⑤「ちゅーる、ちゅーる、ちゃおちゅーる♪」
翌日。
目が覚めてまず最初にしたのは、ベランダへ出て空を仰ぐことだった。
雪は止んでいたが、空気は昨日よりもずっと澄んでいる。
視界の先には、あの巨大な鉄塔が、冬の光を反射して屹立していた。
不思議なものだ。
存在を知ってしまっただけで、昨日までの「何もなかった風景」にはもう戻れない。
「もう一度、あれを近くで見に行こう」と思い、今度は忘れずに財布を持って部屋を出た。
昨日歩いた道を、昨日とは違う足取りで進む。
あの美容室の前を通ると、窓越しに掃除をしていたお姉さんと目が合った。
お姉さんは俺の髪を見て「おっ」と短く口を動かし、満足げにひらりと手を振ってくれた。
俺も軽く会釈をして、そのまま通り過ぎようとした、その時だった。
――背後から、鼓膜を震わせるような元気すぎる声が響いた。
「ちょい待ち〜〜〜!!!」
振り返る間もなく、昨日と同じ勢いで、何かが俺の右腕にガシッと絡みつく。
「ちょっ、スルーは無理なんだけど!? 目の前通って挨拶なしとか、冷たすぎん?」
全力ダッシュで追いかけてきたらしい彼女が、肩で息をしながら俺を睨みつけていた。
「いや、忙しそうだったから……。今日もバイトじゃないんですか?」
「今日は休み! ってか、お兄さん今日ヒマ? 財布持ってきた?」
「……持ってますけど、またどこか連れてかれます? もしそうなら、昨日のお礼に奢りますよ」
「は!? 何言ってんの。自分の分くらい自分で払うっての」
彼女は心外だと言わんばかりに唇を尖らせた。
「せっかく美味しいものいっぱいあるのに、お兄さんが一円も持ってなくて横で見てるだけとか、それ絶対つまんないっしょ? 全力で楽しむなら準備は大事! これ、デフォっしょ!」
彼女なりの、遊びに対する真剣な哲学らしい。
「つべこべ言わずに行こ! デートだよ、デート! にししっ」
反論の余地は、やはり一ミリも与えられなかった。
腕をがっちりホールドされたまま、俺は駅前へと続く古い商店街の方へと引きずられていく。
見上げた空はどこまでも高く、昨日よりもずっと近くに見える鉄塔に向かって、俺の「生活」がまた一つ、音を立てて動き出した。
◇◆◇
商店街に足を踏み入れた瞬間、冬の冷気を押し返すような熱気が俺を包んだ。
アーケードの屋根に反響する威勢のいい競り台詞、自転車のベルの音、そして足元から上がってくるラードの香ばしい匂い。
半年間、無機質なコンビニの電子音とレンジの加熱音しか聞いていなかった俺の耳に、重層的な「生活の音」がなだれ込んでくる。
――その賑やかさの中で、不意に妙な重低音が響いた。
グゥ〜〜……。
組んでいる腕を通じて、彼女の体からダイレクトに振動が伝わってくる。
「……鳴りましたね。お財布よりも準備が必要なところが」
「今の聞こえてた!? いや違うし、空気が鳴っただけだし! 商店街の反響だし!」
彼女は顔を真っ赤にして、全力で言い訳を並べ立てる。
そのあまりの動揺ぶりに、俺は思わず吹き出してしまった。
半年ぶりに、喉の奥から震えるような笑いが漏れる。
「……ちょ、酷くない? ほら、あそこのお肉屋さん、コロッケが最強だから! 行こ!」
照れ隠しに俺の腕をぐいぐいと引っ張る彼女。
昨日までは白黒の図面のように無機質だった俺の年末が、図らずも、極彩色の“商店街食い倒れツアー”へと塗り替えられていく。
「はい、お兄さん。揚げたてはシェアしか勝たん!」
彼女が差し出してきたのは、老舗の肉屋の店先で買ったばかりのコロッケだ。
