⑥「大事件だよ」
十二月三十一日、午後十一時。
音もなく雪が舞い降りて、世界が静かに息を呑むような、そんな夜。
少し前の自分なら、テレビの音を消し、アルを膝に乗せて、ただ淡々と日付が変わるのを待つだけだったと思う。
今の俺の足は自然と近所の神社へと向いていた。
参道へと続くあの商店街は、深夜だというのにまだ灯火が絶えていない。
店先から漂う甘酒の芳醇な香り、炭火で焼かれる焼き鳥のこうばしさ、そして瑞々しい正月飾りの若松の匂い。それらが冷たい夜気と混ざり合い、五感を心地よく刺激する。
そんな街の喧騒を背に、雪の積もる神社の長い石段を登る。
一歩踏み出すごとに雪を踏みしめる音が静かに響く。
息を白く切らしながらようやく登り切り、ふと街を見下ろそうと振り返った、その時。
白銀の景色の中から、極彩色のダウンに身を包んだ「光」が飛び出してくるのが見えた。
「え、待って、お兄さん!? やっほー! 初詣で会うのエモすぎん?」
いかにも今どきの女の子といった雰囲気の二人とあのギャルの子が、石段を登ってきていた。
「あ……こんばんは」
「何そのテンション、相変わらずすぎんだけど!」
そう言って笑うなり、彼女は俺の腕をぐっと掴んで、友人たちの前へと引き寄せた。
「ねぇ見て見て、この人だよ」
彼女が隣の友人の肩を叩くと、一人のギャルが俺をじろじろと品定めするように覗き込んできた。
「え、誰〜?」
「あたしの専属の練習台の人〜。これ、あたしがカットしたんよ、ちゅるちゅるでイケてるっしょ?」
「マジだ、お兄さん肌白すぎん? 透明感バグってるんだけど。てか髪型、あんたの趣味全開じゃん。……へぇ、あんたもやることやってんじゃん」
友人のニヤケ顔に、彼女は「でしょ〜?」と得意げに胸を張る。
「で、あんたの彼氏?」
「違うし! つーかみんな彼氏彼氏うるさすぎ、なんなんマジで」
心外だと言わんばかりの彼女に、もう一人の友人が呆れたように割り込んだ。
「そりゃあ、あんた。美人で明るくて、一見モテそうだけど……距離感バグだし、めっちゃご飯食べるしで今まで彼氏できたことないじゃん。そんなあんたが男の人連れて歩いてたら大事件だよ」
友人からの容赦ない暴露に、彼女は「ちょっ、それ今言わなくて良くない!?」と顔を真っ赤にして反論している。
半年間、画面越しやコンビニの店員としか関わってこなかった俺が、今、確かな体温を持った「人の輪」の中に混ざっている。その事実に、不思議な高揚感を覚えた。
「あ、お兄さん、どうせ一人で来たんしょ? 一緒に並ぼ」
彼女に半ば強引に列へ引き入れられ、参拝の順番を待つ。
待っている間も、彼女の食欲は止まらない。
「お兄さん、一口食べる? この大判焼き、カスタードが神!」
「こっちのイカ焼きもヤバいよ。はい、あーん」
交互に突き出される屋台の熱に圧倒されながらも、久しぶりに「食事を誰かと分かち合う」という賑やかさを心から楽しんでいた。
「ほら、これ飲んで。ここの甘酒、おろし生姜がセルフで入れ放題なんだけどさ」
彼女が手渡してきた紙コップの中には、真っ白な甘酒の上に、黄色い生姜が山盛りにされていた。
「これパパ直伝の裏ワザなんだけどね! お兄さん、ちょっと冷えすぎだからこれくらいバフかけとくのが丁度いいって! にししっ!」
促されるまま一口啜ると、喉が焼けるような熱さと刺激が走り、凍えていた体が芯から震えた。極端な彼女らしい「処方箋」に、俺は思わず苦笑する。
「あ、そうだ。お母さんに『絶対出してこい』って言われてた飾り、出しに行ってくる! 先並んでて!」
彼女がカバンから古い正月飾りを取り出し、人混みの向こうにある納所へと駆けていった。残された俺と友人二人の間に、少しの沈黙が流れる。
「……お兄さん、あの子、ずっとお兄さんの話してたんだよ」
不意に、さっき俺をじろじろ見ていたギャルの友人が、小声で言った。
「え?」
「あの子、自分のカットに自信持てなくて結構悩んでたんだけどさ。お兄さんが喜んでくれたのが、マジで嬉しかったみたい。昨日も、練習台になってくれた人がめっちゃ優しくて、あんなに切って良かったって……あんたが専属だから、とか言って」
もう一人の友人も頷く。
「あんなに楽しそうにしてるの、久々に見たかも。お兄さん、あいつのこと、これからもよろしくね」
彼女の「光」は、俺だけを照らしていたわけではなく、俺という存在によって彼女自身もまた、救われていた。その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「お待たせ〜! 任務完了! よっしゃ、参拝しよ!」
戻ってきた彼女は、相変わらずのテンションで俺の腕を掴んだ。
やがて、遠くから重厚な除夜の鐘が響き渡った。周囲の話し声が止まり、人々が静かに空を見上げる。
零時。
雪は止む気配もなく、ただ静謐に、すべての境界線を白く塗り替えていく。
「お兄さん、来年もよろしくね〜」
彼女が、雪の結晶を睫毛に乗せて、えへへっと笑った。
「……よろしくお願いします」
こんな年越しは、生まれて初めてだ。
猫と静寂だけが友人だった俺の年末に、騒がしくて温かい色が、確かに灯っていた。
参拝を終えたあと、四人でおみくじを引いた。
「せーのっ!」
一斉に開いた紙に、一喜一憂の声が上がる。
大はしゃぎの彼女、落ち込む友人と冷静な友人。
俺の手元にあるのは『吉』だった。
『待人:外にあり』
その短い一文を見た瞬間、脳裏にこの数日間の情景が鮮やかに浮かぶ。
すべては、部屋のドアを開け、一歩外へ出たからこそ出会えた「待人」だった。
「ほら、あんた達早くしなよ! 初売り始まっちゃう!」
「お兄さん、またね〜!」
友人たちが先に石段を駆け下り、境内には少しずつ夜の静寂が戻り始める。彼女もそれに続こうとして、ふと、思い出したように足を止めた。
「……あ、そうそう」
彼女は振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。長い睫毛に乗った雪の結晶が、提灯の光を反射してキラリと光る。
「お兄さん。……髪、似合ってる。改めて、ありがとね」
それは今日一番の、はにかむような、でもどこか誇らしげな笑みだった。
「……こちらこそ。ありがとうございました」
俺がそう答えるのと同時に、彼女は「えへへ!」といつもの笑顔に戻り、ぶんぶんと大きく手を振った。
「今年もよろしく〜! 美容室、絶対だよ! 予約、強制だからね!」
今度こそ彼女は、弾むような足取りで友人たちの追いかける光の渦の中へと消えていった。
一人残された参道。ふと足元を見ると、新雪の上に彼女たちが残していった乱雑で自由な足跡が刻まれていた。
真っ直ぐで整然とした足跡の横に、彼女の跳ねるような足跡が並び、複雑に混ざり合っている。
もう、孤独な三点だけの地図には戻れない。
小さく、笑みがこぼれた。
冷たいはずの冬の夜風が、今はどこか、優しく背中を押している。
俺は一歩、新雪を踏みしめ、自分の部屋へと歩き出した。




