⑮「灯火」
「アル、ただいま」
「おじゃましまーす。……え、お部屋間違えた?」
玄関を開けるなり、彼女が呆然と立ち尽くした。
「合ってるよ。ほら、アルもいるし」
「前と全然ちがうね! すっごくオシャレになってる! モテ部屋じゃん!」
「俺はそういうのよく分からないから。君が言ってた通りに物を買ってみただけだよ」
「あたしここ住む! マジ理想すぎ」
想像以上の食い気味な反応に、不覚にも心が躍る。
「キャットタワーも新しくなってる〜! よかったねアルちゃん」
タワーの中段で外を眺めていたアルは、短く「クルッ」と喉を鳴らして彼女の手に身を委ねた。彼女はそのまま、アルのお腹に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
「なんか……美味しそうな匂いがする!」
その直後、ぐぅ〜という音が聞こえた気がした。
彼女はカバンの中から貢物を取り出すと、あのメロディを口ずさみながらアルに差し出した。アルは現金なもので、彼女の脛にこれでもかと体をスリスリと擦り付けながら、黄金のペーストに夢中になっている。
「アルちゃん、うちの子にならないかい?」
彼女は声を一段低くし、どこかキリッとしたキメ顔でアルを勧誘し始めた。
「アルはうちの子だから。ダメだよ」
俺が反射的にそう返すと、彼女はニヤリと笑ってさらに揺さぶりをかける。
「えーっ、アルちゃんはどっちがいい? うちには私みたいに、めっちゃ可愛いメス猫がいるよ? どーかな、アルちゃん」
彼女の熱烈なスカウトにも、「行かないでくれ」という切実な焦りにも、当のアルは一切目もくれない。
ただ一心不乱に、目の前の獲物を齧り取ることに全神経を注いでいた。
かつては静まり返っていたこの部屋に、彼女の声と、アルが喉を鳴らす音、そして下らない言い合いが響く。
三点だけの地図の中にいた頃の俺が見たら、きっと「ノイズ」だと断じたであろうこの騒がしさこそが、今の俺にとっては、守るべき生活の輪郭そのものだった。
◇◆◇
ひとしきり戯れたあと、アルは満足したように毛繕いをし、そのままお昼寝モードへと入っていった。
彼女もまた、アルの温もりが残る手元を眺めながら、穏やかな笑みを浮かべている。
その直後、今度はハッキリと、ぐぅ〜という音が聞こえた。
「……作りすぎて、冷凍してあるハンバーグならあるけど、食べる?」
「マジ? いいの!?」
「少し焦げてるけど、それでも良ければ」
「食べる! いただきます!」
レンジにハンバーグを入れ、五分のタイマーをセットする。
待っている間、彼女はスマホを覗き込みながら、表情をコロコロと変えていた。やがて「チン!」と軽快な音が鳴り、温まった皿を彼女の前に差し出した。
「ソース、何がいい?」
「ケチャップと醤油がいいな!」
珍しい組み合わせだなと思いつつ、冷蔵庫を開ける。その背中を見つめていた彼女が、ふと感慨深そうに声を漏らした。
「……ほんとうに、自炊してるんだね」
その声には、以前の俺の、あの色彩を欠いた「生存」を知っているからこその実感がこもっていた。
「いただきまーす! んー、んまぁ〜! バカうまい! お兄さん、じょーずじゃん!」
「お褒めいただき光栄至極です」
「くるしゅーない! にししっ」
不格好なハンバーグを美味しそうに頬張る彼女を見て、自然と微笑んでいた。
彼女はフォークでハンバーグを一口分切り分けると、それをこちらへ向けた。
「はい、お兄さん。あーん」
「いや、さすがに『あーん』は……」
「いいじゃん、今更っしょ! ほらほら!」
ぐいぐいと迫る彼女の勢いに押され、半ば諦めるように口を開いた。観念して受け止めたそれは、肉の旨味をケチャップの酸味が引き立て、それを醤油が香ばしくまとめ上げる、意外なほど調和の取れた味わいだった。
「……美味いな、これ」
「でしょ? 優勝間違いなし!」
俺の言葉に、彼女は今日一番の「にししっ」という笑顔を弾けさせた。
自分が作った不格好な料理を、彼女の流儀で分かち合う。
そんな歪で騒がしいひとときが、かつてモノクロームだった俺の日常を、鮮やかな春の色で塗り替えていくのが分かった。
かつての無菌室のような無機質さは消え、ここは今、間違いなく「生存」ではなく「生活」の空間になっていた。