茶色の油紙越しに伝わる熱は、指先を火傷しそうなほどに生々しい。
二つに割った断面からは、真っ白な湯気と共に、粗めに潰されたジャガイモの土の匂いと、飴色玉ねぎの甘い香りが溢れ出した。
一口かじれば、サクッという鼓膜に響く快音のあと、濃厚な牛脂の旨みが口内を支配する。
コンビニのレジ横にある「最適化された商品」とは、情報の密度が、命の重みが違った。
「……美味っ!」
「にししっ、でしょ! ここはね、お肉屋さんが内緒でいい部位混ぜてるから最強なの」
言いながら角を曲がると、シャッターが半分開いた小さな店があった。
ガラス越しに髪色の派手なキャラのポスターが何枚も貼ってあって、アニメの店だとすぐ分かった。
灯火はそれを一瞥もせず、俺の袖をくいっと引いた。
あれ、と少し拍子抜けした。別にこういうのが好きってわけじゃないのか。
「はい、次は焼き鳥! タレが服につかないように気をつけてよ?」
そんなやり取りをしながら歩いていると、あちこちから声がかかる。
「おっ、お嬢ちゃん。今日も元気だねぇ。隣のは何だい、彼氏さんかい?」
鮮魚店の店主が、氷の上に並んだ立派なタイを捌きながらニヤニヤとこちらを見てくる。
「いや、ガチ違うし! ただの知り合い! 美容室の練習台になってくれた人なんだから、変なこと言わないでよね!」
彼女が火を噴くような勢いで叫び、顔を真っ赤にしてマフラーに鼻先を埋める。
それでも店主は構わずに笑いながら「そうかそうか。じゃあ、お兄さんにサービスだ」と、串に刺さったばかりのホタテを炭火の上に乗せた。
「嬢ちゃんが連れてくる人は、みんな良い顔するからな。お兄さん、この街は美味いもん食ったもん勝ちだよ」
俺はその言葉を噛み締めるように、彼女の横顔を眺めていた。
この半年、俺にとって「他人の営み」は、窓の外を流れる雨粒のような、ただの背景でしかなかった。
彼女の隣にいるだけで、商店街の人々との何気ないやり取りが、自分という存在を世界に繋ぎ止めてくれる確かな錨のように感じられる。
「んっ! これ、甘っ! 優勝~~!」
今度は八百屋の軒先で、試食のみかんを幸せそうに頬張っている。
彼女が通るたび、街の温度が一度上がるような気がした。
彼女はこの街の活気そのもの、中心にある太陽なのだ。
誰かと体温を分け合い、同じ風景を共有し、同じ熱いものをハフハフと言いながら咀嚼する。
そんな当たり前の「人間としての時間」を、細胞の一つ一つで味わい直していた。
一通りの食い倒れツアーを終える頃には、お腹も心もパンパンに膨れ上がっていた。
「あー、食べた食べた! 満足! 優勝すぎて、もう一回優勝したいくらい!」
お腹をポンと叩いて無邪気に笑う彼女。
ふと、彼女は立ち止まり、少しだけ真面目な顔をして俺の顔を覗き込んできた。
長いまつ毛に、冬の淡い光が透けている。
「ねぇ、お兄さん。アルちゃん、見たい。今日もおる?」
唐突な提案に、一瞬だけ思考が白く染まった。
家、コンビニ、職場の三点に閉じこもり、誰の侵入も許さなかった俺の「聖域」。
そこに、この嵐のようなエネルギーを持つ彼女を招き入れる。
それは、半年かけて守ってきた「静かな閉じこもり」が完全に崩壊し、俺の世界が鮮やかな色で塗り替えられてしまうことを意味していた。
でも、その変化が、今は少しも怖くない。
「……あぁ。たぶん、キャットタワーで丸まってる。君が来て、驚いて逃げない保証はないけど」
「逃げたら追いかけるまでだぜ」
彼女はヒュー、と口笛を吹き――
「それじゃ、案内よろしくね、お兄さん」
屈託のない笑みを浮かべ、迷いのない動作で俺の腕を掴んだ。
