第十話 初めての襲撃
凛奈が目を覚ますと、一人の気配が消えた。由逢と呼ばれていた少女だ。
「あれ……」
「おお、目ぇ覚ましたか! アァタシは布留火西瓜名、もぉちろん偽名だが? 医者は信頼が一番だからなぁ!」
さっきまでのどんよりした雰囲気はどこへやら。首を傾げて、凛奈は体を起こした。
こういう時はなんというのだったか。凛奈は記憶を探り、長らく使ってこなかった単語を口に出した。
「……おはよう、名さん。えっと、さっきの……」
「あぁ? ちょっと待て。凛奈、でいいんだなぁ? 入れ替わってないか?」
「え? あ、そっか」
(そっか、そういえば入れ替わってた)
入れ替わり系の特殊能力は、珍しい。珍しいが、系統に区分される程度には存在する。実際、入れ替わり能力が歴史に残っている者もいる。
しかし、特殊能力の解除条件は人によって異なる。極端な話、動いただけで元に戻る者もいれば、死んでも戻らない者もいるのだ。
(いや、もしかしたら……弟が、死んでも戻らなかったのなら……)
凛奈はグッと、拳を握りしめる。巻き込まれた布団が、ザラザラと音を立てた。
(落ち着け、落ち着け私。大丈夫、きっとまだ……)
取り乱しても、何かが解決するわけではない。それでも、取り乱さずにはいられない。
(……気を紛らわさないと)
どちらにせよ、名の疑問は至極真っ当だ。
少し揶揄ってやろう、と凛奈は頬を緩めた。目元を変えるのは忘れていた。
「え、えへへ、どっちでしょうか~!」
「……あぁ? ッチ、アタシにゃわかんねぇなあぁ……」
「ふふ〜ん、正解はー? 凛奈でした!」
「ああー、マジかぁー」
凛奈の気分は高揚している。悲痛な声も忘れて、楽しんでしまった。
楽しんだ振りは、長くは持たなかった。
(……やっぱり、誤魔化せないか)
頬を伝って落ちていく。立ち直るにはまだ、相当な時間が必要らしい。
* * *
「あぁー、そぉろそろ喋っても大丈夫かぁ?」
「……ごめ、ごめんね、名さん。どうしても、肩が、震えてっ」
「あぁ、大丈夫だ、アタシに構わねぇでいい。凛奈も由逢もまだまだ子供だからなぁ、大事にしろよ、その気持ち」
「……え」
「アタシは葬式ん時に一緒に燃やしちまったからな、心を」
夕日を背景に、シルエットとなった名の横顔は、凛奈の目には酷く寂しそうに映った。
凛奈は、かけるべき言葉を探した。探せば探すほど、先程の痛みを散らすための揶揄いが思い浮かんで、凛賀の頬が赤らんだ。
「……さて。落ち着いたか、テメー」
「え、あ、うん、落ち着いたよ」
「体調はどうだぁ? ぶっ倒れたんだろ、テメー」
「ええっと」
凛奈は体を動かした。動作がぎこちなく、凛賀と同じ動きではないが、それでも動いている。
「大丈夫そう、かな?」
「よぅし、んじゃ、これ飲めぇ? アタシ特製栄養水! 多量摂取は御法度だぜぇ?」
「あ、ありがと」
凛奈は水差しを受け取った。名の腕が、少し細くなっている気がした。
少しずつ飲み込んでいく。だんだん、体の苦しさが消えていく。
「飲んだかぁ?」
「うん、ありがとう」
「あぁ」
水差しを手渡す時に、凛奈は気づいた。明らかに、名の腕が細くなっている。
どうしてだろう、と好奇心が加速するままに、凛奈は言葉を紡ぐ。
(特殊能力かな、それともさっき言ってた過去? 慎重に聞かないと……)
できる限り考えてから、出来上がってから。名の傷に塩を塗らないように、慎重に。
しかし、凛奈にできる配慮など、たかが知れていた。
「ね、ねえ、名さん? えーっと、腕、細くなってる、よ?」
「あぁ? ああ、本当じゃねぇか、ったく。気にすんな、アタシの特殊能力でな、よくなるんだ」
「へえー、そ、そっか」
名はため息をついた。
特殊能力を使うまでもなく、名がよろけていることに、凛奈は気付いた。しかし、聞き出すことはできなかった。
「とぉころで、テメー、いつから起きてたんだ?」
「え? ええっと、ちょっと前から……」
「んじゃあ、アタシと由逢の話、ちょっと聞いてたか?」
(! そういえば、忘れてた!)
