた雪も、今では路肩の隅に灰色の名残を残すだけだった。
彼女とは会えない日々が続いていた。
美容専門学校の実習や課題で忙しいらしく、たまに届くLINEもどこか遠い世界のことのように感じる。
『今日マジで立ちっぱなしで脚終わった〜』
『国家試験こわすぎワロタ』
画面越しの言葉は相変わらず騒がしいのに、それを読む俺の部屋は静まり返っている。彼女が自分の足で進めば進むほど、俺だけが冬の底に置き去りにされているような、そんな焦燥感に似た寂しさが募っていた。
その気持ちを抱えたまま、俺は吸い寄せられるように商店街へ足を向けることが増えていた。以前のように「家と職場の往復」という無菌状態に戻ればいいはずなのに、一度知ってしまった温度が、それを許さない。
一人で食べる肉屋のコロッケはやはり、驚くほど味がしなかった。
マフラーに油の匂いだけが染み込む。
賑やかな通りを歩けば歩くほど、隣に誰もいないという事実だけが浮き彫りになり、心に空いた穴へ冷たい隙間風が吹き抜けていく。
今日もやり場のない空白を抱えたまま、あてもなく商店街を歩いた。
結局、俺は彼女の面影を探しているだけなんだ。
ふと、広場の方から妙に賑やかな声が聞こえてきた。
「地域美容体験イベント開催中!」
手描きのポップと、簡易的に並べられた鏡台。
どうやら美容師学校の外部実習らしい。
人だかりの隙間から、見覚えのあるベージュの髪が、春の日差しを浴びて甘いハニーゴールドに輝いているのが見えた。
見覚えが確かにある、あのギャルだ。
冬のミルクティーベージュとは違う、温かい光をまとった繊細な毛先が、彼女の動きに合わせてさらりと流れる。その美しい残像を目で追った瞬間、俺の心臓は、強烈な歓喜を伴って大きく跳ね上がっていた。ずっとモノクロだった世界に、急激に血が通っていく。
声をかけようか、それとも実習の邪魔にならないように遠くから見守るべきか。大人の理性がそんな迷いを連れてくる。
俺が引き返すか進むかを決めるより早く、彼女の視線が雑踏を突き抜けて、真っ直ぐに俺を捉えた。
「……え、待って、お兄さんじゃん!?」
彼女がハサミを持ったまま、ブンブンと手を振る。周囲の視線が一斉にこちらへ向き、俺は思わず困ったように肩をすくめた。
「マジで? ウケるんだけど! お兄さん、買い物? こっち来てよ!」
「……実習中でしょ。ほら、周りの人も見てるから」
「いーのいーの! てかここでお兄さんとエンカウントするとか激アツっしょ! あたしの頑張ってるとこ見てってよ」
悪戯っぽく笑う彼女の距離感は、会えなかった空白なんて最初から存在しなかったみたいに、一瞬で俺の心の壁を飛び越えてくる。
そんな俺たちのやり取りを、少し離れた場所にいた他の実習生たちが目ざとく見つけ、ヒソヒソと声を潜めた。
「え、あの男の人誰?」
「あー、アレは彼ピ。初詣の時も居たし」
「え? マジ? うわー、ガチ大事件じゃん。男どもかわいそー」
筒抜けの話し声に、俺の顔は一気に熱くなる。
否定しようにも、当の本人はどこ吹く風で「えへへ」と楽しげに笑うばかりだ。
冷え切っていた指先が、彼女の言葉と、向けられた視線の熱でじわじわと痺れていくようだった。
「……本当に、ただ買い物に通りかかっただけなんだけどな」
「それな! でもせっかく通りかかったんだから、ちょっと待っててよ。あと一人で終わりだから、絶対逃げんなよ? 逃げたら一生呪いのLINE送るからね」
彼女は鏡台の前へ戻り、お年寄りの髪を器用に整え始めた。
真剣な眼差しと、それとは裏腹に絶え間なく動く口。その一角だけが、モノクロの商店街の中で発光しているみたいだった。
「あ、そこもうちょい顎引いてもろて〜。そうそう! そしたら首のライン大優勝するんで!」
胸元に名札をつけ、エプロン姿で鋏を動かす。客の要望に耳を傾け、鏡越しに相手の表情を確かめるその瞳には、プロを目指す者としての鋭い光が宿っていた。
「わぁ〜、全然違うわね! 別人みたいだわ!」
「でしょ〜? 襟足軽くすると春っぽく見えるんですよ〜」
彼女は嬉しそうに笑う。その笑顔は、俺の隣で笑っていた時と同じくらい眩しいのに、今の彼女が向いているのは俺ではなく、自分の未来であり、目の前の「仕事」だった。
