⑦「予約入れちゃうからね」
一月三日。
スマホの画面を見つめたまま、美容室へと続く道を歩いていた。
届いたのは、美容室の公式LINEからのメッセージ。
『お兄さんの髪、カラーの練習台になってくれませんか? 絶対似合う色、見つけたんですよ〜!』
カラーリングなんて、これまでの人生で一度も触れてこなかった未知の領域だ。
けれど、「予約入れちゃうからね」という彼女の宣言が呪文のように効いていて、気づけば承諾のスタンプを返していた。
カランカラン、と軽やかな鈴の音が店内に響く。
「いらっしゃ……あれ、お兄さんじゃん! やっほー!」
店内の隅で自らの前髪をセットしていた彼女が、俺を見るなりパッと顔を輝かせた。
「どうも。今日はカラーの練習で……」
「おっ、さすが! ちゃんと律儀に連絡くれるお兄さん、好きだよっ! ふふっ」
彼女は鼻歌混じりに笑うと、奥に向かって「ママ〜、カラー練習させて〜。お兄さんの髪、絶対盛れるから見てて。エモい透明感出すし」と声を上げた。
カウンターの奥では、母親が帳簿をつけ、姉が来店予約のカルテを確認している。
二人ともハサミを持てばプロの顔つきだが、今はそれぞれの持ち場で淡々と仕事をこなしていた。
「あら、いらっしゃいませ。この子の我儘に付き合ってくださって、ありがとうございます」
母親が柔らかな笑みを浮かべて会釈する。
その横で、姉が手に持っていたペンで彼女の頭を軽く小突いた。
「あんたねぇ。大声出さないの。ちゃんとルール守って案内しなさいよ」
「うっ……わかってますってばぁ」
彼女は珍しくシュンとして縮こまり、大人しく母親の指示に従って俺をシャンプー台へと案内した。
温かいお湯が頭皮を包み込む。指先で丹念に洗われる心地よさに、思わずふう、と深く息を吐いた。
三点だけの生活では、こんな風に誰かに頭を委ねる時間なんて、想像もしていなかった。
シャンプー台から上がると、鏡の前の席に座らされる。
彼女は俺の髪を指先でじっと弄び、確信に満ちた表情で言った。
「お兄さん肌白いからさ、くすみアッシュとか優勝するよ。ブリーチなしでもいけるし、透明感ましましになる、絶対」
指差されたカラーチャートには、光の加減でほんのり緑がかったようにも見える、落ち着いたグレー系の色が並んでいた。
有無を言わぬ勢いでケープを巻かれ、彼女は手際よくカラー剤を混ぜ始める。
甘く、少しツンとする独特の薬品の匂いが漂う。
「動いたら事故るからね? 頭かくの禁止な、絶対」
「……善処します」
「あ、でもマジで似合うから。あたしを信じて!」
塗り始めると、彼女の指先が、不思議と熱い。
慣れない体験に緊張する俺の頭の上で、彼女は「ここ、もうちょっと色乗せたほうが映えるかな」と、真剣な職人の顔で呟いている。
その様子を、少し離れた場所から姉がじっと眺めていた。
「あんた、思い切った色選ぶわね。失敗したらどうすんのよ」
「しねーし! お兄さんのこの肌のトーンなら、これくらい透け感ある方が絶対かっこいいんだって。ね、お兄さん?」
鏡越しに同意を求められ、俺は小さく頷く。
プロの姉の言葉に一瞬ヒヤリとしたが、彼女の迷いのない瞳を見ていると、不思議と不安は消えていった。
「あ、そうだ。はい、これ読んで待ってて」
彼女が膝の上に置いたのは、普段の俺なら絶対に手に取らないような最新のファッション誌だった。
「お兄さん、こういう綺麗め系も絶対似合うって。マジ盛れる」
彼女はカラー剤を塗り広げながら、独り言のように続けた。
「あと神社で会った時も思ったけどさ。お兄さん、会う度にガチで顔つき良くなってんじゃん。マジでバフかかりまくり。だから、もっと欲張ってもいいと思うんだ」
その言葉が、薬品の匂いと一緒に胸の奥まで吸い込まれていく。
しばらくしてカラー剤を流し、タオルドライされた髪は、確かに今までとは違う不思議な色を帯びていた。
ドライヤーの温風が髪を乾かすにつれて、彼女が言っていた「くすみアッシュ」が、そのベールを脱いでいく。
仕上げに彼女がワックスを指先に取り、髪を散らすように整えていく。
耳元で響くドライヤーの音と、時折触れる彼女の指の温かさ。
鏡の中の自分が、一秒ごとに「知らない誰か」に書き換えられていくような、奇妙な感覚。
「……よし、完成!」
彼女がパッと手を離し、手鏡を後ろに回してくれた。
以前の重苦しい黒髪とは違い、全体的に柔らかく、冬の光を透かすような軽やかな印象。
肌の色も、彼女が言った通り、驚くほど透明感が増したように見える。
「どう? 似合ってるでしょ?」
彼女が、照れくさそうに頬を掻きながら、鏡越しに俺の顔を覗き込んできた。
その瞳は、獲物を仕留めたハンターのような得意げさと、少しの気恥ずかしさが混ざり合っている。
「あら、本当に別人ね」
いつの間にか後ろに来ていた母親が、感心したように声を上げた。
「あんた、色選ぶセンスだけはあるみたいじゃない。お兄さん、これは『素材』がいいから映えるのよ。感謝なさいね」
「わかってますってばぁ! にししっ、イケメン完成しちゃったね?」
冗談めかして笑う彼女。
けれど、その言葉が胸にじんわりと染み渡っていく。
単に髪を切る、色を変えるという行為以上に、彼女は俺の輪郭を、俺自身の価値を塗り替えているのだ。
鏡の中の新しい自分。
三点だけの地図から抜け出した姿。
自分でも気づかないうちに、俺の指先が、染まったばかりの髪をそっと撫でていた。




