第二十七話 トラウマ
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「……あ」
凛奈は目を開いた。
刃を持った狂人の姿は視界のどこにもなかった。それでも、耳に残る高らかな笑い声と、凝縮された呪詛だけが、一秒前をループしつづけている。
「ぁ、あぁ」
凛奈は膝から崩れ落ちた。目元には涙、浅い呼吸、引き出されていく感情の渦。まるで悪夢から目覚めたときのように。
目を閉じる前まで、凛奈は薄暗い地下にいたはずだった。最下層のディストピアも、まだ朝の出来事だった。それなのに、押収された光景たちが、沈みかけの夕日を、辺り一帯に夜を告げる夕陽を、凛奈に見せつけている。目に焼き付けろと、脅し文句を繰り返している。
震える手が静かに暴れて、指と一緒に地面を削った。
「い、嫌だ、やめて……」
すぐ近くで、人が殺された。凛奈を襲った、命の奪い合い。現実。
何もしなくても衰弱していく体。誰よりも死の近くにいると、そんな自覚が、そして自信すらあった。
……実際に、死んだことがあったの?
何度も見てきた。集まってくる情報の中で、人の死を、生き物の死を、いくつも俯瞰してきた。
……実際に、目で見たわけじゃなかったでしょう。
自尊心を容易に溶かした残酷な現実に直面して、制御出来ない心が逃げ出した先にあった、剥き出しの大鎌。
(……死にたくない)
遅れてやってきたニュースが、矢継ぎ早に凛奈の死を叫ぶ。絶叫が脳を焼いて、赤い花を咲かせた。
痛い。
何の抵抗もなしに、肉が裂けていく音が、耳に張り付いて離れない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
体を切り刻んだ刃が、心と名のつく臓器に届いた。凛奈が死後にはじめて見た、知ってしまった、傷ついた体、傷ついた内臓、傷ついた……たった一人の弟の姿。頼もしくて安心できる弟の、見るに堪えない絶え姿。
痛い痛い痛い痛い痛い。
自らの死。それも、瞑目とは言えない、理不尽で一瞬の死。ある意味最も安らかで、ある意味最も残酷な死。それだけで、心のどこかが壊れてしまってもおかしくない。いや、壊れない方がどうかしている。
そこに重なった、どうしようもない現実。特殊能力が生んだ、死んでも生き返るという歪んだ認識があっても、凛奈には……凛奈だからこそ、耐えられなかった。
痛い痛い痛い痛い痛い!
痛みはすでにないはずだった。もう痛くないはずだと、凛奈は理解していた。それでも、心の底に亀裂が走って、痛みがあふれ出していた。
苦しい時、寂しい時、凛奈は、たった一人を思い浮かべる。いや、凛奈の世界には、その一人しかいない。十数年、そうやって生きてきた。
「助けて、凛賀ぁ……」
呼吸が浅い。息が詰まる。地面を削る指よりも、収まりきらない情報の渦のほうが痛い。
大切な弟の姿を、優しい弟の様子を、暗闇を照らしてくれた温もりを、反抗期の耳で集めた声を、危機的状況から何度も救ってくれたその手を、凛奈がどれだけ思い出しても、フラッシュバックするのは切り刻まれた凄惨な姿だった。
痛い……。痛いよ、ねえ、助けて……。
返事はなかった。当たり前だ、凛賀はこの場にいないのだから。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
凛奈は叫び声をあげた。その様子はなぜか機械的で、それでも、泣きじゃくる様は嗚咽と呼ぶのに十分だった。そして、嗚咽を漏らすことだけが、今の凛奈ができる精一杯にして唯一の救済だった。
そうしている間にも、凛賀の腕は、凛賀の体はどんどん細くなっていく。凛奈の奥深くまで根差した犠牲の木が、凛奈から情報の対価を毟り取っていく。
時間が経つにつれて、声が弱くなっていく。涙が枯れていく。息を詰まらせた体の震えが、全く違う別の震えへと変貌していく。
否が応でも広告を見せようとする特殊能力に抑えられて、凛奈の激情が失速した。
張り裂けそうなほどに辛いのに、苦しいのに、消えていってしまう。空いた隙間は警鐘で埋められ、溢れ出す心の老廃物と混ざって熱を奪っていった。
そんな凛奈を慰めるものは、誰もいなかった。
「……ねえ。ねえ、ねえ、ねえ。あなた、なんなの。さっきから、聞いてるの?」
それが、蘇った凛奈の、最初に聞いた声だった。違う。実際は、ずっと前から聞いていたはずだった。初めは優しかったが、次第に怒りが混ざっていった声に、凛奈はようやく気づいたのだ。目元を真っ赤にしたまま、凛奈は首だけを動かして、上を向いた。
