第十七話 よじ登れ、脱出経路を
「……やめてくれ、疲れているんだ」
息を荒くする凛賀。凛賀の眼前で、仮面の人間が腹を押さえて蹲っている。
見た目とのギャップに、凛賀は思わずたじろいだ。
(……は? なんなんだ、こいつは。いやでも姉貴を……姉貴!)
「姉貴を返せ!」
「……? りん……何とかじゃなかったのか?」
「は? なんの……どっちの話だ?」
「……?」
「はあ?」
仮面の人間と目を合わせること数秒。いい加減我慢ならなくなった凛賀は、宙を舞う像に手を伸ばした。その像は確かに、凛賀の姉、凛奈本人だった。
(姉貴みたいに、探知できたらいいのにな。でも、よかった)
硬くて軽い像は、体を抱えた格好のままぴくりとも動かない。それでも凛賀は、凛奈の像から何か温かみのようなものを感じていた。
「よかった、姉貴、無事でよかった……」
溶け残った肉の膜を全身に被っただけのほぼ裸の格好で、肉のない小さな少女の像を抱え、涙を浮かべる凛賀の様子は、側から見れば狂気じみているが、今の凛賀には関係なかった。
仮面の人間の冷たい視線を感じながらも、凛賀は姉を優先する。
近くで手を叩く音がして、凛賀は咄嗟に体を引いた。
「ああ、そうか。入れ替わっている、とか言っていた……か?」
「はあ? 何の話だよ」
疑心暗鬼の波に呑まれて、凛賀の頭は敬意も忘れ、咄嗟にくってかかるだけの木偶の坊と化していた。
「……その像を取り返すことが、今回の目標だった。中身の話はどうでもいい、撤退するぞ」
「中身? というか、何なんだよお前」
そばに落ちていた白衣を乱暴に羽織り、凛賀は仮面の人間を睨んだ。
「……? 何の話だ?」
「姉貴を持ってた、血塗れの仮面人間なんて、怪しまれねえわけねえだろ!」
仮面の人間が目を見開いた。
凛賀は身構えた。冷や汗と共に、正常な判断が少しずつ染み出ていく。
(やべ、姉貴のことでいっぱいいっぱいになってたけど……怒らせたら勝ち目ないじゃないか)
心臓の加速を感じながら、凛賀は仮面の人間の反応を待った。一瞬に満たないはずのその時間は、凛賀には永遠のように感じられた。
「……確かに。疑うのも無理はない」
仮面の人間が立ち上がると、散らばった箱が意思を持ったかのように動き出した。
何だ何だと焦りながら、それでも凛賀は黙って観察するしかない。即座に対応できるよう、凛賀は像から片腕を離した。
「……は?」
箱がぶつかり合い、砕け散っていく。できた破片が蠢き、繋がり、編み込まれ、また細かくなり。気づいた頃には、ボロボロのタオルのようなものが出来上がっていた。
仮面の人間は仮面を浮かせ、血を拭った。タオルは見た目ボロボロで、鋭い破片も散らばっているが、不思議と仮面の人間に傷の一つもつけなかった。
「……これでいいか?」
まだ薄らと赤いが、血だらけではない体を見せつけ、仮面の人間は得意げに言った。服に染み込んでいた血も何故か薄くなっている。
凛賀はただ、気圧されることしかできなかった。
「あ、ああ……」
「なんだ? 文句があるのか?」
未だ仮面の人間は疑わしい。疑わしいが、目の前で無防備にもタオルを作り、そして不審の原因を取り除こうとする、そんな大真面目なのか馬鹿なのかわからないが誠意は凄まじい相手を疑い続けるなど、凛賀にはできなかった。油断故の気の緩みが混ざっていたのかもしれない。
さらに、凛賀の中で、別の疑いが生じ始めていた。
(どっちだ? 本当に像を取り返してくれたのか、これも策略なのか)
凛賀は首を捻り、そしてやめた。
あの少年と目の前の仮面の人間との繋がりもまだ定かではない。敵同士だったらどうしようか、という不安がよぎり、凛賀は体を震わせた。
(いや、いい。信じない方がいい)
全て人は例外なく悪人の素質をもつ。それゆえに、最悪の事態を想定し続けなければならない。凛賀が十八年の人生で学んだ、生きていくための術である。たまに心に任せてしまうからこそ、理性は凛賀を拒絶する。
とりあえず言葉を選んで話そうと、凛賀は意識を切り替えた。
「いや、その、文句はない、です」
「……。 まあいい、脱出するぞ」
「え? でも」
(もしかして、さっきの少年とは無関係なのか?)