凛奈は起き上がり、ベッドの縁に座った。流れ込む情報が、少しずつクリアになっていく。
上の方から、ぐちゃ、と音がしたが、凛奈は聞かなかったことにした。
「よくわかんなかったけど、聞いてたよ。いま上の階にいる子でしょ?」
「よぉし、んじゃ、紹介するぜ。由」
「真、逃げる!」
名がそう呼んだ時。由逢の声が聞こえた時。
その瞬間、部屋の空気が、ぐしゃりと歪んだ。
凛奈の視界が真っ赤に染まった。どろどろした生暖かいものが、顔に体に、そして部屋中に飛び散ったのだ。
「……え?」
何が起きたのか、凛奈にはわからない。どれだけ情報があっても、処理が間に合わなければどうしようもない。それだけ、一瞬の出来事だった。
凛賀の口に入った液体は、暖かくて、少し塩辛い。
(……血、だ)
液体の味は、凛奈にとって、嫌になるほど味わったものだった。
(そんな、嘘だ、何が起きて、名さんが目の前にいるはず!)
特殊能力までもが、それが血であることを肯定する。
混乱の最中、凛奈は目元をぬぐった。視界が開かれ、悲惨な状況が網膜を刺激する。
凛奈の特殊能力は万能ではない。凛奈自身が抱え込める限界までしか、情報を持ってこない。いや、置いていかない。
一瞬だけ、凛奈の能力が失われた。視界が凛奈を支配した。
(名、さん……?)
名が、凛奈の目の前に立っていた。胸から腹にかけて、血を、内臓を、吹き出して。
……心臓の動きが、よく見えた。
「こふっ、ぐ、がぁ」
「名さん!?」
凛賀の耳が、重たい音をとらえて狂乱した。上下左右から、重たい圧迫感が湧き上がっている、と特殊能力が警鐘を鳴らした。凛奈は、呼吸さえも忘れた。
凛奈は、上の階から殺し合いの気配を感じた。不思議なことに、死の気配はなかった。
固まった動けない凛奈に、名が声をかけた。血を吹き出し、凛賀の服に吸われていく。
「り、んなぁ……よ、べ、たす……」
名が言わんとしていることを、凛奈は理解できなかった。凛賀の体だけが、別の意志を持ったかのように、ひとりでに動き出したのだ。
「! わかった!」
凛奈は立ち上がった。立ち上がって、窓辺によって、黎真を呼ぼうとした。助けてと言うだけで来てくれる頼もしい少年を。だが。
凛賀の体は、窓辺まで持たなかった。崩れ落ちるように、凛奈は倒れた。
(どう、して……!)
名の栄養水で抑えられていたはずの犠牲が、勢いを増して凛奈を蝕んでいく。凛賀の体を飲み込んで、最適化しようとする。それでも、凛奈はあきらめない。
肺に残った少ない空気で、凛奈は助けを呼んだ。
「たす、けて……!」
小さな、かすれた声だった。こんな声じゃ、誰にも届かない。そう、凛奈に諦めさせるほどに。
(これじゃだめ、どうにかしないと!)
みるみる細くなっていく腕で、凛奈は這って進む。少しずつ、窓辺に近づいていく。少しでも、声を届かせるために。
澄み渡った意識を手放せないまま、特殊能力にたたき起こされ続け、凛奈は少しずつ進んでいく。
(……だれ!?)
凛奈の像の元に、誰かが迫っていることに、凛奈は気付いた。黎真ではない、聖者でもない。誰か知らない人が。
――そこから先は、凛奈の記憶に残っていない。特殊能力さえ、記録できなかった。
ただ一つ、凛奈にわかることは、またしても、意識を失ったことだった。
* * *
凛奈は目を覚ました。醒めてすぐ、背中に温度を感じ、手を動かす。
どろりとした液体と、弱々しいメトロノームが手に触れた。
「なん……だっけ?」
凛奈は起き上がろうとした。縫い付けられたかのように、体は動かなかった。
「あれ、なんで……」
何が起こったのかを思い出そうとした矢先、犠牲が凛奈に襲い掛かった。いや、もともと存在していた。ただ、知覚していなかっただけだ。
(ん、……はあ、これじゃ思考もままならないよ……)
長い付き合いなので、犠牲がどれだけ強くとも凛奈は耐えることができる。
(でも、こんなに強かったこと、あったっけ?)
凛奈史上、最も苦しい犠牲だった。
(栄養水の反動? でも、変な感じがするんだよね)
考えてもキリがない。動けるようになるまで、じっとしていよう。それが、凛奈が下した判断だった。
変化はすぐに起こった。
凛奈の視界に、黎真が写り込んだのだ。
悲惨な状況が見えていないのだろうか。口元を緩ませた黎真が、凛奈を見下ろし、また笑った。




