⑬「暇ならデートしよ?」
四月半ば。雲一つない春の晴天は、どこまでも高く、突き抜けるような青さに染まっていた。
すっかり慣れた隣町までの道を歩く。
道中には、変わらず人の営みの音が溢れていた。
あの雪の日、生まれて初めて「三点」の外側へ踏み出し、あの鉄塔を目指した道。
古びたお好み焼き屋、住宅街に佇むクレープ店、そして……あの子が働く美容室。
店の前を通りかかると、窓越しに彼女の姉と目が合った。
俺が軽く会釈をすると、姉はハサミを置いた手でヒラヒラと親しげに手を振り返してくれた。
鉄塔の足元まであと少しというところで、不意に後ろから誰かに勢いよく腕を組まれた。
振り向いて確認するまでもない。
この遠慮のない体温の主は、世界に一人しかいない。
「おにぃ〜さん! なーにしてんのっ」
「ただの散歩だよ」
隣を歩く彼女の手には、ほかほかと湯気を立てるフランクフルトが握られていた。
春の風に煽られ、ハニーベージュの髪がふわりと揺れる。薄手のカーディガン越しに覗く白い肩はまだ少し肌寒そうなのに、本人はまるで気にした様子もない。
「え、絶対うそ。なんか考え事してたっしょ」
そう言って彼女は、こちらの顔を覗き込むように笑った。
あの日と同じ、どこかあっけらかんとした、冬の光より少しだけ暖かくなった笑顔だった。
「それ、ファミマで買ってきたのか?」
「ざんねん! セブンでした! お兄さんもまだまだだね、ふふっ」
片手でフランクフルトを持ったまま、悪戯っぽく笑う。
その姿に、中華まんの湯気の向こうで出会った彼女の姿が重なった。
もぐもぐと幸せそうに頬張りながら、彼女は少しだけいたずらな笑みを浮かべた。
「お兄さんも食う?ほら、あーんして」
「あ、え……大丈夫だよ」
「えいやっ!」
返事を聞くより早く、フランクフルトが俺の口に容赦なく突っ込まれた。
勢い余って喉の奥まで刺さりそうになり、たまらず「んがっ」と声を漏らす。
「あ、ごめンゴ。許せ、お兄さん」
武士か何かなのか、お前は。
心の中でそんなツッコミを入れながら、突き出された肉をどうにか咀嚼した。
「……うまいっしょ?」
「美味しいよ。でも、『ちゃんと』自分のペースで食べられたら、もっと美味しいと思う」
「えーっ、ひどくない!?」
ぶー、と子供のように口を尖らせる彼女。
その屈託のない仕草に、凍りついていた冬が遠い昔のことのように思えた。
彼女はふと思い出したように、空にそびえる鉄の巨塔を見上げた。
「そういえばさ、あの時なんで鉄塔見上げてたん? ゲームなら、はぐれメタルとか出そうな場所だけどさ」
視線を向ければ、白く降りしきる雪の中で威圧的にそびえ立っていた鉄の塊が、今は春の陽光を反射して静かに佇んでいる。
「あの時は、なんだか無性にあの鉄塔が気になって……こう、何かに駆り立てられた感じだったんだ」
「なーほーね! で、勇者であるあたしに捕獲された、と」
「そうだね。経験値として……ぷっ」
勇者を自称する彼女のあまりの堂々とした物言いに、思わず吹き出してしまった。
かつて絶望の淵で見上げたそれは、俺を追い詰める冷たく巨大な墓標のようだった。
今、青空を鋭く切り裂きながらそびえ立つ姿は誇らしげで、どこか温かみさえ帯びているように見える。
「今はただの、デカい電波塔だな」
「そうだよ! お兄さんとあたしを繋いだ、最強のWi-Fiスポットみたいなもんでしょ」
「……例えが独特すぎる」
だけど、それは間違っていない。
もしも、あの無機質な鉄の塊が、孤独だった俺をこの場所へ呼び寄せ、彼女と引き合わせてくれたのだとしたら。
あの鉄塔は本当に、俺たちの世界を繋ぐ特別な場所だったのかもしれない。
どちらからともなく顔を見合わせると、自然とふたりで笑い合っていた。
「で、お兄さん、今日も夜仕事?」
「今日は休み。君はお店、戻らなくても大丈夫なの?」
「あたしも今日はお休みだよ。おやつ買いに行ったらお兄さん見えたから、走ってきちゃった」
春の柔らかな光を浴びて、彼女の横顔が眩しく輝いている。
「ね、暇ならデートしよ? 散歩の延長で」
フランクフルトを完食した彼女が、事もなげに言った。
デート。
その響きに含まれるはずの特別な熱は、彼女のカラッとした声にかかれば、散歩の延長線上にある遊びの誘いのように聞こえた。
俺もまた、深い意味を深読みすることなく、自然に首を縦に振っていた。
俺たちは並んで歩き、あの鉄塔を見上げながらその真下を通り過ぎる。
春の日差しは冬のそれよりもずっと眩しく、網膜を焼くようだったけれど、雪に遮られていたあの時とは違い、今は塔の最上部までくっきりと見通すことができた。
そのまま境界線を越え、隣町へと入る。
先日、俺が一人で見つけたあの古いパン屋の前で、彼女の足がピタリと止まった。
「あ、ここじゃん! お兄さんが言ってたパン屋。行こ!」
有無を言わさず腕を引っ張られ、カランカランと素朴な音を立てる扉をくぐる。
店内に入った瞬間、彼女は品定めをするような鋭い視線で棚を凝視した。
「あたし、初見パン屋はクロワッサン一択って決めてんの。マジで店の本気度わかる」
「クロワッサン?」
「そう。パリパリの表面にモチモチの生地、バターの香り……。それで、そのお店の『本気』が分かる気がすんの」
職人のようなこだわりを語る彼女だったが、気づけばその手に持つトレーの上には、クロワッサン以外にもメロンパン、クリームパン、チョココロネ、惣菜パンと、魅力的な誘惑が山のように積み重なっていた。
「……ほんと、よく食べるよな。なんでそれで太らないのか不思議だよ」
あまりの光景に、無意識のうちに心の声が漏れ出ていた。
すると彼女は、ニヤリと唇の端を吊り上げて俺の顔を覗き込んできた。
「乙女の胃袋舐めんなし! 燃費悪いだけだし、セーフ!」
「……燃費で片付く量じゃないだろ」
声を大にして否定したかったが、彼女のペースに巻き込まれるのは目に見えている。
小さく溜息をついて言葉を飲み込んだ。
「でもまあ、乙女の秘密ってことで、おなしゃす!」
軽快にレジへと向かう彼女。店員が手際よく袋に詰めながら、告げた金額に俺は耳を疑った。
「お会計、三千六百八十円になります」
パン屋で、それもほぼ一人で三千円を超える会計なんて初めて見た。二千円ですらレアケースだろうに。
「コンビニでアメリカンドッグ買わなくてよかったわー。お兄さんの嗅覚、マジで神!」
ずっしりと重そうな袋を抱えて、彼女は満足そうに笑う。
以前なら、その金額の非効率さに眉をひそめていたかもしれない。
でも、その効率の悪い重みこそが、俺が再び足を踏み入れた、彼女の世界の「豊かさ」そのものなんだと感じられた。




