⑪「形ヤバすぎワロタ」
二月二十八日。
自分の部屋を見渡していた。
初めてこの部屋を見た彼女が、ぽつりと漏らした。
『モデルルームみたい』
あの言葉が、妙に頭に残っていた。
前に進もうと決めてから最初に取りかかったのは、『生活』を手に入れることだった。
とはいえ、何から始めればいいのか分からない。
気づけば、ショッピングモールの中を何度も往復していた。
通路沿いのメガネショップ。その店先の鏡に俺の髪が映った。
そうだ。髪を染めてもらった時、たしか――
「お兄さんの部屋、あそこに緑があったら、めっちゃ良い感じっしょ」
「アルちゃんのキャットタワー、あれ、子猫用じゃない?」
「皿はセリア一択、百円で高見え神。コスパバグってて推せる、まじ優勝」
彼女に導かれるように店を巡った。
生まれて初めて入ったセリアの食器コーナーは、男一人には場違いなほどきらびやかに見えた。
無難な白い皿と、アルを連想させる猫柄の皿。
棚の前で三十分も真剣に迷った挙句、結局選びきれずに両方をカゴに入れた。
帰り道、商店街の花屋に寄った。
店主のおじさんに「お兄さん、部屋に植物置くの初めて? いいねえ。じゃあ、このガジュマルが良い。幸せを呼ぶ多幸の樹って言われててさ……まぁ、その様子じゃあもう、誰かが幸せを運んできてくれてるみたいだけどね」とからかうように笑われ、俺はタジタジになりながら、その鉢植えを抱え、夕焼けの中を帰った。
鍵を開け、買ってきたばかりの猫柄の皿をアルの前に差し出してみる。
「……どうだ」
怪訝そうに鼻先を近づけてくるアルの姿に、なんだか妙な達成感があった。
◇◆◇
三月も後半に入り、世界は少しずつ、だが確実にその色調を変え始めていた。頬を撫でる風には、冬の終わりの鋭利な冷たさはもうない。代わりに、どこか湿り気を帯びた春の匂いが混じっていた。
午前五時。十九時からの長い夜勤を終え、工場の重い扉を背にすると、網膜に焼き付いた蛍光灯の白さが、淡い朝焼けの中に溶けていく。
これまでの俺にとって、この時間はただ「眠り」へ戻るためのカウントダウンでしかなかった。
決められた道を機械的に往復するだけの、色彩を欠いた生活。
だが今日はいつものコンビニの自動ドアを素通りし、あえて知らない角を曲がった。
目指すのは、あの雪の日に見上げた鉄塔の、さらに先だ。境界線を越え、隣町の河川敷へと足を進める。
歩き出してすぐに、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに足が止まった。住宅街の角にある、小さな古いパン屋。まだ開店前なのだろうが、排気口からは焼きたての小麦の幸せな香りが溢れ出している。
開店準備をしていた店主と目が合い、思わず会釈をした。
「お兄さん、早いね。これ、今焼き上がったとこ。うちのは絶品だよ」
以前の俺なら「あ、大丈夫です」と視線を逸らして逃げていたはずだ。
けれど今は、財布を取り出し、迷わずに言葉を返した。
「……じゃあ、ひとつ頂きます」
受け取ったカレーパンの紙袋は、あの日彼女が押し付けてきたあんまんと同じくらい、熱かった。
その熱を正面から受け取り、「ありがとうございます」と声に出して笑い返している自分がいた。
「……あいつなら、全種類買うって言い出すだろうな」
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
あの「世界を喰らう」と言わんばかりの旺盛な食欲。
商店街でコロッケを頬張りながら笑っていた彼女の姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
今の俺には、彼女が欲しがりそうな「街の美味しい匂い」さえも、この世界が生きている証拠のように感じられた。
さらに進むと、世界は驚くほど饒舌になっていった。
庭先で鉢植えを整える老人の姿や、二階の窓から布団を叩く音。
どこかの家で朝刊がポストに落ちる乾いた響きや、散歩中の犬がアスファルトを鳴らす爪の音。引っ越し業者のトラックと、新生活に追われる家族連れの笑い声。
