第二十話 思い出すから
怪物を見た時。
凛賀を襲った、ひとつの特徴。
凛賀には覚えのない、そのセリフ。
——耳がとがった子供のようなやつ。
気付いた時には、凛賀の拳は怪物に触れていた。
「……驚いた。本当に人間かな?」
凛賀は答えない。動くことすらできない。見開いた目を真っ赤にして、黙ったまま拳を押し付ける。
呼吸が速くなっていく。気持ち悪さと頭の痛さが混ざり合って、限界を超えた凛賀の意識を繋ぎ止める。
凛賀の頭の中で息を潜める、消えかけていた隙間が、また存在を主張した。
「できたら、何か話して欲しいな。少しだけ居心地が悪いからね」
凛賀の視界が鮮明になっていく。怪物の何気ない要求が、凛賀の本能を刺激して強制した。
凛賀はただ、体を震わせる。小刻みな音を出すだけの装置と化して。
「お前は……お前は、」
ひれ伏した天秤は、疑問を許さない。これ以上の格差を許さない。……命を優先するために。
「耳の尖ったやつ、それは……」
十数年、凛賀を蝕み続け、理性から染み出した責任感が、凛賀自身を拒絶する。
「なんなんだ、お前は!」
瞳を揺らして、喉から血を吹き出して。凛賀はそう、叫んだ。
怪物が一歩、体を引いた。段差の上から凛賀を見下ろして、あからさまにつまらない表情をした。
「そっちも、一歩引いてくれないかな? 私もただの避難者なんだ」
「は、はあ? ふざけ」
「何か話してほしい、とは言ったよ。確かにね。でも、君の恨みをぶつけてくれとは言っていない。あるでしょ? いっていい事と言っちゃダメな事。 まあ、今回は態度の問題だけどね」
凛賀は一歩、足を引いた。はずだった。視界は変わらない。
「今私を睨みつけている、避難所の皆さん。貴方たちもだよ? 私は君たちと一緒、あの巨人から逃げてきた。助け合おうじゃないか」
怪物が腕を広げた。
「おっと、自己紹介が必要かな? ご存じの方も多いとは思うけれどね」
凛賀は目を見開いた。目の横が裂けても、体の動きは止まらない。
怪物はすこし口角をあげた。
「あはは、自分で言うのは照れ臭いな」
凛賀の知らない、終わりのない過去があふれかえって止まらない。
怪物が表情を消した。
「私が、愚者王と呼ばれている、一般人だ」
愚者王。冗談でしか聞かない名称。そして、実際に存在する、災害。
もし目の前の存在が、もっと陽気だったなら、もっと軽薄だったなら。避難所の空気はほどけていただろう。恐怖を和らげてくれる存在になっていただろう。笑い声のひとつやふたつ、あがってもいいじゃないか。凛賀は笑った。不自然に、声を殺して。
当然のように、誰も動かない。だれも、怪物の戯言を笑い飛ばしてくれない。
凛賀は一歩、体を引いた。そして。
「ぁあっ!」
勢いよく、頬をたたいた。勿論、凛賀自身の。
「ああ、あああ、はあ、はあ……」
視界がぶれる。ぱちぱちと、外の空を繰り返す。凛賀は倒れ込んだ。
息を荒げる凛賀。その肩に何かが触れた。凛賀が顔をあげると、古枝がひきつった笑顔を浮かべていた。
「ね、ねえ、落ち着いて。ほら、えっと、その、あの。端っこまで、行ける?」
「あ、ああ」
声とも言えないような、かすれた音を出して、凛賀は古枝の腕をつかんだ。
そのまま引きずられるように、凛賀は避難所の端まで戻った。
「ど、どう? ええっと、落ち着けそう?」
「あ、ああ、なんとか……ありがとう、たすかった」
「えっと、その、無理に話さなくていいよ、息が、息が」
「りょ、了解……」
凛賀は息を整える。少しずつ、怪物を意識しないように言い聞かせて。
凛賀は首に手を当てる。そのまま、少しずつ力を加えていく……。
「え、ええ!? ね、ねえ、やめ、やめて!」
「あ、……あ」
凛賀の意識とは裏腹に、手に力がこもっていく。
クラクラする頭。それでも、凛賀の第六感は働かない。
(誰かの、特殊能力じゃ、ない)
凛賀はまた血を吹き出した。食い込んだ爪が皮膚を裂き、喉を押しつぶす。
(天秤が……傾いて……)
凛賀の意識が遠のいていく……。
「うう……ええっと、その。愚者王! 天秤の、その、直して!」
「うーん、おかしいね。傾いただけじゃ、人は死なないよ。勿論、自殺もしない。でも……そうか」
暗転して……消えて、いく……。
死にたくない、そんな激情に駆られることも許されずに。
「人じゃない、ということだね」
怪物の侮辱さえも、今の凛賀には届かない。
(意識が、足音だ、今日で俺は、誰かが、)
凛賀はただ、真っ暗の世界で涙を流す。
(ごめん、ごめんよ……誰か、誰に?)
小さな、大事なはずの疑問だけが、凛賀の意識を呼び覚まそうとする。
怪物に気を取られて忘れているぞ、大事なことがあったじゃないかと。
そんな内側の声も、徐々に届かなくなっていく。
「……おっと、正義の味方が来てしまったみたいだ」
「……」
凛賀は一人、消えていく意識に身を任せて……何かの気配と、頭を押しつぶそうとするような、それでいて心地よさも含んだ痛みを感じた。
記憶の輪郭をなぞるとともに、手の力が抜けていく。
(どう、して? いや、今は……いい。息を、息を……)
ようやく首から手が離れた時、凛賀は勢いよく息を吸った。どんよりとした新鮮な空気が凛賀の体に染み渡っていく。
空気が染み渡ると、今度は記憶の輪郭が、隙間の虚無に色をつけていく。
凛賀の内側で、蘇っていく。何か大切なことが。
「ああ、ああ、そうか」
掠れた声。
「なんで、なんで俺は……!」
掠れた……喜びに満ちた声。
ちょっとだけ、不安を含んだ声。
頭の中の隙間が埋まっていく。体を抱えたままの細い体が、凛賀の方を向いた。目を閉じたまま、にこりと笑った。
浮き出た頬骨が、余計に強調された様子を見て、凛賀はほのぼのした。
「そうだった、そうだったよ」
凛賀はゆっくり、目を開いた。
凛賀の目の前に居たのは……。
「思い出したよ、姉貴!」
像と化した凛奈の姿が、そこにあった。




