第五話 疑いようのないやさしさ
柔らかい布の上で、凛奈はゆっくりと目を覚ました。
最初に目にうつったのは、もはや肉のない腕だった。
ぼんやりした視界の中で、動かない体とずんと重い疲労を感じながら、凛奈はただただ虚空を眺め続ける。
凛奈にとって、凛賀の体は救いでもあり、そして地獄でもある。
動きまわれる、凛賀の自由な体は、慣れない犠牲につぶされていく。考えることどころか、生きていることそのものすら億劫に感じられるほどに。
(こころが重たい……あ、そっか……)
ぐらぐら揺れる視界が凛奈を酔わせながら、凛奈の特殊能力はお構いなしに情報を注ぎ続ける。だから、凛奈は知ってしまった。嫌になるほど真っ白な現実を。
(そばにいるはずなのに)
すぐ近くに像が置いてある。誰かが、あの火災現場から持ってきてくれたのだろう。
見なくてもわかる、凛奈の体だ。やせ細った体。歩くことはできない体。今、凛賀がいるはずの体。……抜け殻の体。
あふれ、こぼれそうな情報の波の中で、ひとつだけ不気味なくらい空白だった。
弟が死んだ。そんなこと、信じたくなかった。
凛奈の朦朧とする意識は、拒絶することしかできなかった。
(ここにいるはずなのに……!)
決して涙は溢れない。すでに水分はなくなっているから。
決して体は震えない。もうすでに、そんな体力は残っていないから。
いま意識があるのも、生きているのも、特殊能力のおかげだ。流れてくる情報が嵐となって、意識を起こし続けているからだ。
生かされているだけだ。
凛奈はただただ、動かないはずの天井を眺めた。働かない視界。近づいてくる気配。
「んあ、起きてるじゃん! ちょっと待って、水なら飲めるよね」
凛奈が声を聴くと同時に、扉が開いただの、少年が立っているだのといった新たな情報たちが頭の中に流れ込んでいく。
人の声を聴いて再起動した、動きの悪い首を何とか動かし、凛奈は少年のほうを見た。どんな原理なのか、コップが空中を水平移動し、ひとりでに傾いた水差しが水をそそぐ。
薄れていく意識の中で、空を滑るコップを何とか手に取り、ふるえながらも、凛奈は少しずつ水を飲んだ。喉を潤わせ、せき込み、また喉に流し込む。吸収の速い栄養剤が溶けているのか、それだけで体の動きが良くなった。
「ぷは……あ、ありがと」
「どいたしましてー、もっといる?」
「えと、じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
しみ込んでいく冷たい感覚が、待ってましたと言わんばかりに目元を潤わせ、充血で破裂しそうな眼球を包み込んでいく。小刻みに揺れるコップの水面に一粒、また一粒と戻っていく。すぐそばの空白は、依然として変わらない。
「ええーと、あー……大丈夫……?」
「……え?」
凛奈は、体温が戻ってきた体を動かし、首を傾げた。本気で心配されているんだ、と認識したのは、少年を視認してからだった。
優しい少年は、まるで恐ろしい怪物を見ているかのように心音を響かせ、空気を揺らしながら、だが口角が上がっている。
そんなちぐはぐな表情を見て、鋭利で隠し切れない気持ちなんだろうな、と凛奈は思った。
心のうちなど、赤の他人にわかるはずはないが。そして、理解されるはずもない。今、凛奈は、これまでの人生の中で最もぐちゃぐちゃになっている。意図せずあふれる涙が、それを物語っている。
凛奈が首を傾げていると、少年は少し目をきょろきょろさせ、そして頷いた。
「ええーと、ひとつ聞かせてよ。君は、双子のうちどっちだい?」
「え?」
空気が凍り付いた。あふれ続けていた涙がぴたりと止まり、凛奈の瞳には疑いが浮かんでいる。
脳はフル稼働。悲しみとは違った熱を帯びていく。
(どうして知ってるの? そんなの、ひとつしかないじゃないか)
今の凛奈には、余裕がない。実感のある、そしてまだ認められない、家族の死。視野が狭くなるのも、悪い想像ばかりが浮かんでくるのも、不可抗力だ。
固まる表情、普段通り、動かない顔。凛賀の体であることも忘れるほど、凛奈の表情はピクリとも動かない。
そうだ。こいつが、凛賀に何かしたんだ。私のかわいい、弟に!