「風景の一部」として切り捨てていたはずの他人の営みが、今は俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる確かな手触りを持って迫ってくる。
耳鳴りのように俺を追い詰めていた街のノイズは、いつの間にか重なり合い、心地よい生活のアンサンブルように響いていた。
三十分ほど歩いたところで、視界が急にひらけた。
土手の芝生の青と、朝日にきらめく川面。
そして川沿いには、気の早い数本の桜が、その蕾を誇らしげに綻ばせていた。
足の裏に伝わる地面の感触を確かめるように踏みしめながら、スマホを取り出した。
開いたのは、美容室のロゴが入った公式のトーク画面だ。
本来なら予約や業務連絡のためだけの無機質な場所に、俺は今の景色を並べた。
『隣町の河川敷まで歩いてみた。桜、もう咲き始めてるよ。
あと、途中にすごく旨そうな匂いのパン屋を見つけた』
淡いピンク色の花びらと、カレーパンを高い春の空を一枚に収め、メッセージを送信する。
それは「連れ出してほしい」という依存ではない。
自分の足で歩き、自分の目で見つけた世界を、同じように自分の道を進む彼女と分かち合いたいという、自立した一歩だった。
送信ボタンを押した後の指先に、微かな痺れが残っている。
返信を待つ時間は、以前のような「既読がつかないことへの恐怖」ではなく、美味しい料理が運ばれてくるのを待つような、穏やかな期待感に満ちていた。
彼女がこれを見たら、きっと「ずるい! あたしも行く!」と騒ぎ出すだろう。そんな確信に近い予感だけで、足取りはさらに軽くなった。
ふと振り返ると、遠くにあの鉄塔が小さく見えた。
あの下でただ立っていただけの自分を、今はもう、遠い昔のことのように思える。
鉄塔はもう、俺を閉じ込める檻じゃない。
ただ、いつでもそこに在って、帰る場所を教えてくれる道標に変わっていた。
深く、肺の奥まで春の空気を吸い込んだ。
三点だけで完結していた狭い地図は、もうどこにもない。
◇◆◇
三月三十日。
この部屋にはあの『生存』の風景の面影はひとつもない。
窓辺には、商店街の花屋で店主と相談して選んだ観葉植物。
その隣には、ニトリで新調したキャットタワーと新しく置いたキャットホイール。
俺が夜勤に出る前、タワーの最上段から見下ろすアルの瞳には、以前のような所在なさはもうなかった。
一番の変化は、台所から漂う「匂い」と、そこに流れる「音」だった。
これまでの食事は、コンビニ弁当の容器を片付けるだけの、単なる「燃料補給」に過ぎなかった。
だが、今の台所はもっと騒がしい。
商店街の肉屋で勧められるまま買った挽肉を、フライパンに投入する。
バチバチと激しい音が跳ね、脂が手に飛んで思わずのけぞる。
スマホのレシピ画面は蒸気で曇り、フライ返しをどこに置いたか分からなくなり、足元ではアルが「何かくれ」とばかりに鳴きながらまとわりついてくる。
玉ねぎの微塵切りは不揃いで、味付けの塩梅もよく分からない。
脂がはじけ、部屋中に匂いが広がる。
アルが興味津々で覗き込む。
俺は慌てて火を弱めた。
かつて「完璧な静寂」だった部屋の中で今、ひどく不格好にワチャワチャと立ち回っていた。
「……これ、写真送ったらまた『形ヤバすぎワロタ』とか言われるんだろうな」
脳内で再生される彼女の笑い声に、自分でも驚くほど自然に口角が上がる。
換気扇が吸い込みきれなかった脂の匂いや、少し焦げた醤油の香りが部屋に満ちる。
出しっぱなしの料理本や、シンクに置かれた不揃いな食器。
「ノイズ」として許せなかったはずの生活の乱れが、今は妙に愛おしい。
不格好なハンバーグ。
それは間違いなく「誰かがここで生きている」という、確かな生活の匂いだった。
十九時からの夜勤という、世界から切り離された時間軸は変わらない。
けれど、朝五時に帰る場所は、もう単なる「避難所」ではない。
重いドアを開けたとき、そこには自分の手で整えた、騒がしくも愛おしい「生活」が待っている。
自分を慈しみ、明日を待つための、確かな拠点。
アルの頭をひと撫でし、春の光の中で、今日という一日を始めるための準備を整え始めた。




