とある雑誌編集者の手記②
「長谷川様? 随分と顔色が悪いようですが」
「い、いえ。なんでも。それよりも、この旅館の裏手にあると言う秘湯を見せて頂きたいのですが」
「そうでしたね。では、ご案内いたしましょう」
秘湯へ向かう通路へ向かう途中、私は怨咽鳥の話を聞いた。
かつてこの地は戦場であり、多くの兵が命を落とした場所だった。その戦場後に村が立てられ、飢饉や新たな戦場になっては幾度となく滅び、また新たな集落が出来る。
怨咽鳥は、再建の度に語り継がれてきた謂わば伝説なのだと。
そして今日は、地元の神社で鎮魂の儀が執り行われる日なのだと。この町に住まう全ての住人が強制的に神社に集められ、積りに積もった怨恨を鎮め怨咽鳥の再来を防ぐ禊の儀式が今まさに執り行われている真っ最中なのだと。
その秘湯には、旅館の裏手から木道で繋がっていた。木道と言っても殆ど舗装されておらず、踏み固められた山道に木の板を並べただけの、簡素なものだったが。女将は仕事があるというので、私は一人木道を歩く。
今は使われていないと言う田畑は荒れ放題になっていて、生い茂る木から伸びる枝が邪魔で通りづらい事この上ない。
道を歩く事二十分ほど経っただろうか。急に視界が開けた。目の前には、薄く湯気が立つ乳白色の秘湯が姿を見せた。
岩肌からちょろちょろと流れ出る源泉は人工的に作られた岩風呂へと流れている。
私は居てもたってもいられず、その温泉に手を伸ばす。入る者によって色が変わると言う温泉、試したくなったのだ。
だが、待っていたのは私が期待した反応では無かった。
指に触れた途端、乳白色の温泉はたちまち濃紺へと変わり、まるで沸騰したかのようにぼこぼこと音を立て始めた。
慌てて手を引っ込めるも、色はやがてどす黒く染まり、硫黄とも違う何やら腐ったような臭いまで漂い始める。
なぜこうなったのかは分からないが、ともかくこの場所から離れよう。そう思った矢先の事だった。
男性の断末魔のような叫び声が周囲に響き渡った。同時に、女性の金切り声のような恐ろしい声も。その音に触発されたのかぎゃあぎゃあと烏が無き、一斉に飛び立つ。先程まで鳴いていた蛙が泣き止み、辺りは静寂に包まれた。木々のざわめきや葉が擦れる音、風の音や水の流れる音すら聞こえない、一切の無音。余りの恐ろしさに帰ろうとした私は、踵を返した直後目に入って来た光景にぴたりと足を止めた。
私の通って来た道の途中。黒い着物を着た女性が、じっとこちらを見つめていた。
生気の無い表情でこちらをじっと見つめるその女は。先程まで私を案内してくれていた、あの女将だった。
いつの間に着替えたのだろうか。結い上げた髪は降ろし、後頭部には鳥の頭蓋骨の様なお面を付けている。
先程までとは打って変わった様子の女将は小さな声でぶつぶつと呟きながらこちらへと歩いてくる。怯んだものの、帰る道はこの一本道しかない。私はいつでも逃げれるように足に力を込め、深呼吸をして帰り道を進む。
私と女将が歩み寄り、共に立ち止まる。そこで、私は漸く気付いた。
女将には。いや、その女には白目が無かった。全てが黒く染まった眼で、私を品定めするようにじいっと私を見上げていた。三日月のような笑みを張り付けて。
全身が泡立つような感覚に襲われた私は、その女を突き飛ばして走り出す。決して後ろを振り返らずに、真っ直ぐ旅館への道をひた走る。
けれども私は、後ろに置いてきた筈の彼女が小さく呟いたのを確かに耳にした。私のよく知る後輩の声で。
――見つけた、と。
その日の夜だった。
息を切らして帰って来た私を待っていたのは、あの女将だった。その頃には力などとうに使い果たして、私は腰を抜かして後ずさるしかなかった。
ガタガタ震える私を見て何かを悟ったのだろう、女将は酷く険しい顔をして旅館に引っ込むと、硫黄のような臭いのする液体と粉を持ってきて私に撒いた。
そして、強引に腕を引いて旅館の中へ押し込むと、熱燗を持ってきて私に強引に飲ませた。
漆黒の羽で作られた払串のような物を振り回し、木炭で私の周りに円を書くと、両手の甲を打ち鳴らし頭を上下に振りながら何事かを唱え始めた。
その一節を、私はこの手帳に記す。どうか、今後の為に役立ててほしい。
「畏み申す、死出の鳥。慄き申す、栄枯の○○神鳥。畏れ多くも禍事集いしかの地に顕現せしめるは御鳥の御業によりけんと――? 怨は縁となりて咽は泣へ続き奉るは畏れ多くも御鳥への弥栄あれと聲にならんと。我らが贄を以て諸々の穢れは新たなる荒神とならんと願い奉る」
この時、私は気付くべきだった。女将が、人間のものではない下卑た笑みを浮かべていたことに。払串を持つ女将の手にどす黒い羽がびっしりと生えていたことに。女将が祝詞を唱える度に、私の視界の端に無数の黒い影がぞわぞわと蠢いては近づいてくることに。
無数の黒い影が、皆一様に人の形をしていた事に、私はもっと早く気付くべきだった。




