⑭「今、照れるんだ?」
パン屋の重い扉を押し開けて外に出ると、春の温かな空気が袋から漏れ出す小麦の香りをさらに甘く引き立てた。
両手いっぱいに膨らんだ袋を抱え、少し足元がおぼつかない彼女を見て、自然に手を伸ばした。
「持つよ」
「マジ?助かるぅ、あざーっす! さすがお兄さん、分かってんじゃん」
受け取った袋は、想像していたよりもずっとずっしりと重かった。
これだけの量を一人で平らげるつもりなのだろうか。
俺が両手に袋を分配して持ち直した、その直後だった。
自由になったはずの彼女の腕が、さも当然といった様子で俺の左腕にスルリと絡みつく。
「あの……組まれると、こっち側の袋がちょっと持ちづらいかも」
「んー、なんかお兄さんといる時こうしてないと違和感えぐいんだよね。しっくりくるっていうか、マジで」
屈託なく笑う彼女の右手には、いつの間にか袋から取り出された惣菜パンが握られていた。
……恐ろしく、早い。
「お兄さん、だめ、とか言わんよね? ね?」
もぐもぐと口を動かしながら、上目遣いで首を傾げる彼女。
そんな風に真っ直ぐに見つめられたら、断れるはずもなかった。
困ったように笑いながら、左手に持っていた袋を右手にまとめ、彼女が歩きやすいように少しだけ脇を開けた。
「……いいよ。じゃあ、このまま行こうか」
「ふふっ、お兄さん最高! 優勝!」
腕に伝わる彼女の確かな体温と、絶え間なく続く咀嚼の音、そして穏やかな春の陽光。
他人の温度が入り込んでくるこの賑やかな時間は、今の俺にとって、何物にも代えがたい「生活」の色彩そのものだった。
俺たちはそのまま、遅咲きの桜の蕾が膨らみ始めた近くの公園まで、ゆっくりと歩を進めることにした。
川沿いのベンチに腰を下ろし、自分の分のクロワッサンを取り出す。
一口齧ると、繊細に重なった生地がパリパリと軽快な音を立てた。
一緒に買っていたコーヒー牛乳を飲もうとすると、隣で彼女が「あ……」と声を漏らした。
「ひとくちちょーだい!」
返事を待つ余裕なんて、彼女の辞書にはないらしい。彼女は俺の手元からコーヒー牛乳のストローを迷いなく口に含んだ。
「ん〜! 合う〜!」
満足げに目を細める彼女。
その無防備な横顔を見て、俺の胸にある「いたずら心」が顔を出した。
あの日、鉄塔の下で翻弄されたことへの、ささやかな反撃。
「いぇーい、間接キッス〜!」
あの日、彼女が俺をからかった時と全く同じトーン、同じ言葉。
からかうようにそう告げると、彼女の動きがピタリと止まった。
「……っ」
みるみるうちに、彼女の顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
あんなに距離感バグりまくりで、無敵のコミュ力を持っていた彼女が、今、俺の目の前で茹で上がったように俯いている。
「……今、照れるんだ?」
面白くなって追い打ちをかけると、彼女は視線を泳がせ、手元のパンの袋をガサガサと無意味に漁りながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「ほかの人にそういうこと言われんのマジ照れるし……恥ずいって。しかもそれあたしの真似じゃん、性格悪すぎ」
「君に言われたくないな」
「うるさーい! ほらクロワッサンもう一個あげ…っ、やっぱあげなーい! 絶対あげないし!」
そう言って自分の分を俺の口に押し込もうとして、また「あ」と顔を赤くして手を止める。
自爆したことに気づいたらしい。
そんな彼女の様子が可笑しくて、口角はかつてないほど吊り上がっていた。
ふと、強い風が吹き抜け、俺の髪を少しだけ乱した。
「あ、ちょっと待って」
照れていたはずの彼女が、急に真剣な目つきになって指先を伸ばしてきた。
俺の髪のハネを、手慣れた手つきで整える。
その指先からは、あの日お姉さんが見せていたのと同じ「プロ」としての熱が伝わってきた。
「よし。せっかくあたしが盛ったんだから崩さないでよね?」
少し誇らしげに笑う彼女を見て、改めて、彼女を「ただの女の子」としてだけでなく、一人の人間として尊敬し始めている自分に気づく。
春の柔らかな日差しの中、勝利の余韻に浸りながら、甘いコーヒー牛乳をもう一口飲み込んだ。
彼女は猫の形をしたチョコパンを袋から取り出した。
「そういえば、アルちゃん元気してる?」
「うん。相変わらずマイペースだけどね。前に君が勧めてくれたおやつにハマっちゃって、隙があれば『クレクレ』言ってくるよ」
「マジ? よかったー! うちの子もガチ好きだから、好きシェアできてテンション爆上がり!」
ぱぁっと顔を輝かせた彼女は、身を乗り出して続けた。
「てかアルちゃん会いたすぎ、この後お部屋行っていい?いいよね?」
すでに何度か部屋には上げているし、断る理由もない。
何より、あの無機質だった箱が「生活」の場へと変わった今の部屋を見て、彼女がどんな反応をするのか見てみたかった。
「アルも会いたいと思ってるだろうし、ぜひ」
「やったー! はやくアルちゃん吸って優勝したい〜! てか限界突破サバイバーしそう」
ランチを終えると、テンションの上がった彼女の足取りはさらに早くなった。
引きずられるようにして、今来た道を戻る。
鉄塔の横を通り過ぎ、彼女の実家である美容室の前まで来た時――
「ちょっと待ってて」
彼女はそう言って、一つだけになったパンの袋を店へ駆け込んで置いてきた。
戻ってきた彼女の顔は、なぜか少し赤らんでいる。
ガラス越しに店の中を覗くと、お姉さんが三日月のような笑みを浮かべながら、意地悪くヒラヒラと手を振っていた。
「どうかした?」
「なんでもないっ! はやくアルちゃんのとこ行こ!」
さらに足早になった彼女の歩幅に合わせ、家路を急ぐ。




