③「『生存』してるだけじゃん」
「あの……鉄塔って、前からありましたっけ?」
ジョキ、ジョキ、と小気味よい音を響かせながら、彼女は視線をハサミの先に固定したまま即答した。
「うん? あったよ、ずっと」
迷いのない返答だった。
すると、店の奥からココアの入ったマグカップを片手に、お姉さんがひょっこりと顔を出した。
「お兄さん、もしかしてこの辺の人じゃないんですか?」
「実は、半年前に越してきたんですけど……」
ぽつりぽつりと、自分の生活について話し始めた。
「――それで、家と、コンビニと、職場。それだけで完結してました」
それを聞いたお姉さんは、ココアを一口啜り、呆れたように眉を上げた。
「それ、生活じゃなくて『生存』してるだけじゃん」
辛辣だが、否定はできなかった。
切られた髪が、ジョキ、ジョキ、と乾いた音を立てながら足元へ落ちていく。
真剣な顔でハサミを動かしていた彼女が、集中を切らしたように「あ」と声を漏らした。
不意に動きが止まり、俺の背筋に嫌な汗が走る。
「え、あの……もしかして、変なところ切りました?」
恐る恐る尋ねると、彼女はハッとしたようにこちらを見た。
「ん? あー、違う違う。カレーまん追加で買いに行こうと思ってたのに、忘れてた。お母さーん、なんか食べるもんない?」
母親が呆れたようにため息をつく。
「さっきまで食べてたでしょうが……」
「いや、あれはもう消えた」
「消えたって何よ……」
と、お姉さんが半笑いでツッコむ。
「だって雪の日ってお腹減らん? 寒いと燃費悪くなるっていうか」
彼女はそう言いながらも、手だけは器用に動かし続けている。
すると母親が、「はいはい」と言いながらバックヤードから小袋のチョコ菓子を持ってきた。
「食べながら切るんじゃないわよ」
「わかってるって〜」
彼女は器用にハサミを置き、袋を開けると、ひょいっと一粒口へ放り込む。
サクッ、と軽い音。
その甘い匂いが、シャンプーやヘアオイルの香りに混ざって漂ってきた。
「お兄さんも食べる?」
「いえ、大丈夫です」
「えー、遠慮してる? 細い人って燃費良さそうでいいなぁ」
「君が悪すぎるだけだと思うけど……」
思わず漏れた言葉に、店内が一瞬静まり返る。
あ、しまった。初対面なのに、つい自然にツッコんでしまった。
すると次の瞬間、彼女はぱっと顔を輝かせたように見えた。
「うわっ、今のちょっと仲良くなった感ない!?」
「ないです」
「即否定!?」
ケラケラ笑う声が店内へ広がる。
こんなに騒がしい場所なのに、不思議と嫌ではなかった。
彼女は再び櫛を入れながら、小さく笑った。
「でも、今日見つけられて良かったじゃん」
「……何がです?」
ハサミの動きは止めないまま、彼女は鏡越しに俺を見る。
「鉄塔も店も、てか灯火に見つかった時点でお兄さんの運命優勝じゃん。まじラッキーすぎてバグる」
いたずらっぽく細められた目が、鏡の中で笑う。
その向こう。店のガラス越しには、雪に霞む巨大な鉄塔が見えていた。
暖かな光に満ちた店内とはまるで別世界みたいに、それだけが静かに、白い空の下へ立ち続けていた。
それから、他愛のない話をした。
猫のアルのこと。
機械の一部のようにこなす仕事のこと。
小学生の頃に無理やり通わされていたピアノ教室の、あの独特な鍵盤の匂いのことまで。
この半年、俺の会話相手は猫か、職場の限られた人間との最低限の業務連絡だけだった。
それが今、喉の奥のせきが外れたみたいに、言葉が次から次へと溢れ出してくる。
自分でも驚くほど、「誰かに話を聞いてほしかった」のだと気づかされる。
話している間も、彼女の手は止まらなかった。
時折、母から差し入れられたチョコやグミをひょいっと口に放り込みながらも、その瞳は驚くほど真剣だ。
鏡越しに目が合うと、彼女はいたずらっぽく「にしし」と笑い、またすぐに職人の顔に戻ってハサミを滑らせる。
やがて、ジョキジョキという音が止まった。
「……はい、完成! どう? お兄さん、いい感じに束感出たっしょ! 垢抜け大成功〜!」
そこに映っていたのは、もっさりと伸びきった前髪に隠れていた、自分でも見たことのない「俺」だった。
全体的に軽く、清潔感のあるナチュラルマッシュ。
重苦しかった印象は消え、表情がはっきりと明るく見える。
視界を遮っていた髪がなくなっただけで、世界が一段階、解像度を上げたような錯覚に陥った。
「ありがとうございます……。これ、本当に自分ですか」
思わず呟いた声が、少し震えた。
美容室でこんなに感動したのは、人生で初めてかもしれない。
「よっしゃ、大成功! ……実はさ」
彼女はハサミをワゴンに置くと、少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「あたし、家族以外の髪をちゃんと切ったの、お兄さんが初めてなんだよね。……マジで心臓バックバクだったし」
彼女の告白に息を呑む。
あの態度の裏で、彼女もまた挑戦をしていた。
「え、カッコよくなったじゃん。……やっぱさっきのナシ。私の彼氏にしちゃおうかな」
と、お姉さんが身を乗り出し、俺は思わず口ごもる。
(……さっき俺のこと秒で振ったよな!?)
