第四話 火災
夜明け。空が赤く染まるころ。
凛賀たちを乗せた車はすでに森を抜け、広大な草原を進んでいた。
「あー、助かった。ここまでこればひとまず安全かな……」
草原にも化け物たちがいる、だが森よりも見つけやすく、そして起伏が少ないために逃げ延びやすい。奇襲か正面衝突でもない限り、車に追いつける化け物はこの辺りにはいないからだ。
凛賀は汗をぬぐい、鞄から干し肉を取り出した。
「本当に助かるよ、ありがとう」
そう言って、凛賀は肉を車に押し付けた。するとべとべとする液体が出て、肉を溶かした。液体は流れて凛賀の手につき、肌を焦がした。
凛賀は顔をしかめ、振り払った。
「いてて、まあ仕方ないか」
凛賀は手帳を取り出し、最後のページを開いた。そこには、凛賀の姉、凛奈の書き連ねた文字が犇めき合っていた。
「このまま進めば三つ先の街につくんだよね、うーん、ぜんぜん見えないけど」
額に手を当てて、凛賀は目を細めた。だが、遠く前方には何も見えない。
それもそうだ、三つ先の街、バイオまでは、凛賀たちが生活していた村から車で丸一日の距離にあるのだから。
「まあ、直進したら街につくのは当たり前だし……そうじゃなかったらどこから車持ってきたんだよって話だもんね」
犠牲によって直進しかできない車の向きを変えるには、相当なエネルギーが必要だ。
そっか、だから木にぶつからなかったのかと納得しながら、凛賀は横になった。散々泣いた後で夜通し警戒し続けた凛賀の眠気は、もう限界だったのだ。
「ちょっとくらいなら大丈夫だろうし……ちょっとだけ、ちょっとだけ……」
軽く瞬きをし、凛賀はそのまま眠りについた。
* * *
凛賀は、何かに激突したような衝撃で目を覚ました。
目を開いたころには体が宙を舞っており、驚きのあまり声を出すこともできなかった。数回バウンドし、転がった末、凛賀の体は静止した。チクチクする草の上で、凛賀は体を起こした。
「う……く、いってえ」
体中に切り傷ができているのだろう。凛賀は痛みの中で、ゆっくり体を起こした。
朦朧とする頭のままで、視界の波に吐き気を催しながら、何とか後ろを振り返った。
「姉貴……そうだ、車は……何が起きて……」
凛賀は目を見開いた。
凛賀の目の前。
炎上する車と飛び散った肉片。焼けこげるにおいが、衝撃的な眠気覚ましと化していた。
凛賀は一瞬うろたえ、そして車の残骸に飛び込んだ。
「姉貴!」
姉貴がまだ中にいるかもしれない。そんな悪い想像が、凛賀を突き動かした。
大きく穴が開いた車の上から侵入し、炎に焼かれながら、凛賀は必死で黒焦げになった肉を裂いた。火事場の馬鹿力というものだろう、膂力だけで肉をちぎり、時には炎にかぶりつき。
両腕の皮がただれ落ちたころ、凛賀はついに冷気に触れた。熱い炎の中で、その冷気は、余計に凛賀の手に突き刺さる。
「うああ、待ってろ、姉貴!」
肉の焼けるにおいがする。右頬が熱い。右目が、見えない。
間近で肉が焼ける、それなのに食欲はそそられない、何とも言えない感覚の中。
煙で十分には働かない味覚を犠牲に、凛賀は冷蔵庫の周りの肉を噛みちぎった。薄い膜はべりべりと音を立てて剥がれ、煙を上げて焼け落ちる。
喉の奥でひゅうひゅうと音を立てながら、凛賀は何とか冷蔵庫を持ち上げようとする。だが、焼け付いてしまったのだろうか、凛賀の力ではびくともしなかった。
「うううううあああああああああ!」
剥がれろ、剥がれろ、剥がれろ!
炎はすでに、凛賀を糧としている。
煙はすでに、凛賀の肺を侵略し始めている。
圧倒的に、時間も力も足りない。……朦朧とする意識の中で、凛賀はそう、感じた。
声にならない雄たけびを上げ、凛賀は冷蔵庫に頭突きをした。何度も何度も。
(姉貴を、たった一人の家族を失ってたまるか!)
涙があふれ、蒸発した。感覚のきえた手先が、熱を忘れた。
凛賀の額が割れ、血が音を立てた時、ついに冷蔵庫の蓋が開いた。開く音は、凛賀の耳には届かなかった。
「ああああああああ!」
凛賀は力を振り絞り、冷蔵庫の中の像を引きずり出した。
あとは脱出するだけだ……。
安心。心にできた隙間は、油断となって凛賀に押し寄せる。
意図せず、凛賀の意識は……暗転した。
――――――――――――――――――――
焦げ臭いにおいの中で、危機を察知した凛奈は、体を起こしながら目を開いた。
「え、なになになになになにこの状況!? なんで私をかかえてるわけ!?」
凛奈を取り囲む燃える草に、飛び散った黒焦げの肉。
入れ替わるときにできる限り治るはずなのに、それでも焼けたままの皮膚。特にひどい腕、足、そしてずきずきと痛む額。
元居た村からは遠く離れた場所であろう現在地と、何かが引きずられてできたであろう、地面にできた一本の長い跡。
頭の中に流れ込んでくる、周辺の生き物の数と配置。広大な草原の、はるか上空で微笑む黒い煙。
ここから導き出される答えは……。
「凛賀は車に乗ってここまで来た。そしたら何らかの理由で車が燃えた」
凛奈は深呼吸をし、黒い煙の舞う大空を仰ぐ。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
涙がゆっくりあふれた。入れ替わりの代償を、もう知っていたから。
「で、私をかかえて……」
心が沈んでいく。
青いはずの空が、次第に色を失っていった。
「と、とりあえず……助けをよぼう……」
凛奈はゆっくり立ち上がり、あたりを見渡した。
リスクは大きい。もしも、危険な人間が来たら。もしも、化け物たちが来たら。
緊張の中、凛奈のほほに、一滴の血が流れた。
「たーすーけー、て……」
腕や足にしみ込むように、震えた声が、草原を走っていった。
* * *
力を振り絞って数分。凛奈は目をつむったまま、煤だらけの土の上に横たわっていた。
意識を手放せないまま、息苦しさだけが加速していた。
(犠牲……やっぱ、凛賀の体だと余計苦しい……ねんねんころり、ねんころり……)
その時、凛奈は気づいた。何者かが、車跡地へ向かってきているのだ。
咄嗟に起き上がろうとした……だが、体は動かなかった。
(あああ……あたまふらふらするー……)
凛奈は、ほうっと、息を吐いた。
(ここで死んでもおかしくないな……私の体で死にたかったな……)
耳元で足音がした。
もう、目を開く余力すら残されてなかった。
消えてゆく意識の中、凛奈を声が通過した。冷たい視線が肌を焼いた。
「助けてって聞こえたけど……君はどっちだい?」




