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冬。鉄塔。令和ギャル。―閉じた世界を照らす灯火―  作者: 乙都セイ


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①「あの鉄塔って前からあったっけ」

「なぁ、あの鉄塔って前からあったっけ」


 キャットタワーで丸まっている猫、アルに声をかける。

 アルは薄目を開けてこちらを一瞥すると、興味なさそうにまた眠りに戻った。


 ふと、枕元に放り出したスマホに目をやる。

 画面には、十二月二十九日という日付が無機質なフォントで表示されていた。


 世間が慌ただしく御用納めや帰省の準備に追われる中、俺の時間はただ静止している。

 年末の連休であっても、その習性は変わらない。

 目覚ましを気にしなくていいだけで、身体の奥に澱のように溜まっていた疲れが、少しずつ抜けていく。


 この部屋に引っ越して半年。

 職場までは徒歩五分。

 行きも帰りも、途中の同じコンビニに寄る。


 普段、仕事以外ではほぼ家にいる。

 俺の生活は、家──コンビニ──職場。

 その三点だけで成立している。


 生活に不要なものは、自然と視界の外へと落ちていく。

 十九時から翌五時までの夜勤続きで、景色なんて気にする余裕もなかった。

 内見の日、引っ越した日。

 その時に塔はあっただろうか……覚えてない。


 ベランダに出てみようと思ったのは、カーテン越しに外がいつもより白く、明るい気配がして、雪が降っているのだと気づいたから。

 アルミの手すりに指を触れると、心臓まで届きそうなほどの冷たさが伝わってきた。


 白く降りしきる空の向こう。

 雪の白さに紛れながら、鈍い銀色を放つ鉄塔が立っていた。

 閉じていた感覚がわずかに外へ開き、あの無機質な鉄塔が俺を呼んでいるような気がした。


 思い切って、このまま外に出てみようか。

 理由なんてない。

 普段なら絶対に選ばない選択肢が、今日はなぜか、指先からこぼれるように自然に出た。


 適当なアウターを羽織り、スニーカーを履いて部屋を出る。

 階段を降り、外の空気に完全に包まれた瞬間、少しだけ後悔した。


 寒い。

 完全に服装を間違えた。

 薄手の上着を容易く通り越し、風が直接肌に突き刺さる。

 スニーカーの布地からも、雪の冷たさがじわじわと体温を奪っていくのがわかった。

 それでも、不思議と部屋に戻ろうとは思わなかった。


 足は自然と、いつも通うコンビニとは違う方向へと踏み出している。

 あの鉄塔があるのは、たしかこっちの方角だったはず。

 靴底の下で、雪が凝縮される「キュッ」という独特の音が響く。


 道すがら歩く住宅街は、年末特有の、どこか浮き足立ったような静けさに包まれていた。

 少し離れた場所から、雪玉を投げ合う子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。

 公園の横を通り過ぎると、雪の積もった地面を走り回る犬と、それに付き合って笑う大人の姿があった。


 鉄塔はなかなか近づいてこない。

 ベランダから見下ろした時は、手を伸ばせば届くほどすぐそこにあるように見えたのに。

 戸建てやマンション、工場に遮られている。


 それでも方角だけを頼りに歩き続けるうち、身体の奥がじんわりと火照り始めている。

 寒さは、いつの間にか気にならなくなっていた。


 知らない道を歩いていると、ポツポツと小さな店が、暗がりに灯る明かりのように現れ始めた。


 古びた暖簾の奥で、気の良さそうなおばあちゃんが、明日の仕込みか何かで鉄板を磨いているお好み焼き屋。

 なぜこんな住宅街のど真ん中で、と思うような小さなクレープ店。

 そして、少し年季の入った美容室。

 窓越しには、お揃いのシザーケースを腰に巻き、客と談笑しながら軽快にハサミを動かす、二人の美容師が見えた。

 親子だろうか、似たようなリズムで首を傾げている。


 普段なら、風景の一部として視界の外へ、レシートのように落ちていくものたちだ。

 今日はやけに目につく。

 雪のせいだろうか。


 そんなことを考えながら歩調を進めると、不意に、雪を被って冷たく光る金網のフェンスが行く手を阻んだ。

 見上げれば、鈍い銀色の鋼鉄が天を突いている。


 家を出てから二十分。

 ようやく、鉄塔の足元に辿り着いた。


 フェンス越しに見上げる鉄塔は、圧倒的な質量を持ってそこに立っていた。

 鈍い銀色の鉄骨が幾何学模様を描きながら空高くへと伸びている。