側にいたのは、静かに、しかし確かに声を荒げる一人の女性。毒々しいピンクの髪をボサボサにして、口元を歪ませている。あいにく、泣き叫ぶ凛奈を見ても、慰めるなどといったようなことはしないような、そんな人間性を持つ存在だった。勿論これは、当たり前と言われても仕方のないことなのだが。
「わあ……大丈夫?」
何かに気付いたのだろう。いや、凛奈が顔を上げるまで気づけなかったというのが正しいのだろう。凛奈と目が合った途端に声の調子を切り替えて、女性はジト目をぴくりと動かした。
その濁った目に何が写っているのか、凛奈にはわからなかった。わからない方が良かったのかもしれない。
——特殊能力は、全て犠牲を伴う。当たり前の話だが、全ての行動、全ての事象も、何らかの犠牲を伴っている。そして時には、行動や事象そのものが、犠牲となって牙を剥く。
「! あ、ああ、ぁ」
凛奈は観てしまった。知ってしまった。地面に刺さった、血のついた巨大な武器の存在を。
「ん? なになに?」
巨大な武器の持ち手の形が、女性の手とピッタリだと、知ってしまった。それ即ち、目の前にいるのは……。そして、つい先ほどまでこの場所で起こっていたであろうことは……。
繰り返し呼び起こされた、薄暗い映像。浅い呼吸が、重たい心音が、一段階加速して凛奈を苦しめる。
「や、やめて、こないで!」
女性は眉を顰めた。内心までは読み取れなくとも、女性がいい感情を持っていないと、凛奈は本能的に理解した。
「ええ、なに急に? 私、結構可愛いと思うんだけど……まあ、仕方ないよね」
やれやれ、と首を振って見せる女性。乾いたピンクの下、奇妙な色のついていない黒髪が、首の動きと共に左右に揺れた。それから女性は凛奈の前で膝を曲げた。
「で、どういうこと? さっきの光は、あなたの特殊能力?」
「や、やめて、ころさないで……」
回らない頭が警鐘の中で弾き出した言葉を絞り出して、凛奈はなんとか片腕を前に伸ばした。
伸ばされた腕を優しく弾いて、女性は口を尖らせた。
「殺さないでって言われても……わかった、話を聞いてる間は何もしない、何もしないから、聞かせてよ。さっきの光は、あなたの特殊能力? 生き返ったじゃん? さっき、」
「わ、あぁ、ぁ」
それ以上は言わないでほしい、そんな凛奈の願いも虚しく。
「あなた、死んだはずじゃない?」
パリン、と凛奈の中で何かが割れる音がした。
考えるだけの余裕がなかった。隙間もなかった。だから、考えないようにしていた、気づかないようにしていた。幸い、特殊能力で得られる情報はリアルタイムで、過去に何が起きたのかはわからないから、知る必要もなかった。
未だ冷静になってはいない。それどころか、心の中で巨大な竜巻が暴れ回っている。それでも、瓦礫だらけの心のどこかで、凛奈は確かに気づいていた。少しばかり、誤解が混ざっていたが。
「りん……あ、」
「ん? なになに?」
「おと、うと……」
「んん? ええーっと、弟?」
困惑した様子の女性を精一杯睨みつけて——力が入っていないのだろう、凛奈のそれは、睨みとは言い難い不安でいっぱいの表情であったが——凛奈は声を絞り出した。
「おとうと、を、あなたが……!」
カタン、と音を立てて、情報の天秤が無慈悲に傾いた。それを知覚したところで、今の凛奈に何ができるわけでもなかった。だが、心のどこかに極小の安心が湧いた、それだけで凛奈は、いくらか気が楽になった。
「あわわわわ、ちょっとまってちょっとまって、話がよくわかんないんだけど……ええー? 天秤、傾いてるし……まさかの推理かあ」
私頭使うの苦手なんですけどー、などと愚痴り、女性は頬を歪ませた。それが天秤の本能からくるものか、それとも今の凛奈に対する不快感からくるものか、凛奈には判別できなかった。だからこそ、凛奈は一層、体を震わした。
しかしすぐに、考えが甘かったと、気づくことになる。
「……まあいっか。先に天秤正さなきゃね、ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
突如、女性から溢れ出した何か。殺意などといった不明瞭なものではない、何か。たとえ凛奈が万全の状態であったとしても、何が溢れ出したのかなど理解できないであろう。今の凛奈ではそれについて考えることすらできず、ただ気押されるのみであった。
「私って有名人だから、名乗っても天秤そこまで傾かないんだけどさー。まあ、実験だと思って付き合ってよ」
立ち上がり、薄気味悪いジト目で凛奈を見下ろし、女性は小さく咳をして、にやりと笑った。
