第二十四話 『人間』も狂人も
情報の伝達が遅い。それが、人類にとって解決しなければならない問題のひとつである。
街の外が化け物たちの領域であるために、隣街との情報共有さえ時間を要するのだ。
しかし、そんな世の中でも、世界中で知られている情報がいくつかある。
その中のひとつが、愚者たちについての情報だ。
勿論、二十人の愚者全員の情報が出回っているわけではない。
だが、愚者たちの中でも特に危険な者たちについては、森の奥の小さな村で暮らしていた凛賀でさえも知っているほどに、知れ渡っていた。
危険な愚者に名を連ねる、一人の女性がいる。
彼女は、変形する武器をもっているらしい。
我が物顔で空を歩き、刃を落としてくるらしい。
対鴉クラスの討伐隊が、彼女一人の手で壊滅したらしい。
人は彼女を、『自由度愚者』と呼ぶ。
* * *
凛賀は背後から音を聞いた。その音は、肉にナイフを刺した時の音に酷似していた。
(なんの音だ、もしかして由逢に?)
一瞬、背中から刺されたのかと考え——由逢の仕業かと疑ってしまったのは、ある意味仕方のないことだろう——痛みが襲ってこないことに気付き、凛賀はバッと振り返った。
「あれ? おかしいな、誰もいないぞ?」
凛賀は首を傾げた。確かに、背後から音がしたのだ。それも、致命的な音を。
これが平常時なら、凛賀はすぐにでも興味をなくしただろう。しかし、今は非常時、愚者などという殆ど自然災害が暴れているのだ。なあなあで済ませることは、少なくとも凛賀にはできなかった。
「じゃあ、どこから?」
答えは単純だった。万全の状態の凛賀だったら、すぐにでも気付けただろうほどに。
ポタポタと、何かが空から垂れてきている。地面で、数滴の液体が破裂していた。
「自由度、死ね!」
「久しぶり、由逢ちゃん!」
声の出どころは?
「上か!」
見上げた先には、由逢と、もう一人の後ろ姿。多少の距離はあるが、凛賀の瞳は確かに彼女らを捉えた。由逢の持つ煌めく刃と、それを受け止める大きな武器を。
空に浮かび、睨み合っているであろう二人を見て……凛賀の顔が、みるみる青ざめていった。
「は? ちょっと待て、嘘だろ。まさか」
凛賀が見たのは、後ろ姿だけだった。しかし、後ろ姿で十分だった。厳密に言えば、その特徴的な髪色だけで十分だった。
髪の半分が、斜めのラインを境に違う色をしている。上は刺々しいピンク、下は艶のある黒。そんな髪色をしていたら、当然目立つ。そしてこれは、世界中で知られている髪色でもある。
それほど有名な髪色ならば、真似するものもいるのではないか、と凛賀は背を向けようとした。
まさか、真似するものなどいるはずがない。現実逃避さえも受け入れられない。
誰が好き好んで、指名手配犯になりたがるのか。
こんな、悪人だらけの世界で。
「自由度愚者……! どうして、ここに……なんなんだよ、この街は!」
愚者王とは違う直接的な恐怖の前で、熱が冷めていく。生きる希望とか、将来の見通しとか呼ばれるそれが、一目散に逃げていく。
そうなってしまえば、ある意味、冷静になってしまう。普段の凛賀が考えることは、決まりきっていた。
今までの凛賀は、狂っていた。本人がそう思っているのだ、その通りなのだろう。
目の前に元凶の一端がいるのだ。そしてそれは、地球上で忌み嫌われている存在でもある。
だからこそ、危険な考えが浮かび上がった。
思いついてしまえば、あとは一瞬だった。自身の状態さえ考える暇もなく、考えともいえないような妄想が広がっていく。
「……そうだ。そうだろ」
出会ってしまったら最後、いや、最期。それが自由度愚者。ならば、どうするのか。
幸いなことに、そして最悪なことに、凛賀は、いや全人類は知っていた。
愚者を殺し尽くすまで、愚者王は死なないと。
そして……つい先程、愚者王が死ねば姉が帰ってくると、知ってしまった。
昔から、凛賀の根本的なところは変わらない。
「そうだ……あいつを、愚者を殺せば……一石二鳥じゃないか……!」
そんなことを考えるな。傷だらけの鎖が、千切れながらも凛賀に呼びかける。
しかし、一度切れた鎖では、放たれた猛獣を捉えきれない。
(これまで何度も、逃げてきたんだ。何度も、返り討ちにしてきたんだ)
でも、こちらから仕掛けるのは違うだろ。削れきった石球が、叫びながら凛賀の足を掴もうとする。
しかし、凛賀が軽く動いただけで、塵となって消えてしまった。
(もう既に、俺は殺人犯だ。母さんが言っていた基準なら、すくなくとも)
母親を裏切るのか。声を荒げて、うざったい虚像の大人達が凛賀の前に立ち塞がろうとする。
しかし、凛賀は一歩も進んでいない。
(それに、先に裏切られたのは、俺だ。俺は既に、姉貴を選んだんだ。それに……)
覚悟以前の話だ。