昨日まで俺を縛り付けていた、あの三点を通る結界のような境界線。
雪解けの道を、俺たちはその「外側」へ向かって、迷うことなく歩き出した。
◇◆◇
自分と飼い猫以外の誰の体温も知らなかった部屋に、彼女の明るい声が満ちていく。
「お邪魔しまーす! わ、アルちゃん、丸まってる! マジかわいい、しぬ〜〜!」
彼女は俺の部屋に上がり込むなり、迷わずアルのもとへ駆け寄った。
初対面の人間には厳しいはずのアルが、不思議と逃げようともせず、彼女の指先に鼻を寄せて「クルルッ」と喉を鳴らしている。
「え、可愛すぎん? 天才? 指出しただけでゴロゴロ言ってんだけど!」
膝をついてアルと目線を合わせる彼女。アルは彼女の手に頭を擦り付け、さらには腹を見せて甘え始めた。俺には決して見せないような無防備な姿に、少しだけジェラシーを感じるほどだ。
「え、部屋きれいすぎて逆に怖いんだけど。まじ生存してるだけじゃん、モデルルームかよ。住んでる? レベルで草」
彼女はアルを撫でながら、部屋の中をぐるりと見渡した。最低限の家具と、整理されたデスク。必要以上に何もない空間は、生活の「静けさ」そのものだった。
「仕事以外、何もないから。……散らかる要素も、ない」
自嘲気味に答えると、彼女はカバンの中から「そうだ! これ、手土産!」と猫用おやつを取り出した。
「ちゅーる、ちゅーる、ちゃおちゅーる♪」
ノリノリで歌いながら封を切る。その歌声に反応したアルが、豹変したような素早さで彼女の膝に飛び乗った。
夢中で食らいつくアルを見て、彼女は「食べ方必死すぎ! どんだけ好きなの!」とケラケラ笑い、今度は棚の隅にあった猫じゃらしを手に取った。
昨日まで無機質な棒だったはずのそれが、彼女の手に握られると、まるで魔法がかかったように生き生きと動き出す。アルは子猫のように飛び跳ね、狭い部屋を所狭しと駆け回った。
ひとしきり遊んだあと、彼女は疲れて丸くなったアルの背中に、勢いよく顔を埋めた。
「んん~~っ、いい匂い! ……あ、これ、お兄さんの匂い……するかも」
顔を上げた彼女のその言葉に、一瞬、心臓が跳ねた。自分の生活圏に、他人の感性が土足で入り込んでくる気恥ずかしさと、言いようのない充足感。
彼女はアルの柔らかな毛並みを優しくなぞりながら、ふと呟いた。
「この子、人に厳しいってわけじゃなくてさ、寂しいんじゃない?」
「――あの時のお兄さんもだけどさ」
その言葉が、胸の奥をチクリと突いた。
寂しいなんて思ったことはなかった。
三点だけで完結する生活は、効率的で、安全で、静かだった。
彼女という熱源が部屋に持ち込まれた今、自分の「静けさ」が、単なる「空白」に過ぎなかったことを突きつけられたような気がした。
「……そう、かもしれませんね」
絞り出すように言うと、彼女はアルから手を離し、俺の顔を下から覗き込んできた。今日一番の、穏やかで柔らかな笑み。
「……ねぇ。また来ていい?」
その真っ直ぐな瞳を前にして、すぐに言葉を返すことができなかった。
ここに彼女が来るたび、俺の世界の境界線はさらに崩れ、昨日までの「生存」には戻れなくなるだろう。けれど――。
「……あぁ。アルも、喜ぶと思う」
曖昧に頷きながらも、確かに、その変化を望んでいる自分を認めていた。
閉じた世界を照らす、一筋の灯火。
心の中で、まだ名前も知らない彼女を、ただその光の呼び名でなぞってみる。
明日以降もまた、この光に導かれるようにして、外へ出るんじゃないか。
根拠のない自信だけど、なんでだか、そんな気がしている。




