田中あずき 春①
ヒーローがいるとすれば彼だと思った。
ピンチの時に颯爽と現れて助けてくれる。日曜日、朝のヒーロー番組を欠かさず見ているあずきにとって、ヒーローの存在は憧れの体現と言って良かった。
彼、中谷勇次と再会したのは高校の入試会場で同じ教室でテストを受けた。試験が終わって、あずきは勇次に声をかけた。
「ねぇ? 私のこと覚えてる?」
今から考えれば、素直過ぎて自分じゃないみたいだった。
「は? オマエ誰?」
言うと勇次はさっさと教室を出て行ってしまった。あずきは内心で中谷勇次の写真を貼りつけたサンドバッグをタコ殴りにする想像を五秒ほどした。最後の一発は勇次の顎に入れてから、ため息をついた。
勇次があずきのことを覚えていないのは当然だった。中学三年の春に一度会ったきりだし、その一度だってほんの数分の出来事だった。
更に言えば、当時のあずきは厚い眼鏡をかけていた。髪の手入れも熱心にしていなかったし、化粧なんてもっての他で、自分を助けてくれた男の子の唇から流れる血を拭き取るハンカチさえ持ち歩いていなかった。
逆に今のあずきはナチュラルメイクを姉から教えてもらい、美容師さんと三紙のヘアカタログ雑誌を並べて自分に合う髪型を探し出した。眼鏡はコンタクトにして、ハンカチは一週間毎日替えても問題ないくらい買いそろえた。
中学三年の夏休み明けには、現在のあずきが出来上がっていた。その頃からあずきは町で中谷勇次と出くわさないか、と心のどこかで期待をしていた。
そして、高校進学と共にあずきの期待は叶った。クラス名簿を見て、中谷勇次の名前を見つけた時、あずきは「よっし」と拳を握った。隣に居た葵に「あずきちゃん、分かりやすいよ」と諌められた。
「いやいや、葵と同じクラスだったから、だよ」
とあずきは言ってみたが、葵はお母さんみたいな包み込むような笑顔を浮かべているだけだった。
「ちょっと、猫の足先程度、会って話がしたかったヤツと同じクラスになれたので、舞い上がりました」
「よろしい」
そんな会話をしつつ入学式の列に並ぼうとして騒動が聞こえた。思わず目を閉じてしまう破壊音と共に濁った叫び声が響いた。喧嘩だった。
教師が数名、現場に集まった時ドーナッツ状になった野次馬の中心に一人突っ立っているのが中谷勇次だった。足もとには如何にも柄の悪そうな男が三人倒れていた。拳と上着に赤い血がついているが、彼自身に怪我があるようには見えなかった。
勇次は教師に対してもひるむことはなかった。彼に質問をする教師の方が冷静さを欠いているように見えた。醒めた目で教師を見つめる勇次に対し、教師はその場で帰宅を停学を言い渡した。勇次は反論をせず、スクールバッグを持って校門へと向かって歩き出した。
彼の後ろ姿を見送りながら、あずきは今まで自分の中で積み上げた身勝手な中谷勇次像が壊れていくのを感じた。
助けてくれた。そんな事実一つであずきは勇次をヒーローのように感じ、勝手に良いヤツだと疑ってさえいなかった。
駆けつけてきた教師に対しても容赦なく向ける鋭い眼光。そこには間違いようのない敵意があった。彼は誰かを助ける強さを持っているが、だからと言って正しいことを順守するとは限らない。そんな当たり前を見逃すほど、あずきは勇次に対して強い憧れを抱いていた。
◯
四月の終わりの週明けから中谷勇次が教室に通うようになった。
喧嘩の時のように誰もが勇次から一定の距離を取って、遠巻きに彼を観察していた。その一人にあずき自身も甘んじていた。
勇次自身は周囲の冷淡な反応に対して特別リアクションをせず、普通に授業を受けていた。教室で浮いた勇次に声をかける同級生は守田裕だけだった。
