とある雑誌編集者の手記③
あれから、旅館自慢の夕飯に舌鼓を打ち、女将に薦められるがまま酒を空ける事数本。
その頃には、私は午前中の出来事などすっかり気にならなくなっていた。
明日の朝一には東京に帰らねばと何とか理性を総動員して、便所に立ち寄った時の事だった。
私はふと違和感に気づいた。この旅館には、人っ子一人泊まってやいないのだ。ニュースでも紹介され、あれほどSNSでも話題になっていたのだ。宿泊客の一人や二人、いてもおかしくは無いだろう。
いや、違和感はそれだけでは無かった。この旅館で働く従業員を、私は女将を除いて誰一人として見てはいない。
皆忙しくしているのだろうと勝手に思ってはいたのだが、どうも違う。人手不足と彼女は言っていたが、だとしても一人で経営するなど不可能だ。
それに何より音を立てる廊下が、私が歩く時を除いて一度も鳴っていない。
便所を出ると、廊下を進んで自分とは違う部屋にわざと入ってみた。
部屋は鍵が掛かっておらず、恐る恐る開けると部屋は荒れ放題だった。
襖は所々に穴が開き、畳はボロボロに朽ちて椅子や机には蜘蛛の巣が張っていた。そして、部屋の中央。本来ならば照明がぶら下がっている筈の所には、あの掛け軸がぶら下げられていた。
私の部屋とは違う、苦悶の表情を上げる人々を大きな口を開けて呑み込む、不気味な鳥が描かれていた。
私は恐怖に駆られ勢いよく襖を閉じる。そうして部屋を後にすると、別の部屋を覗き見る。
今度の部屋も、荒れ果てていた。部屋の中央にはまたあの掛け軸がぶら下がっており、黒く染まって地に伏した人間を漆黒の翼を生やした鳥頭の人間が踏みつける様子が描かれていた。
次の部屋では、鳥頭の人間と平伏する人間たちが。また次の部屋では、炎を上げて燃える鳥頭の人間と黒い塊を呑み込む人間の姿が。
そうして、私は最後の部屋へと辿り着く。向かいの部屋もまた、好き放題に荒れ果てていた。
今すぐここを発たなくてはいけない。そう思い、飛び出て部屋へ向かう。ぎしぎしと不自然な程に音が鳴る廊下を足早に駆け、案内された奥の部屋まで戻る。
荷物を纏めて帰ろうと部屋の扉に手を掛けた時、私は手を止めた。
閉めたはずの扉が、僅かに開いていた。それだけなら私は気にも留めなかったろう。けれども、今の私は恐ろしい事態が起こっていると確信できた。
消したはずの電気が付き、部屋の中からガタガタと音がする。鳥の囀りのような、誰かがすすり泣くような声が部屋から聞こえていた。
武器にも成らぬスマホを握りしめ、私は意を決して部屋に繋がる襖を思い切り開けた。目の前の光景に、目を疑った。
部屋の中は、散々に荒らされていた。窓は割れ、障子は破られ、襖は開けられていた。あれだけ綺麗だった畳は異臭を放つ泥で踏み荒らされ、鳥の足跡にも人間の足跡にも見える模様がくっきりと残っていた。
そして、私の鞄。何か鋭利な物で突かれたように穴だらけになっていた。
中に入っていたカメラのレンズは砕かれ、レコーダーやパソコンにも傷がついている。
幸いにもスマホは手の中にあったし、財布は金庫に仕舞っていたから無事だった。
今すぐこの場を後にしようとしたその時、窓の外から男の断末魔のような、女の金切り声のような奇声が響き渡った。午前中に聞こえたあの声が、今度は明確に近くから聞こえる。
声の発生源を確かめるべく、私は窓の外を見た。一際高い木の天辺に、何かが立っている。立って、こちらをじっと睨みつけている。
長い脚、黒い翼、灰色の胴。そして、血走った鋭い眼。間違いない。――怨咽鳥だ!
そう悟った瞬間、私は走り出していた。
ぎしぎしと鳴り響く廊下をひた走る。私の後ろから、奇声と共に追いかけてくる足音が聞こえる。入り組んだ廊下は滑りやすく、何度も転びそうになりながら階段を駆け下りる。電気の消されたエントランスを駆け抜け、裸足のまま玄関を出ようとして、鍵が掛かっている事に絶望する。
後ろからは、けたたましい奇声が聞こえている。その声は幾人もの男女の声であり、あの女将の声であり、後輩の声だった。
その時、私はついぞ悟った。この旅館は、鳥籠だったのだと。
怨咽鳥を閉じ込める籠でではなく、誰かに恨まれた人間を次の怨咽鳥にするための、牢獄だったのだと。
玄関に刻まれていた、あの印も。出入り口から遠い部屋に案内されたのも。そして、あの温泉も。入る人によって色が変わる温泉は。
憎悪を受けた者を選別し、かつ獲物を確実に仕留めるためのマーキングだったのだと。
そして今日は。後輩の命日であり、古戦場だったこの地で多くの武士が亡くなった日であり、未曽有の大飢饉で多くの住民が餓死した日でもあった。
倒れこむ私を、無数の黒い影が見下ろしている。彼らは生気の無い顔で、怨咽鳥と同じ血走った目をしながら私を指さし手を伸ばす。
嘴を除いて後輩と同じ顔になった奇怪な鳥がケタケタと人間のような嗤い声を上げながら漆黒の翼を大きく広げ、頭を振って長く鋭い嘴を私の体に突き刺す様が、私の見た最期の光景だった。
あれから、どれだけの月日が流れたのかは分からない。
けれども私は何とか逃げおおせ、無事に記事を書いて雑誌掲載に漕ぎつけたようだ。
上司はよくやったと褒めてくれたが、私は体調を崩す日々が続きあの後すぐに会社を辞めた。
旅館は私が取材した時とは打って変わって随分と賑わっている。
あの女将は家庭の事情で旅館を去り、今は私が後を引き継いで旅館を経営している。最初こそ上手く行かなかったが、私と共に在る多くの仲間が手を貸してくれた。一昨年からアルバイトが入り、今では一部接客も任せている。京都の寺や神社で働いた経験を持つ若い5人組の女性だが、なかなかどうして要領が良いのかお客様からの評判がめっぽう良いのだ。
とはいえ。
彼女達では到底無理だ。健全な人生を歩んできた彼女たちでは、私の器には成り得ない。それに、多くの仲間も彼女たちに当てられて次第に私の影から出てこなくなった。それほどまでに、我らの力は削がれている。
なればこそ。早く器を見つけねば。
だから。どうかこの手帳を読むあなたに、お願い致します。
どうか頼みます。誰かから恨みを買ってください。誰かに疎まれ憎まれ呪われそして、その者を死に追いやってください。
事故でも事件でも構いません。私がその者を頂きに参ります。
どれだけ時間が掛かるか分かりません。私が迎えに参ります。私の代わりとなって、次の怨咽鳥になって下さい。
そうして、私をこの地獄から解放してください。
何卒何卒何卒何卒。
どうか宜しくお願い申し上げます。