もしも仲間だったとしたら、少しは気にかけるはずだ。
仲間ではないのなら。または、面識がないのなら。今ついていくのは、得策ではない。凛賀はまた、身構えた。
そんな凛賀の様子に気づいたのだろう、仮面の人間は手を叩いた。
「……ああ、黎真のことなら気にしないでいい。どちらにせよ、足手纏いだ」
「黎真?」
「下で戦っている……少年? のことだ。迎えに行けと言われたのだが……」
(なんだ、面識あったのか。なら仕方ない、ついていくしかないか)
確かに、凛賀は足手纏いだ。今この場で役立つような特殊能力も、特筆すべき特技も持っていない。平均以上の身体能力を持っていると自負しているが、それもあの少年にとっては塵同然だろう。実際に風で飛ばされたのだ、あの少年にとって凛賀は塵以下なのかもしれない。
そして、凛奈の像を取り返した今、愚者という危険な存在がいるかもしれない場所にとどまっている必要も義理もない。
「わ、わかりました。脱出しましょう」
「……? ああ」
それだけ言うと、仮面の人間は歩き出した。凛賀は慌てて後をついて行った。
* * *
風で吹き飛ばされた時とは違い、凛賀たちは一層一層よじ登っていく。
(きついなんてもんじゃないぞ、これ)
簡単な話ではない。一層一層の天井が、凛賀二人分よりもなお高いのだ。天井ですら高いのに、さらにその上の階となると、突き出した床がネズミ返しのように生き物を拒絶する。
そんな場所へ、周囲の瓦礫を足場に、垂直に近い壁に手足を引っかけて、勢いをつけてよじ登る。
これらを研究施設を縦に貫く大穴の縁で行うため、少しでも間違えたら最下層まで真っ逆さま。極度の緊張と無理のある動きの中で、それでも凛賀は像を手放さない。
「……やっぱり、持つぞ?」
「いや、俺はまだ大丈夫だからいい、です」
「そうか。わかった」
仮面の人間の気遣いを無下にして、凛賀はよじ登っていく。
やっとのことで、また一層のぼり、息を整えながら凛賀は考えた。
地下研究施設は、とにかく広い。今登っている大穴の縁から見ても、明るい通路の向こう側を目視できないほどに。通路によっては曲がり角があるが、それも相当先である。
「あの……ここ以外の登れる場所、ない、んですか」
仮面の人間から受け取った水で喉を潤しつつ、凛賀はたずねた。
「……?」
仮面の人間は首を傾げた。
「あるにはあるが……作戦のために封鎖している」
「はあ? でも、それならそっちを」
他に登れる場所があるのなら、そっちの方が楽で早いのではないか。
「あと、確か……地上とは繋がっていなかったはずだ、多分」
「多分って……」
(思い返すと、こいつ、毎回うろおぼえじゃねーか)
凛賀は眉をひそめた。
「そして、十キロメートルくらい先だ」
「……」
(それを最初に言えよ、十キロなら諦めるわ)
見上げると、残り十一階層。凛賀の視界がくらくらした。
「……持つぞ?」
「……いや、でも」
凛賀はすでに、気づいていた。片腕で登ることには、限度があるのだと。
(俺一人なら……でも、姉貴を巻き込みたくない)
仮面の人間も気づいているのだろう、凛賀の腕が悲鳴をあげていることに。
「……そこまで悩むなら、天秤で縛ればいい」
仮面の人間の言葉は、凛賀にとって予想外の内容だった。凛賀は目を見開き、「正気か?」と呟いた。
情報の天秤。それを意図的に傾けることは、普通、忌避される。人に不快感を浴びせて無理やり従わせる、と言葉にするとわかりやすいだろう。
「いいのか? ……ですか?」
「安全が最優先だ」
「そう、ですか」
凛賀は顎に手を添え、思考を展開する。どれだけ縛るか、どれだけ傾けるか。そして、どの情報なら、適当に傾けられるか。凛賀は唸った。
息が整い、凛賀の意識がクリアになっていく。そして凛賀は気づいた。唸り声が別の場所からも聞こえていることに。
瓦礫の下から、白い布がはみ出している。唸り声に似た小さな呻き声が、どの方向からも凛賀を襲う。
(逃げ遅れたのか? いや、まて)
凛賀の記憶の節々から、霞んだ景色が蘇っていく。それは、これまで登ってきた九階層分の研究所。鮮明に、浮かび上がっていく。