倫理と呼ばれる枷が崩れ落ちていく。枷についていた古傷がまた、ひとりでに広がっていく。
初めてではなかった。だからこそ、早かった。
凛賀は、どこまでも残酷になれてしまう。
それが人というものだと、凛賀は分かっていた。誰よりも深く、理解していた。
(ここであいつを、殺す)
それがたとえ、不可能だとしても。どんな手を使ってでも。
* * *
凛賀が考えている間、由逢と自由度愚者は殺し合いを続けていた。とは言っても、殺伐とした雰囲気ではなかった。まるで、なんらかのスポーツを楽しんでいるかのような。
「あっはははは! 由逢ちゃん、また鋭くなったぁ〜?」
「自由度、お縄につけ」
「んん!? なにそれ、私知らないんだけど?」
「……ん」
「無視しないでよー、もう!」
仲良さげに話しているが、二人は命の奪い合いの最中だ。由逢が踏み込めば、巨大な刃が由逢の体を吹き飛ばす。自由度愚者が切りつければ、由逢は姿を消し、刃は宙を裂く。
凛賀が無謀なことを考えていることなど知らぬまま、二人の攻撃は周囲を巻き込んでいく。由逢の足は地面を殺し、自由度愚者が放った刃は遠くの家を殺す。そうして、いくつもの灯が消えていく。
「……躑躅、足りてない」
「あ、それは知ってる! 超古代語でしょ?」
自由度愚者は武器を手放し、拍手をした。思いがけない好機、しかし由逢の突きは、ひとりでに動く刃にはじかれる。
「……ん。聖者、言ってた」
「へえー、いいなあ。ねえ、聖者殺してよ」
話の流れはどこへやら。殺し合いの場で、話の流れなどあったものではないが。
そして、由逢は聖者の仲間なのだ。答えなど、決まっている。
「んー、保留」
「つれないなあ、由逢ちゃんならできるでしょ?」
「偽、興味ない」
「ええー? なんでよ」
「帰ってこない」
由逢の瞳から光が消えた。
「……どっちにしろでしょう?」
自由度愚者は目を細めた。武器を掲げ、横薙ぎに一閃、飛散する刃。
刃の進行方向、その先には一人の男。
「! 真、危ない!」
叫びながら、由逢は走った。宙を蹴り、一直線に守るべき存在、凛賀の元まで。
……丁度その時だった。凛賀の妄想がまとまってしまったのは。
* * *
人はどこまでも残酷になれる。意識していても、無意識であっても、どちらであっても残酷になれてしまう。いや、人に限った話ではない。当たり前のことなのだ、生きていくうえでは。
食事をしなければ死んでしまう。だから、殺す。
住む場所がなければ身の危険にさらされる。だから、奪う。
そして襲われたら、反撃する。反撃しなければ、明日はこない。
自分の命を守るためなら、味方さえも盾にできてしまう。そうすべきでないと、理論ではわかっていても。
ちょっとした偏向があったことも、確かだが。
「……ごめん、な」
心を込めた謝罪、のはずだ。
放たれた刃の群れ。あたりには、身を隠せるような影も、盾にできるものもない。そして、刃の間を縫ってやってきた煌めく刃。
咄嗟の判断だった。……本当に、咄嗟の判断だった?
凛賀は腕を伸ばした。
「ん!?」
見た目通り、軽い体だった。
何かがぶつかり合う音がした。空気を裂く音がした。液体の飛び散る音がした。
一瞬の出来事だった。だから凛賀も、直視できなかった。音と衝撃の連鎖が終わり、凛賀は手を離した。
……残ったのは、一人の『人間』だった。ぽたぽたと音を立てる、一人の『人間』だった。
「……何、故?」
少女が振り返った。その瞳は、確かに震えていた。まるで、恐怖が浮かんでいるかのような……。
「……なんでだよ」
人外の存在でしかなかった。睨まれると思っていた。心底不思議、などと言われると思っていた。
由逢の瞳に浮かぶのは、純粋な恐怖。感情の欠片さえも見せなかった『人間』の、むき出しの恐怖。
「……、何、故!」
「どうしてって、それは……」
その恐怖は、凛賀の持つ恐怖と、何も変わらなかった。
「何故!」
凛賀は気付いた。由逢の瞳から、恐怖以外を感じ取れないと。
「……ごめん、なさい」
「何故!」
年相応、なのだろう。涙を浮かべて、体を震えさせている。
凛賀は口を開いた……が、閉じてしまった。
(だめだ、俺。何を言っても、言い訳でしかない)
俯き、歯を食いしばる。凛賀の体が震えている。
「ねえ、何故?」
「……ぁ」
「何故……?」
「……ぁぁ、」
(理由を言えば、赦されるだろうか)
凛賀は瞬きをした。
(姉貴が怒る。絶対に、理由を話しても、叱られるだろう。逃げるな、凛賀)
凛賀はゆっくり顔をあげた。まずは理由を話すのだと、言い聞かせて。
凛賀は忘れていた。今いる場所が、死の隣街だと。
「ねえ、どうして、由逢ちゃんを泣かせた?」
「は、ああ」
凛賀が顔をあげると、目の前には……毒のようなピンク色の髪を持つ、女性が立っていた。
自由度愚者が怒っていると、凛賀はすぐに理解した。




