第二十一話 大きな取引
嵩陽凛賀は、双子の弟だ。
何があっても、いつになっても。
——覚えてさえ、いられれば。
薄暗い避難所、その隅で。凛賀はひとり、頭を抱えていた。姉貴、姉貴と呟きながら、体を震わせていた。
帰ってくる痛み、苦しみ、そしてその中に確かにあった幸せな日々。
記憶の雪崩に巻き込まれ、凛賀はうめき声をあげるように、大切な家族を呼び続ける。
(姉貴……俺の、たった一人の家族……そうだ、名前は、凛奈、だったよな?)
覚えたいことをすぐには覚えられないように、穴を埋める凛賀の記憶はなかなか定着しなかった。
思い出すというにはなかなか奇妙な感覚に首を傾げたとき、凛賀はようやく、完全に思い出したと確信した。
「ああ……よかった、思い出せて……」
思い出せない苦痛というのは、相当に苦しいものだ。事によっては、自身を見失ってしまうのだから。
苦痛から解放された喜びの中で、凛賀は体を起こした。
「姉貴、よかった、見つかって……あ」
凛賀は気づいた。
大切な像を、ここまで連れてきたのは誰か。
飛びかかることは、なかったが。
「仮面の、そうか。姉貴を連れてきてくれて、ありがとう」
天秤が傾いていく。今度は、仮面の人間の方へ。
(しまった……いや、妥当か。はあ、危機的状況だったもんなあ)
仮面の人間は、黙ったまま凛賀を見つめている。
なにを考えているのか、凛賀には分からない。どんな言葉が飛び出すのかと、凛賀は身構えた。
「……そうか。君の姉だったか」
「は? あ、ああ、そう、だ。……まさか」
凛賀は目を見開いた。顔から熱が引いていく。煩い避難所の中が静まり返ったかのような錯覚に陥った。
大切な人なのに。凛賀でさえ、忘れていたのだ。そして凛賀以上に凛奈を想う人は、この世にはもういない。それはつまり、凛奈を知るものはもうすでに……。
「すまない、……忘れてしまった」
「そ、そんな、どうし……」
凛賀が原因を探ろうとしたその時。
つまらなそうな顔をした怪物が、私を忘れるなとばかりに、凛賀の側に立っていた。
規格外の怪物が。
「ねえねえ君。あ、聖者じゃないよ? 盗み聞きで悪いんだけどさ、君のお姉さんなんだね? その子は」
返事はない。凛賀は返答できない。違和感が体中を締め付けて離さない。
「おっと、ごめんよ。こういう時、天秤は邪魔だね……仕方がないか。私と会話してよ、これは命令だからね」
凛賀を掴んでいた違和感、その中で特に喉を詰まらせていたものが溶けていく。
凛賀は確かめるように「あー、あー」と小さく声を出し、そして恐る恐る怪物の方を見た。
「は?」
凛賀が思っていたのとは違う、怪物の表情。
「なに悲しそうにしてるんだよ」
目を伏せた怪物。その表情が、凛賀の神経を逆撫でする。
「ん? ああ、ごめんよ。いや、今私の気持ちはどうでもいいよね」
「はあ? あ、ああ」
噛みつこうとする試みは、怪物の外付けの気迫に押しつぶされる。
怪物がため息をついた。そんな怪物を、凛賀は黙って見ていることしかできない。
「もう分かっていると思うけれど、その像化、それが私の特殊能力。つまり君は、私の被害者だね」
「やっぱりか。耳の尖った、怪物が」
凛賀が舌打ちをすると、怪物が口を尖らせた。
「耳は仕方ないでしょ、生まれつきなんだもの。まあ、わかりやすい特徴があるのはいいことだけどね、本人がどう思うかはおいておいて」
怪物の声だけが異様に響く薄暗い室内。凛賀の側から発せられた布擦れの音が、凛賀の耳を撫でた。
「バカにしたわけじゃないよ、聖者。おっと、話が逸れたね、君……うーん、呼びづらいね。名前、半分教えてよ」
「か……」
驚いて、凛賀は口を押さえた。勝手にに喉が音を発したのだ、驚くのも無理はない。
凛賀は怪物を睨みつける、しかし怒りを向ければ向けるほど、違和感が全身をより強く締め付ける。
「名前はやっぱダメか。まあ、わかるよ、多分ね。君にとって、私は仇なんだから。おっと、浅い理解でごめんね、知識でしか持っていないんだ」
「……だろうな」
「そして、さっきの話だと、忘れていたんだろう? あの状態から察するに……『偽物の英雄』関連かな? それなのに、私に危害を加えようとした、できた、と」
怪物の口元が一瞬緩んだ。しかし、その目はずっと笑っていない。伏せたまま、凛賀と目を合わせない。
「つまり、本能的に私を憎んでいるわけだ。いやー、恐ろしいね、本当に。君、愚者なんじゃないの?」
「そんなわけないだろ!」
外の巨人を思い浮かべて、凛賀は声を荒げる。あんな、それこそ化け物と同じにするな、と。
「安心してよ、愚者だったら、私にはわかるからさ。……ところで、私を恨んでいるのは確かだよね? それも、殺したいくらい。あってるかな?」
目を揺らす怪物。
凛賀は静かにうなづいた。
「ああ、間違いない」
(姉貴には、復讐なんてしなくていいって言われたけど……ごめん、姉貴。やっぱり、目の前にいるのなら、そして治せるかもしれないのなら!)