無意識のうちに目を瞑っていたのだと、凛賀は気づいてしまった。
(避難は……終わってないんだ。違う、避難するまえに、始まったんだ)
人が少ないのは、避難したからではなかった。血の跡も、肉片も、誰かがいた熱も、全て無視してしまっていたのだ。
実際は違うとしても、凛賀には想像の余地もなかった。
(今もがいている人は……逃げ出せるような能力を持っていないんだろう。研究者だったら、おかしくないか)
人は普通、それぞれの特殊能力を活かせる生き方をする。その方が有利に生きられるからだ。
(記憶力も、頭の良さも、瓦礫に埋まったら意味ないもんな。助けている暇は……ないよな)
こいつなら、助けることもできるのだろう。凛賀はそう思い、仮面の人間の方を向いた。仮面の人間は何を考えているのか、凄惨な状況の中で一人ぼうっとしている。
凛賀は、重たい何かが肩にのしかかるのを感じた。足元で起こった、何かが潰れる音と共に。
(そうだ、天秤。名前……でもいいが、それ以上の情報があるじゃないか)
それは、天秤を傾ける行為とは違った、それでも確かに、他人を縛る情報。ただし、声高にできないだけで、生まれ持ってしまった性質である。
一定数、そういう人間が存在する。犠牲を伴う特殊能力が、今のところ完全ランダムであるとされているにも関わらず、そういう犠牲は一定数存在する。
「わかった。言葉に甘えて、縛らせてもらう」
「……ああ」
凛賀は両腕を挙げた。一般的に、降参の合図とされるポーズである。
仮面の人間が喉を鳴らす音がした。
(間違っても、襲いかかってこないでほしい)
「俺の特殊能力……姉貴との入れ替わり能力、その犠牲は……」
近づきつつある後悔の音を聞かないように、凛賀は奥歯を鳴らした。また一つ、肩の重みが増した。
「……一定時間以内の、殺人だ」
天秤が傾いた。そんな感覚が、凛賀の体を駆け抜ける。ただしそれは、気持ちの悪い暗色ではなく、どろどろした明色をしていた。
仮面の人間が身を引いた。
(無理もない)
殺人を犠牲とする人間は、特殊能力のための殺人を許されている。そのような制度があるわけではないが、暗黙の了解なのだ。
(俺も、弱い殺人犯だ)
犠牲というのは、確かに、人によって異なる。
異なるが、原則、破ったら罰がくだる。大抵は、死ぬ。
能力発動や強化の条件、などと甘く見てはいけない。
そうしなければ、死ぬ。生まれながらに強制された宿命なのだ。
自分が生きるために、相手を殺す。果たして、食事と何が違うのだろうか。
(勿論、俺は人を殺さないと生きていけないわけじゃない。でも)
殺人を犠牲とする者は、基本的に避けられ、社会で生きていくのも難しい。
当たり前だ。食事をするように人を殺す者が一人でもいたら、混乱が起こり、崩壊するだろう。
(それなのに、どうして人を信じられる?)
凛賀はただ、仮面の人間の返答を待った。
(助けた相手が殺人犯だとしても、こいつ驚かないだろう。返り血浴びてたし……。でも、犠牲が殺人なのは話が別だ、そうだろ?)
「……む?」
凛賀は身構えた。
しかし、返ってきた返答は、凛賀の予想を遥かに裏切る、見方によっては狂気的なものだった。
「そうか。納得の犠牲だ」
凛賀は呆気にとられた。手を伸ばされて、すんなりと像を渡してしまうほどに。
「は? それだけで、済ませるのか?」
「……? 何を言っている? ああ、そうか、入れ替わりか」
人間の想像というのは、存外ちっぽけなものである。
「愚者王を相手にするのだろう? 嵩陽……凛奈?」
「は? ちょっとまて、どういうことだ?」
「む? 凛さ? か?」
「凛賀だ。いや、そうじゃなくて」
「ああ、そうか。凛賀、か」
どうやら目の前の人間は、記憶力とコミュニケーションに問題があるらしい。今更ながら、凛賀は再確認した。
「いや、そうじゃなくて、愚者王って」
「……天秤を正してもいいのか?」
「いや、それは……」
「話は後だ、先に脱出するぞ」
「わ、わかったよ……」
もやもやは残ったまま、でも確かに、仮面の人間の言うとおりだった。凛賀は天井に手をかけた。
ちょうどその時だった。地下深くから、鈍い、そして巨大な音が鳴り響いたのは。