その光景を見て、俺はようやく理解した。
彼女が来ないから世界が閉じてしまったのではない。
彼女が照らしてくれた日々に甘え、自分から世界を閉じようとしていたのは、俺の方だったんだ。
彼女はずっと、戦っていた。
俺が一人で「味がしない」とコロッケを齧っていた間も、彼女は学び、失敗し、誰かを笑顔にするために指先を動かし続けていた。
「……すごいな」
思わず、小さく声が漏れる。それは、眩しすぎて直視できないほどの差を前にした、率直な吐露だった。
彼女は自分の足で、春へ向かって進んでいる。なら、いつまでも冬の残雪に足を取られているわけにはいかない。
接客を終えた彼女が、手を振りながら駆け寄ってくる。
「ちょ、見てた!? 今のめっちゃ上手くいったくない!? にししっ」
ぱっと花が咲くみたいに、彼女が笑う。得意げに鋏を掲げる姿は、自由の女神のようだった。俺は、胸にこびりついていた寂しさを少しだけ振り払うように、静かに笑みを返した。
「あの人、すごく似合ってたよ」
その言葉は客に向けた賞賛であると同時に、俺の知らない場所で強く、美しくなっていた彼女自身への、精一杯の敬意でもあった。
商店街の活気を背に受けて歩く帰り道は、あの年末の日とはまるで違っていた。
道端には、冬を耐え忍んだ名残のような雪が黒ずみながら溶けかけ、その脇からは名もない草が芽を出し始めている。
空気は少しだけ湿り気を帯び、鼻腔をくすぐる風には春の匂いが混じっていた。
春は、誰に言われるでもなく、自分の力でやってくる。
ただ待つだけではダメで、一歩ずつ自分の足で踏みしめ、迎えにいかないと、きっとあっという間に去ってしまうんだ。
次に彼女の「予約」をする時、少しでも胸を張って彼女の前に立ちたい。
少しだけ色が落ちた髪を、春を孕んだ風が、静かに、けれど確かに押し戻していった。
一人、あの鉄塔の下へと足を運ぶ。
ついこの間まで「あんなの、あったっけ?」と、その存在にすら無頓着だった。
狭い三点の世界に閉じこもっていた俺にとって、鉄塔はただの景色ですらない、意味を持たない巨大な鉄の塊でしかない。
けれど今、フェンス越しに見上げる複雑な骨組みは、まったく別の質感を持ってそこにあるように感じた。ここは、俺が初めて自分の意思で三点の外へ出た日、嵐のような彼女と出会った場所だ。
『お兄さん、あたしより白くね?』
唐突に投げかけられたあの言葉。無理やり掌に押し付けられた、あんまんの火傷しそうなほどの熱さ。
冷蔵庫の唸り声しか聞こえなかった俺の閉じた世界を、物理的にも精神的にもこじ開けた、あの眩しい灯火とランダムエンカウントした、すべての起点の場所。
「……試験、合格だといいな」
無意識にこぼれた独り言が、春近い生ぬるい風に溶けていく。
かつては不快でしかなかった街の喧騒や、風の唸りさえ、今は妙に愛おしい。
ただ静かに、波風立てずに生きるだけの「生存」には、もう戻れそうにない。
もう一度、あのお店で彼女と、中身のないバカげた会話をして笑いたい。
それは、恋なんていう言葉では収まりきらないものだった。一度は死にかけ、灰色に干からびていた俺の「生活」が、もう一度血を通わせ、呼吸を始めるための……切実な再生の願いだった。
指先で前髪を払うと、彼女に整えてもらったラインは崩れ、カラーもすっかり根元の黒が目立っている。三月の明るい光の下で見るそれは、ひどくみっともないものに思えた。
けれど、それでいい。
この髪が伸びるたび、色が落ちていくたび、彼女に会いに行く理由を、世界と繋がる口実を手にするのだから。
みっともなくなった自分を見せれば、彼女はきっと「ありえない! 即メンテナンスでしょ!」と、あの大きな声で笑い飛ばしてくれるに違いない。
その時、心にあるこの熱を、今度は自分の言葉で彼女に返せるだろうか。
三点だけの地図は、もういらない。
鉄塔を見上げた。
『次はもっと遠くまで。』と、心の中で新しい点を打った。
凍っていた世界の解像度を上げてくれた、あの「灯火」のように。
いつか自分の温度を誰かに分け与えられるようになるまで、この一歩を止めないでおこうと思う。