「あれ? あー、えっと、どっちかはわかったんだけど……そりゃ、似てるか……」
「私の弟に、何をした?」
「助けたんだよ、姉弟揃って、僕の犠牲……これだと誤解させそうだけど」
「助け、た? えっ、あ、そっか、えーと」
「まあ、信じられないだろうけどね」
急激に意識が澄み渡っていく。
疑い、嫌悪、殺意。悲しさが裏返ったそれらは、得体のしれない少年の、たった一言で破裂して散った。
(私が勝手に盛り上がってたのかな)
体を覆っていた熱が急激に離れていく。
凛奈には、社会経験が足りていない。弟に守られ続けて、食事も、睡眠も、全て凛賀に手伝わせてきた。
入れ替わったとき以外で外に行くこともなく、凛奈を知らない人と話したことなど一度もない。
だから、嘘だと疑うこともしない。一度信じてしまうと、疑うことはできない。
霧散した激情の代わりに、また、ひとつふたつと涙が溢れた。
私の指示が悪かったのか。
この人が、奇々怪々なことができる少年が助けてくれたのに、それでもどうにもならなかったんだ。
「あ、あれ? おかしいな、最悪、『弟を殺したのか!』って感じで激昂させるかと思ったんだけど……」
「え、でも、助けて、くれたんでしょう?」
「あー……なるほど、うん、そっか?」
混乱した様子の少年を気にも留めず、凛奈はまた、一点の空白に引き込まれていった。
でも先ほどとは違う、ただの絶望ではなく、後悔と納得が混ざった軽い極限状態だ。
「……まあいいか。えーと、そうだ、名前、教えてよ。君の弟くんは、怖がって能力しか教えてくれなかったし」
少年はニコッと笑った。
「まあ、ふつうは逆なんだけどさ」
(そんな、私の弟がそんな失礼なことをしたなんて!)
衝撃。心の中で膝から崩れ落ちるイメージをする凛奈。
いろいろな意味で、凛奈は正常な思考ができない。ショックで、経験が足りなくて、危機感もなくて。
あふれ続ける涙と並列して働く脳だけが、いつもの調子を取り戻しかけていた。
「わ、私は……」
名前を言おうとして、凛奈ははっとした。
脳内で、もう聞くことのできない声が再生されたのだ。
それは最愛の弟の声。真っ暗の、光のない世界で、耳から入ってくる、数少ない自然な情報。
「名前を使う特殊能力もあるから、うかつに名前は言っちゃいけないんだって」と、学んだばかりのことをうれしそうに話す幼い凛賀。
一段と感情が濃く深く粘着質になって、混ざり合っていく。
涙を流す以外の悲しみの表現を知らない意識は、より一層目元を離れていった。
「うわ、増えた……地雷だったか」
「え、?」
「あ、何でもないなんでもない。えーと、名前聞くのはよくなかったのかなって」
少年の周りが揺らいだ。凛奈はそれを見て、また困らせてしまったと反省する。痛む頭を抱え、何とか言葉を組み立てる。
だんだん水分が足りなくなってきたのを見通したのか、追加のコップが流れてくる。
「ありがと、えっと。りん、弟に、うかつに名前を言うな、と言われてて」
「……あー、いいそう、すごく納得」
張り付いたにこにこ顔を崩し、あはは、と苦笑を見せる少年。
その表情は、凛奈の目が見えていたころによく見た、あどけない凛賀の表情にすこしだけ似ていた。
何でもかんでも、空白を埋めようとしてしまう。渦巻く、渦巻く。
「まあいっか、聞くのはあとで、君が落ち着いてからにするよ。この部屋、自由に使って。水、そこに置いておくから」
「え、あ、ありがと……」
水の入った5つのコップが凛奈の横の小机の上に置かれた。
今の凛奈はそこまで移動できないが、ここまでよくしてもらっているのに愚痴を言うのはよくないよな、と言葉を飲み込んだ。
* * *
少年が出て行ってから、何時間たっただろうか。
いつの間にか、凛奈は瀕死になっていた。
精一杯頑張った、できる限りのことはした。
だが、体がここまで衰弱している状態で小机まで移動するのはやはり無理があったのだ。
すでに日が落ち、真っ暗になった部屋の中、凛奈はまた、悪い想像に耽っていた。
うつ伏せのまま、だらんと伸びた腕からは、二本の棒が透けて見えた。
(あー、衰弱死なら……本望……)
もともと、凛奈は犠牲によって移動ができない。それを、別の特殊能力で一時的に無効化しているのだ。ありえないほど無理をしている。
(……あれ、誰かの声……近づいて……)
どれだけ衰弱していても、明瞭なまま流れ込んでくる周辺情報。誰かの甲高い怒声と、申し訳なさそうにぺこぺこする少年。
何があったんだろう、凛奈がそう思っていると、破裂音を出してドアが吹き飛んだ。
