⑫「私たち姉妹って、すっごく好み似てるんだよね」
四月一日。
世界が新しい色に染まり始めるこの日、夜勤明けのスマホの画面に一通の力強いメッセージが届いていた。
『お兄さん、国家試験受かってた! 今日からマジで美容師です! 優勝~~!』
夜明の気だるい身体でその文字を追い、鏡の前に立った。
そこには、彼女が丁寧に染めてくれた面影も薄れ、根元から伸びた黒い地毛が主張を始めた、今の自分がいた。
かつてはただ放置されていたこのだらしなさが、彼女に会いに行くための正当な「切符」のように感じる。
いつもの練習台としての連絡ではなく、公式LINEの予約システムから「十時」の枠を指名した。
少しだけ仮眠をとり、身なりを整えてから、春の陽気の中を歩き出す。
カランカラン、と軽やかな鈴の音。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けると、そこにいたのはパーカー姿の学生ではなく、プロの制服に身を包んだ一人の美容師だった。
少し背筋を伸ばし、緊張した面持ちで挨拶を告げる彼女。
けれど、俺の顔を見るなり、その表情は一瞬で崩れ、いつもの「えへへ」という太陽のような笑顔が溢れ出した。
「あ! お兄さん! 予約通知にお兄さんの名前出た瞬間、マジでテンション爆上がりしたんだけど! 初っ端お兄さんとか、あたし優勝すぎてハッピーで埋めつくされたし」
「……今日から『プロ』なんだな。おめでとう」
「あざ! よっしゃあ記念すべき一人目のお客さん、バチクソイケメンにしちゃる」
鏡の前の席に案内される。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの奥でお母さんが「よかったわね」と言いたげに、細めた目をさらに優しくしてこちらを見守っていた。
その隣では、お姉さんが「ニヤニヤしすぎ」と妹をたしなめるような仕草をしながらも、どこか誇らしげに、新しい名札を胸につけた彼女の背中を見つめている。
「お兄さん、今日も前のと同じでいい? それとも、プロっぽくお任せにする?」
「……じゃあ、お任せで。プロのセンスを信じるよ」
「おっ、言うね! 任せといて!」
ハサミを握る彼女の指先は、以前よりもずっと熱く、迷いがない。
シュッ、シュッと髪を梳く音が、静かな店内に心地よいリズムを刻んでいく。
お姉さんが時折、指導役の鋭い目つきで彼女の手元をチェックし、小さく頷いてはまた作業に戻る。
お母さんは、淹れたてのお茶を俺の前に置きながら、「あの子、昨日からずっとソワソワしてたのよ」と、娘に睨まれるのも構わず楽しそうに教えてくれた。
会っていなかった数週間の出来事を、彼女にぽつりと話し始めた。
隣町で見つけたパン屋の匂い。
部屋に少しずつ彩りを足している。
不格好ながらも自炊を始めてみた。
「え、お兄さんが自炊? マジで? 優勝じゃん! ギャップえぐ、最高かよ!」
「あぁ、でも本当に、ただ焼いただけの不格好なハンバーグとかだけどな」
「それがいいんじゃん。生活してるって感じで」
鏡越しに目が合う。
その瞳は、未来への希望と、プロとしての自覚に満ちていた。
仕上げにドライヤーの風を受けながら、俺は新しく整えられた自分を見た。
それは以前よりもずっと、俺を「外の世界」へと向かわせる強さを宿しているように見えた。
「はい、お疲れ様! マジで素材がいいから、さらにイケメンになっちゃったね」
最後に後頭部を軽く整えながら、灯火は満足そうに笑った。
鏡の中には、以前より少しだけ肩の力が抜けた自分が映っている。
昔の俺なら、髪型なんてどうでもよかった。伸びたら切る。それだけだったはずなのに、今は鏡を見るたび、あの日この美容室へ半ば強引に連れ込まれた時のことを思い出す。
施術を終え、レジへと向かう。
提示された正規の料金を、ごく当たり前のこととして支払った。
「あの時のお代も払わせてください」
お釣りを受け取る間際、レジを打っていたお姉さんが、ふと思い出したように顔を近づけてきた。
「あ〜、あの時の? 大丈夫大丈夫。もう払ってるから」
「……え?」
思わず顔を上げる。
すると後ろで掃除をしていた灯火が、「あ、バレた」とでも言いたげな顔でこちらを見た。
「お兄さん財布忘れてたっしょ、まじウケる。だからあたしが立て替えといた、イケメン割な。にししっ」
「いや、それは……」
「まぁ、また来てくれたから、それでチャラっしょ」
灯火は悪びれもせず、ケラケラと笑った。
「おまっ……はぁ……」
思わずため息をこぼすと、彼女は「えへへ」とまるで反省していない顔で笑った。
その笑い声を聞きながら、ふと、初めてこの店へ連れ込まれた日のことを思い出していた。
あの頃は、誰かに世話を焼かれることにも、生活へ踏み込まれることにも慣れていなかった。
けれど、今はこの騒がしさが心地いい。
お釣りを受け取る間際、レジを打っていたお姉さんが、ふと思い出したように顔を近づけてきた。
「あ、そういえばさ。妹がお兄さんを最初にカットした時、私『彼氏にしちゃおうかな』って言ったの覚えてる?」
「……ええ。冗談だって分かってますけど」
「ふふ、どうかな。でもね、言い忘れてたけど、私たち姉妹って、すっごく好み似てるんだよね。服とか食べ物とか、好きな作品とか……。いろいろね」
お姉さんの茶目っ気たっぷりの、全てを見抜いているような目配せに、俺の思考が一瞬フリーズした。
趣味が似ている。
あの日、お姉さんが冗談めかして口にした「彼氏」という言葉。
それを今、あえてこのタイミングで持ち出してきた意味。
……いや、考えすぎか。
単に彼女も、お姉さんと同じ「髪型」や「色」の好みが似ているというだけかもしれない。
さっきの「イケメンになった」という言葉だって、プロとして理想の形に仕上げられた満足感の表れとも取れる。
直接的なことは何も言われていない。
自意識過剰な勘違いかもしれないという迷いと、それでも無視できない胸の鼓動。
お姉さんの視線の先にある「妹の笑顔」が、その答えのすべてを物語っているような、いや、ただの淡い期待のような気がして、俺は曖昧に視線を泳がせた。
「お兄さん、お待たせ! お見送りするね!」
奥から戻ってきた彼女が、そんな俺の動揺も知らずに、屈託のない笑顔で隣に並ぶ。
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、お姉さんの言葉が熱を持って脳裏に響いた。
「お兄さん、また来てね。予約、いつでも待ってるから!」
店を出ると、四月の柔らかな風が吹き抜けた。
もう、家と職場とコンビニを往復するだけの地図はどこにもない。
俺は新しくなった髪を軽く揺らし、自分の足で、新しい日常の続きへと歩き出した。




