②「彼氏いるからパスで」
そのままの勢いで連れてこられたのは、先ほど道すがら窓越しに眺めた、古びた美容室だった。
なるほど、髪を切れということか。
強引に腕を組まれたまま店のドアを開ける。
カランカラン、と乾いた鈴の音が店内に響いた。
一歩足を踏み入れた瞬間、外見の年季の入った印象とは裏腹な光景に目を奪われた。
中は驚くほど綺麗に整えられており、アンティーク調の家具とモダンな機材が調和した、今どきの隠れ家カフェのような空間が広がっている。
空気には、清潔感のあるシャンプーの香りと、ほんのり甘いヘアオイルの匂いが混じり合い、雪の冷気で麻痺していた鼻腔を優しく解いていく。
数分前に外から見えた客の姿はもうなく、ちょうど一段落した店内には心地よいジャズが静かに流れていた。
「いらっしゃ……あら、おかえり」
鏡を拭いていた母親が、こちらを振り返って目を丸くする。
「ただいま!」
俺を引っ張ってきた彼女が、元気よく右手を挙げた。
「その人だれ? あんたの彼氏?」
カウンターから顔を出したお姉さんが、ニヤニヤしながらこちらを値踏みするように見てきた。
「この人が私の彼氏なわけないじゃん。お兄さん固まりすぎてて草。やめてもろてー」
彼女はあっけらかんと言い放つ。
無邪気な言葉のナイフが、いま俺の胸をかすめなかったか。
「この人はお客さんだよ」
「あ、どうも……。いや、髪を切るとは聞いてなかったんですけ……どっ!?」
突然すぎて、状況整理が追いつかない。
気づけば、美容室の椅子へ座らされていた。
「え、いや……財布とか持ってきてなくて……」
慌てて立ち上がろうとすると、母親が呆れて、娘を睨んでいた。
「あんたって子は……初対面の人に無理やり何してんの」
「お客さま、本当に失礼しました」
母親は腰が折れるくらい深く頭を下げて、すぐに上げた。
「この子、一回気に入ると距離おかしくなるんです。『パパがやってたから』って言い訳して、ドラクエも新作出るたびに必ず徹夜。……ほんと、そういうとこだけ似るんだから」
どこか懐かしむように苦笑いして、娘の頭を軽く小突いた。
「だって、モッサモサなんだもん。雪積もったら雪だるまじゃん」
彼女は子供のように口を尖らせて拗ねてみせる。
「それに、本人も時間あるって言ってたし」
……聞かれた覚えはあるが、答えた覚えはない。
正しくは、答える隙を一度も与えてもらえなかっただけだ。
「お兄さん、本当に時間、大丈夫なんですか?」
お姉さんが心配そうに尋ねてくる。
「あ、いや……」
反射的に口ごもった。
実は急いで部屋を飛び出してきたせいで、財布を持っていない。
「え、もしかして、私のこと嫌いになったから帰りたい、とか……?」
さっきまで口を尖らせてたのに、急に捨てられた子猫みたいな目でこちらを見上げてくる。
「いや、そうではなく……」
好き嫌いを判定できるほど、まだ君のことを知らない。
母と姉が、モッサリと伸びきった髪をチラチラ見ながらコソコソと相談し始めた。
「でも、確かに切りがいはありそうね」
「そうね、素材は悪くないし」
やがて、お姉さんが納得したようにポンと手を叩き、こちらへ歩み寄ってきた。
「お兄さん。もし良ければなのですが……うちの娘、来年国家試験なんでモデル探してて、今日はこの子の練習台ってことでどうですか? 料金は気にしないでください」
チラリと彼女の方を見ると、瞳は期待でキラキラと輝いているように見えた。
「分かりました。……実は自分でも、そろそろ切らないとな、と思っていたところだったので。こちらこそ、よろしくお願いします」
俺が観念してそう告げると、彼女の顔にパッと花が咲いた。
「よっしゃ、やったるぜ〜! にししっ」
彼女はハサミをシャキシャキと鳴らし、得意げに胸を張る。
さっきまでベランダで猫に話しかけていたのに、気づけば鏡の前で、見知らぬ家族の熱気に包まれていた。
「あの、そんなに見られてると緊張するんですけど……」
鏡越しに背後に陣取る三つの視線に耐えかねて、声を漏らした。
「まじ心配すんなって。わたしに任せときゃ優勝確定だし。バイブス上げてこ、にししっ」
彼女は胸を張り、いそいそとケープを俺の首に巻きつける。
何が大丈夫なのか、根拠は一切不明だ。
「すみませんね……。でも、見ていないと適切なアドバイスもできないので。お兄さん、少しの間だけご容赦くださいね」
母親が柔らかな、けれど職人の鋭さを湛えた瞳で俺の頭髪を観察しながら言った。
「あ、そうですよね。すみません、大丈夫です……」
プロの指導の一環と言われれば、こちらが恐縮するしかない。
「それにさ、こんな美人親子三人に囲まれて、マジよりどりみどりじゃない? 感謝してほしいなー、にししっ」
彼女がハサミを指先で回しながら冗談めかして笑う。
確かに、三人はそれぞれ印象こそ違うが、よく見ると涼しげな目元やスッとした顎のラインがよく似ていた。
母親は凛とした空気を持つしっかり者。
お姉さんはどこかアンニュイな雰囲気を纏ったダウナー系。
そして目の前の彼女は、天真爛漫なTHE令和ギャルといったところ。
「あ、ちなみに私、彼氏いるからパスで」
お姉さんがスマホをいじりながら、事も無げに言った。
――あれ。俺、今さらっと振られたよな? 告白どころか名乗ってもいないのに、秒速で振られたよね?
「ちょっ、お姉ちゃん! 今のは失礼っしょ!」
彼女が笑いながらお姉さんの肩を小突く。
「いいじゃん、事実だし。お兄さん、うちの妹が変なこと教え込む前に、さっさと綺麗にしてもらいなよ」
お姉さんは面倒くさそうにひらひらと手を振り、待合スペースのソファへ戻っていった。
鏡の中には、困り顔の俺と、やる気に満ち溢れた専門学生。
そして、厳格な教官のように控える母親。
「じゃあ、いくよ!」
シュパッ、と霧吹きで髪を濡らされる。
冷たい水の感触とともに、彼女の指が俺の髪を梳き始めた。
ベランダから見上げた無機質な鉄塔とは対照的な、柔らかい人間の指先。
不思議と、もう外へ出た時の後悔は消えていた。