凛賀はチラリと像を見る。石でも木でもない、光沢のある表面が、避難所の天井を薄く淡く写していた。
「ならさ、私と取引しよう? あ、これは命令じゃないからね。あくまで、君の判断に任せるからさ」
「取引? それに判断って……信じられるわけないだろ」
愚者王は、はははと小石のような笑い声を出した。
「そればかりは、信じてよとしか言えないかな。仕方ないよね、普通の取引は、私にはどうしてもできないからさ」
「……っち」
凛賀が嫌だと言っても、違和感と不快感が凛賀に嘘をつかせるだろう。そう分かっていても、凛賀ができることはない。
聖者ならなんとかできるのではないか、凛賀は一瞬期待したが……聖者が動く気配はない。
「簡単、とは言わないけどさ。取引の内容、を言う前に、言っておきたいことがあるんだ」
「なにが」
凛賀は身構える。どんな恐ろしい言葉が飛び出すのか、気が気でなかった。
「私の、愚者王の今の目的はね、私が死ぬ前に、聖者が死ぬことさ。愚者王として、そして今持っている知識を後世に繋ぐためにも、聖者に先に死んでもらう必要がある。私が歴史に残る必要がある。だから……とにかく、私よりも前に、聖者がその天寿を全うする。それが私の第一目標さ」
身構えていたからこそ、怪物……愚者王の言ったことは、凛賀にとって拍子抜けだった。
誰もが生まれつき知っている聖者と愚者王の関係は、どちらが生き残るかの殺し合いだ。つまり、愚者王が聖者の死を望むのはごく普通であって……事前に説明することではない。
「それは……そう、か」
「で、こっからが本題ね。ねえ、君。聖者を殺してくれないかな。報酬は、君の姉の像化を解くこと。どうかな?」
凛賀は呆れ返った。
「はあ? 一般人の俺に、聖者を殺せと? しかも、本人の目の前で」
なにより、凛賀が愚者王に味方する利点がない。凛奈の像化を解くと言っても、まずそれが成されるか分からず、さらに聖者と戦えば像化が解かれる前に凛賀がくたばっているだろう。
凛賀は、纏わり付く違和感とは違う種類の違和感を感じた。勢いに任せて愚者王へ問う。
「先に、今姉貴の像化を解けばいいじゃないか。そうすれば、あとは俺に命令するだけだ」
愚者王が腕を組んだ。なるほど、と言わんばかりにうなづいて、腕を振った。
「さっきも言った通り、命令はしたくないんだ。それと、今は解けないんだ。どうしても、さ」
「今は解けない? それに、命令したくないって、だったら不確定な人質を取るのも違うだろ!」
「確かに、そうかな。じゃあ、これならどうかな。聖者に味方しないでほしい。私の味方でなくてもいいけど、中立、それも無関係でいてほしいんだ。像化も、聖者が死んだら解くからさ。これで、どうかな?」
凛賀は体の自由が許す限り俯き、思考を展開した。と言っても大層なものではない、
「そんなの、俺にメリットがなさすぎるだろ。分かってんのか? いつになるか分からない決着を待て、そしてもし自分が負けたら報酬はなし。せめて、像化解くから関わるな、じゃないのか」
「……どうしても、解くことはできないんだ」
「何故!?」
凛賀の問いに、愚者王は俯いた。凛賀が不審がっていると……横から、答えが返ってきた。
「……解除条件が死ぬことだから、だろう」
主導権を握り続けてきた愚者王。その顔に、明らかな揺らぎが生じた。