 降りしきる雪に遮られ、その(いただき)を見ることはできない。

 ずっと見上げていると、視界のパースが狂い、巨大な骸骨がこちらへ倒れ込んでくるような錯覚に陥る。


「痛っ……」


 不意に冷たい雪の粒が目に入り、染みるような痛みが走った。

 思わず目を閉じ、手首で雪を拭おうとした、その時だった。


「白っ!」


 背後から、静寂を物理的に叩き割るような声が響いた。


「お兄さん、私より白くね?」


 拭った目を開けると、すぐ目の前に一人のギャルが立っていた。

 何の前触れもなく現れたその姿に、驚きすぎて声が出ない。

 自分の意思とは無関係に、瞬きだけが素早く繰り返される。


 ミルクティーベージュの髪が、淡い冬の日差しを受けて柔らかく透けていた。

 肩の落ちた黒のダウンと、白いマフラーに埋もれるような小柄な身体。

 ラフな格好なのに、全体が垢抜けてる。

 どこかあっけらかんとした表情の彼女は、片手でホカホカと湯気を立てる中華まんを持ったまま、不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいる。


 すると彼女は、何か悪戯でも思いついたようにニヤリと笑った。


「はい、あーん!」


 拒否する暇もなく、中華まんが目の前まで突き出される。

 反射的に口を開けた瞬間、熱々の生地が唇に押しつけられた。


「んぐっ!?」


 口の中に広がったのは、熱くて甘い餡。

 あんまんだ。


「うまいっしょ、にししっ」


 彼女は楽しそうに笑うが、俺は不意打ちの熱さと甘さに、たまらず激しく咽せ返った。


「げほっ、ごほっ……!」


「あ、ヤバ。ごめンゴ」


 悪びれながらも、彼女はアウターの左ポケットから温かいペットボトルのお茶を取り出し、躊躇なくこちらへ差し出してきた。

 促されるままに一口飲む。

 冷え切った身体に温かい茶が染み渡り、外気との温度差がたまらなく心地よかった。


「いぇーい、間接キッス〜!」


「ぶっ……!」


 思わずお茶を吹き出しそうになった。

 ゲホゲホと再び咽る俺を見て、彼女は不満げに唇を尖らせる。


「え、ちょ、こんな美人とできて普通嬉しいっしょ? ガチで」


「嫌とかではなく……その、すみません。ありがとうございます」


 息を整えながらどうにか絞り出すと、彼女はまた「にしし」と無邪気に笑った。

 そして、あろうことか俺が齧ったばかりのあんまんを、何事もなかったように自分で頬張り始める。


「でさ!」


 ごくりと飲み込んでから、彼女はさらに顔を近づけてきた。


「お兄さん……めっちゃ白くね? 透明感えぐ」


 雪の話かと思ったが、どうやら俺の肌のことらしい。


「まあ……外にあまり出ないので」


「マジ? メタルスライムじゃん。もしかしてニート? 引きこもりなん?」


「は、え? 違いますよ。夜勤続きで、ずっと仕事してるだけです」


「いや、前髪重すぎっしょ。視界デバフかかってんじゃん」


 指摘されて、ハッとした。

 確かに、もう半年以上はハサミを入れていない。


「あー、はは……。仕事以外、基本的に外出しないんですよ」


 自嘲気味に答えると、彼女は納得したように「あーね!」と大きく頷いた。


 そうこうしている間にあんまんを平らげた彼女は、今度はアウターの右ポケットからゴソゴソと別の包みを取り出した。

 今度は肉まんだ。


「お兄さん、暇?」


 肉まんを一口齧りながら、彼女は俺の顔を下から覗き込む。


「こんな雪の中で鉄塔みてるくらいだし、相当暇だよね? ちょっと来て。てか寒すぎん? はよ行こ!」


 言うが早いか、彼女は俺の腕に自分の腕をグイッと絡ませ、強引に引っ張り始めた。

 戸惑う俺の鼻先を、肉まんの脂の香りと、それに混じって清潔で甘い薬品の匂いがかすめた。


(いろいろと距離感バグってるだろ、この子……)


「肉まん、食べたい?」


「いえ、結構です」


「そ? ま、間接キッスになっちゃうもんね〜」


 からかうように笑いながら、彼女は一歩一歩、雪を踏みしめて進んでいく。


「ね、肉まんにからしつける派? 関西じゃ当たり前みたいなんだけど、こっちでは少数派なんだよね〜。うちはばあちゃんが関西人でさ〜」


 彼女のマシンガントークは、そこから一切止まる気配がなかった。

 強引に組まれた腕の体温。

 雪を噛む靴音。

 彼女のペースへ引きずり込まれるようにして、さっき通り過ぎたばかりの道を、今度は逆向きに歩かされていた。

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