「ちょっとお姉ちゃん、やめてよ! お兄さん困ってるじゃん!」
娘たちのやり取りを背後で見ていた母親が、満足げに腕を組んで頷いた。
「ふふ、いいじゃない。思った通り、素材は良かったもの。あんたの未熟な技術でも、これだけ化けるんだから。……お兄さん、よく似合ってますよ」
鏡の中の自分は、まだ少し照れくさそうに戸惑っている。
けれど、その顔はもう、あのベランダでぼんやりと空を眺めていた「生存者」の顔ではなかった。
「はい、これあげる」
彼女が差し出してきたのは、手作り感のあるお店のポイントカードだった。
「五回でスパ無料、ガチ神制度。灯火の手、溶けるから中毒注意な? ワンチャン毎日通いたくなるやつ」
腰に手を当てて自信満々に胸を張る彼女に対し、申し訳なさで身を縮めた。
「……でも、今日はお金も払ってない。練習台だとしても、カードまで受け取れない」
正直な気持ちだった。
髪を切ってもらっただけでなく、冷えた心まで温めてもらった。
これ以上、何かをもらうわけにはいかない。
彼女は少しだけ考え込むような仕草を見せてから、悪戯っぽく笑った。
「だったらさ、また私の練習台になってよ。あたし、猫好きだし。アルちゃんの話、もっと聴きたいしさ」
彼女はカードの裏面を指さした。
「あと、お兄さんは今『はぐメタ』に進化したから。あたし、はぐメタ狩ってレベル爆上げしたいんよね〜」
「はぐメタ……」
いつの間にか、ただのメタルスライムから、経験値の多い『はぐれメタル』に昇格させられているらしい。
「だから、このスタンプカード持ってって。裏にあるQRコード読み込めばお店のLINEに繋がるから。事前に連絡くれたら、お菓子とか……いろいろ準備もできるし。にししっ!」
迷いのないその笑顔に押されるようにして、そっとカードを受け取った。
「分かりました。……ありがとうございます」
指先に触れたカードの角が、なんだか温かい。
「今日はうちの娘がお世話になりました。お兄さんのおかげで、いい経験になったみたいです」
母親が柔らかな微笑みを浮かべて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ……。本当にありがとうございました」
俺が深々と一礼して店を後にしようとすると、背後からお姉さんの気だるげで、けれど楽しそうな声が追いかけてきた。
「お兄さん、いつか私にも切らせてね。妹よりは上手い自信あるから」
「お兄さんはあたしが専属だから、絶対ダメ!」
彼女が慌てたように叫ぶ声と、カランカランという乾いた鈴の音を背中に聞きながら、外に出た。
肌を刺すような冷気は相変わらずだったけれど、もう後悔はなかった。
ポケットの中のスタンプカードをそっと指先でなぞる。
家と、職場と、コンビニ。
その三点だけで閉じていた世界の外側には、こんなにも騒がしくて、温かい時間が流れていた。
雪の降る空をもう一度見上げると、あの無機質な鉄塔が、先ほどよりも少しだけ近くに見えた。