「私、愚者なんだよね。自由度愚者って呼ばれてる。……ありゃ、正解だったか」
突如、暴れ始めた本能。天秤の傾きが覆され、更に愚者に有利な方へと傾いた。
愚者、それは人が生まれながらに知っている知識のひとつ。聖者と愚者王の、壮絶な物語、しかしそれはフィクションなどではない。世間知らずで、ある意味では箱入り娘の凛奈でも、愚者という災厄が存在することは、そして敵であることは、知っていた。もう少し余裕があれば、黎真から教わったことも思い出せただろうが。
座った体勢のまま、凛奈はなんとか後退った。驚愕を浮かべたらいいのか、それとも絶望を浮かべたらいいのか、表情が喧嘩しあってぐちゃぐちゃのまま、凛奈は愚者を見上げた。圧倒的な存在を前に、凛奈はただ、震えることしかできなかった。
「んー、さっきは知ってたはずなのに、今は知らない、っと。単純な復活じゃないんだね。でも、中身が変わったら能力も変わっちゃうし。ねえ、あなたって、ルーレットみたいな存在だったりしない!?」
「え、ぁ?」
「ああーごめんね、怖がらせちゃった……んー、会話は無理そう」
「やめ」
こっちにくるな、と凛奈が前に伸ばした腕を、愚者が掴んだ。愚者の双眼は、相変わらずのジト目で、しかし燃え上がるような興味を孕んでいた。
「い、嫌だ」
「もし本当に不死だったら、連れて帰った方がいいよね。加速とかが喜びそうだし」
凛奈はそのまま、愚者に片腕で抱きかかえられた。体を捻っても抜け出せない、愚者の細腕に見合わぬその力が、より一層、凛奈を恐怖させる。もう片方の手で巨大な武器に手をかけ、愚者は笑った。
「ちょっと跳ぶから、落っこちないでね!」
抵抗しなければ、逃げなければと、暴れ回る凛奈。そんな凛奈に放たれた、暗に動くなと命じる、恐ろしい文言。凛奈は一瞬、動きを止めてしまった。その一瞬の隙を、愚者は見逃さなかった。
連続して起こった衝撃と爆発音が、凛奈たちを宙に持ち上げた。あまりの衝撃に反射的に目を瞑って、それでも凛奈は何が起きているのかを探った。
凛奈は気づいた。巨大な武器、分厚い刃を持つ武器が、その先端から別の細かい刃を発射していることに。それも連続で、絶え間なく。明らかに刀身から出せる量でも威力でもなかったが、実際に目の前で起こっているのだ。風圧で動かせない腕の代わりに瞼に力を入れて、凛奈は目を擦った。
……それは一瞬の出来事だった。突如として、愚者の片足が吹き飛んだのだ。
「ひゃっ!? あ、まさか!」
何が起きたのか、それを考える暇も余裕もなかった。
バランスを崩して、愚者はそのまま落っこちていった。勿論、凛奈を抱えたままで、である。凛奈は悲鳴を上げようにも上げられず、そして愚者は余裕綽々の表情で、二人して静かに落下した。そのまま落下して……着地の衝撃に投げ出されて、凛奈はごろごろと地面を転がった。
「んしょ、っと……由逢ちゃんかあ、びっくりした」
凛奈は観た。大の字に転がったまま、天を仰ぐ愚者の姿を。一切の焦りを見せない表情を。そして、突如として現れた、愚者の首筋に刃を当てる少女の姿を。
(……あ、あれ? 由逢……?)
助けに来てくれたんだ、と凛奈は少しだけ安堵した。恐怖や悲しさはまだ消えていなかったが、いつの間にかすこし薄れていたらしい。……凛賀を思い出せるほどの余裕がなかった、というのが正しいのだろうが。
「偽。大人しく、死ね」
目を大きく見開いた由逢が、そう囁いた。
「ええー、やだぁー」
子供っぽい言い方をして、愚者は口を尖らせた。途端に、愚者の首筋に一本の赤が出来上がった。
また人が死ぬのだと、凛奈は本能的に理解してしまった。震える体が、乾いた音を立てた。
「……やっぱり、固い」
「そりゃそうでしょ。人の首だよ? 勢いつけないと、そう簡単にはね」
「ん。切れる」
「痛い痛い、んもう、わかったよ。べーっだ! あははは!」
あろうことか、愚者は右手を挙げて手を振り、悪戯っぽく舌をだして、笑った。
そんなに挑発しないで、と叫びたい口を押さえて、凛奈はただ、体を震えさせることしかできなかった。
「切り取り線に沿って切ってくれて、ありがとねーばいばーい!」
「待つ!」
そして愚者は……空間の隙間に吸い込まれるように、姿を消した。まるで、最初から何もなかったかのように。地面にできた赤黒い円だけが、愚者がいた証として残っていた。
愚者が逃げたのだと気づくまでに、凛奈は少し、時間を有した。
「……自由度」
ポツリと呟いて、少女は何度も何度も、地面に刃を突き刺した。勢いよく、毎回毎回噛み締めて。
その様子を見る自分が安堵していることに、凛奈は気づいてしまった。