「おぉいテメー、生っきてるかぁ、コラー!」
高い声と白い白衣に身を包んだ女性的な風貌からは想像もできないほどガラが悪いセリフと行動。
動かないはずの凛賀の体が、ピクリと痙攣した。あくまで凛賀の体である。
女性は、セリフに似合わないほど優雅に歩いて、凛奈の元へ。
コップを持ち上げ、凛賀の口へ水を垂らした。水が足りずカラカラだった凛奈は、まるでナイロン樹脂のように、コップを枯らした。
「ほら、黎真! 死ぃにかけだったじゃねえか、もぉっと他人を労わりやがれ!」
「……ごめんちゃい」
「謝る相手はこの子だろ! ほら、頭っ下げろ!」
「ご、ごめんなさ」
「よぉぉし! ごめんな、テメー。 アァタシは布留火西瓜名。勿ぃ論偽名だがぁ? 医者は信頼が一番だもんな!」
また熱が戻ってくる。枯れた声も一緒に。
「……ぁ、あー、あ、ありがと」
「よぉし、危なかったなテメー、あと少し遅かったらほんとに衰弱だぜ!」
「……本人の前で言うなよ、名。やれやれ」
「だぁれが言っとるんじゃ黎真ぁ、もっと反省してろ!」
「……ひゃい」
少年は頬を膨らましてそっぽを向いた。
こんな顔もするのか、やっぱ見かけ通り子供だな、そう凛奈は思った。
白衣の女性は凛賀の顎を引き、腕を揉み、腰をつかんだ。何をするんだ、と凛奈は咄嗟に抵抗しようとしたが、まだそこまでの力は出なかった。
不安そうな顔をする凛奈に気づいたのか、女性は微笑み、手を離した。
「あぁぁあ、すまねえ、勝手に触っておどかせちったなぁ。ちょっとした触診だ。ところで、テメー細すぎるだろ、犠牲か?」
凛奈は勢いに押され、迷う間もなく口が動いてしまった。
「あ、えーと、はい、あのー、どんどん栄養が飛んでくみたいな? ほんとは動けないし……」
そこまで言ってしまって、凛奈ははっとした。かわいい弟に止められていたではないか。
能力とその犠牲を初対面の人に教えるのは、お菓子をあげるからついてきてと言われてついていくくらい危ないことだと。
凛奈にとってその例えは実現不可能なものではあるが、今、そんなことはどうでもいい。凛奈は両手で口を押えた。
「お、回復してるじゃねーか、テメー。そぉれで、そうか。あれだ、黎真から、テメーの弟の能力で入れ替わってるってのは聞いたがぁ、入れ替わってるから結構動けてるだけで、本来はほとんど動けないって認識でいいか? まぁ、この像を見りゃ一目瞭然だがなぁ!」
「あ、あ、あ」
「あー? どうした、なんか違ったか、テメー? アタシが聞くぜ」
「は、ひゃいい! そのとおりです……」
弟にあれだけ言われていたのにやってしまった、という恥ずかしさ。初対面の人に犠牲を言っちゃった、知られてちゃった、やっちゃった……。
熱が、潤いが戻ってきたはずなのに、固まった舌はさっきよりもうまく回らない。顔から火が出る思いで、凛奈は顔を隠したまま、目をぐるぐるさせた。
「どうしたテメー、顔真っ赤にして……黎真! なんか面白いことしろ、んで盛大にスベって恥かけ! こーいうときはそれが一番だ!」
「……えー、やだよ、」
「あぁん? ったく仕方ねえ野郎だな、しょうがねえ、アタシのとっておきを見せたらあ、ほら、見てろ! 黎真の巻きものだあ!」
「え、ちょ、名!?」
「おらぁ!」
女性がどこからともなく布を取り出し、かわいそうな少年を捕まえようとする。少年は少年で逃げ回るが、狭い室内だ、到底逃げ切れるはずもない。
喧しい、だが温かさのあるやり取りに心惹かれ、凛奈が落ち着いて顔をあげるころには、幾重もの布でぐるぐる巻きにされた少年が完成していた。凛奈は思わず噴き出した。
「おっし、治ったな。じゃぁ、ちょっっと早いかもしれんが、色々聞かせてくれ。何、アタシはテメーに興味があんだ」
「え、あ、ありがとう?」
「はっ、そんなんじゃねえよ。ただ、その像、テメーの体。あー、言葉選びがむずいな」
女性は手をたたき、そして腕を組んだ。
その後ろから少年がジト目を向けているのを、凛奈は見逃さなかった。
よそ見していると、頭の中の凛賀に注意された気がして、凛奈は女性のほうに視線を戻す。
女性の目つきは険しくなっており、何か悩んでいるんだということが、今さっき会ったばかりの凛奈にも感じられた。
女性はゆっくりと、口を開いた。
「……やっぱり直接言うか。良く聞きな」
女性は頷き、深呼吸をした。空気が張り詰める。
汗が一筋流れた。そんな気がした。
医者と名乗った者に何を言われるのか、凛奈は不安を抱えたまま、伸ばした手を像の頭に置いた。
「……テメーを像にしたやつ、アタシたちはソイツを追っている」