ふと窓の外に目を向けると、いつの間にか陽が傾き始めていた。
空は燃えるような茜色から深い群青へと移ろう、美しいグラデーションに染まっている。
「お兄さん」
不意に呼ばれて視線を戻すと、夕陽を正面から受けた彼女の瞳が、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「ん? どうした?」
「あの、さ……」
「?」
「LINE、交換しよ」
これまで、個人の連絡先は一度も交換したことがなかった。
インスタもLINEも、美容室の公式アカウントがあれば事足りていたからだ。
あくまで客と美容師。その線引きは、お互いにとって必要なものだと思っていた。
「うん。しよう」
だが、理屈とは裏腹に、言葉は驚くほど素直に口からこぼれていた。
彼女の表情がパッと花が咲いたように明るくなる。
「やった! インスタもね!」
「分かった。いいよ」
彼女が差し出してきたスマートフォンのQRコードを読み取る。
画面に表示されたのは、『灯火ーToukaー』という名前のアカウントだった。
「灯火……」
「うん、あたしの名前。知らなかったっけ?」
知らなかった。
けれど、あの雪の日に俺を見つけ、灰色の世界から強引に引っ張り上げてくれた彼女に、これ以上ないほどぴったりな名前だと思った。
「ちなみにお姉ちゃんは希愛で、お母さんは……まあ、いいっしょ!」
「なんでだよ」
肝心なところで煙に巻く彼女に心の中で突っ込みを入れたが、それ以上に、ようやく彼女の名前を知ることができたという妙な喜びが、胸の奥を満たしていた。
「灯火」
頭の中で反芻していたはずの言葉が、知らず知らずのうちに口をついて出た。
「ん? なに? 名前で呼びたいの?」
「あ、ごめん。そういうわけじゃないんだけど」
慌てて否定すると、彼女はいつものように唇を尖らせて拗ねてみせた。
「なんだ、そういうわけじゃないんだ」
「そうわけでした。すみませんでした、灯火様」
「うむ。苦しゅうない、そう呼ぶが良いぞ! ……ふふ、朔くん」
不意に、自分の名前を呼ばれた。
彼女はきっと、店の予約を確認したときから俺の名前を知っていたはずだ。
なのに、ずっと俺のことは「お兄さん」と呼び続けてきた。
なぜ今、このタイミングだったのか。
その理由は分からないけれど、初めて彼女の口から放たれた自分の名前は、驚くほど温かく、そして無性にムズ痒かった。
「……って、何その顔! お兄さんが変な空気にするから、ガチ照れてきたじゃん! あーーーもう無理! 恥ずかしすぎてちぬ〜〜!!!」
ほんの少しだけ気まずくて、けれどたまらなく温かい沈黙が流れる。
お昼寝から目覚めたのか、アルが「クルッ」と短く喉を鳴らして、俺たちの間を横切っていった。
ふと窓の外を見れば、あの巨大な鉄塔が沈みゆく夕日を背負って、燃えるような空の中に毅然と立っている。
かつては孤独の象徴だったその影も、今は街の輪郭を守る守護者のように見えた。
「今度……あの道沿いにあったお好み焼き屋、行ってみようかな」
独り言のように漏らすと、彼女は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「お兄さん分かってるぅ! あたし、実はお好み焼き作るのめっちゃ上手いんだよ? バイト辞める時、ガチで泣かれたもん、引き止めようとしてさ」
「じゃあ……今度は、灯火にお願いしてみようかな」
「まかせてもろて! にししっ」
得意げに親指を立てる彼女。その屈託のない仕草に心がふわりと軽くなる。
あの日、鉄塔に呼ばれなければ出会えなかった。
生存してただけの練習台と、勢いだけの学生。
正規の客と、プロの第一歩を踏み出した美容師。
そして今、名前を呼び合うようになった、朔と灯火。
立場や肩書きがどれほど変わっていったとしても、俺と彼女の間に流れるこの心地よいリズムが、変わることはないだろう。
窓の外、鉄塔の先には、もう夜の気配が迫っている。
でも、暗闇を恐れる理由なんて、今の俺にはどこにもない。
暗い夜の底から俺を連れ出し、灰色の日常を鮮やかに塗り替えてくれた、この暖かく心地のいい「燈」の傍で。
これからも、この街での「生活」を紡いでいこうと思う。
ーーおわりーー