銀縁眼鏡で茶髪。いかにも遊んでいますという風貌は、あずきの苦手なタイプだった。
守田と勇次は同じ中学で昔から仲が良いのだと、彼らと同じ中学校に通っていたクラスメイトの女の子から聞いた。ついでに守田は下級生の女子にそこそこ人気で卒業式の日、学生服のボタンを全て取られ、今は年下の可愛い彼女がいるとのことだった。
へぇ、とあずきは曖昧に頷く。
「その代わり同級生からは、良い評判を聞かないんだけどね。いっつも中谷と何か騒ぎを起こしてるから」
クラスメイトの心底、迷惑そうな顔を見てあずきは「大変だったんだね」と頷いた。
「もう最悪よ。中一の時かな? 野球部員と部室で喧嘩騒動を起こして半年間、部活停止にさせたんだから」
「え?」
「野球部の当時の三年生が問題を起こしたらしいけど、だからって一、二年生にまで喧嘩売る? 中谷と守田二人だけで野球部全員と喧嘩するとか頭おかしいでしょ? ホント関わりたくない」
「そうだね」
と言いつつ、なるほどとあずきは納得した。
中谷勇次が騒ぎを起こし、そこに守田裕もいる。派手に立ち回る勇次の横で諌めたり、協力する守田は迷惑をこうむる同級生からすれば迷惑な存在、それを遠くから傍観している下級生からすれば興味の対象と映るのか。
ということは、密かに勇次に好意を寄せている女子も居たりするのだろう。昔の私のように、とあずきは不機嫌に思う。
黒歴史という言葉が浮かぶ。
中谷勇次に救われ、彼をヒーローのように感じて、女子らしく振る舞うようになったことが、凄く浮かれた恥ずかしい行為な気がしてくる。
更に言えば、あずきは目立つことをすれば彼が見つけて声をかけてくれるかも知れないと思って、学園祭のライブイベントに参加して歌ったりもした。勿論、ライブイベントは中谷勇次のためが百パーセントという訳じゃなく、単純に誘われて歌うことが好きだったからという理由もある。
けれど、勇次のことがなくてもステージに立ったか? と問われると答えはノーだった。
中学時代の文化祭のライブイベントで現在の眠る少女のドラム担当、あきと出会い、バンドを組むことになった。だから、浮かれて目立った行為それ自体はまったく無意味ではなかったし、あずきに有意義な日々を与えてくれたとも言える。
ただ全ての始まりには中谷勇次がいる。
この事実からあずきは逃れられなかった。
野次馬に一定の距離を持って観察される男。声をかけられず、誰かに襲われることもない。何も得られない孤独な獣。
あずきが憧れたヒーロー。
そんな中谷勇次を気にかける同級生、守田裕。彼は決して勇次を悪く言わなかった。冗談っぽくからかうことはあっても、誰かに警告めいた物言いはしないし、ダサい不良グループのようなべったりいることもなかった。
守田裕は中谷勇次を一人の男として認めているし信頼している。そういう空気を一緒の教室にいるだけでも感じ取れる。
人とちゃんと対等になれる人間を信用しなさい、とは母の台詞だった。中谷勇次と守田裕は対等であろうとしている。勇次は信用できる人間かも知れない。
淡い期待があずきの中に芽生えた。
しかし入学式に上級生と喧嘩をしたことは間違いがなかったし、原因は喧嘩を売られたから買ったという単純明快なものでしかなかった。勇次に殴られた上級生の一人は病院通いになったと噂で聞いた。中谷勇次が信用できる人間であっても、彼が揮う過剰な暴力をあずきは良しとはできなかった。
その暴力に救われた経験があったとしても、その暴力によって傷つく人の方が多いのであれば、やっぱりあずきは勇次を容認できなかった。
結果、あずきは高校入学してから不機嫌な日々を過ごしていた。笑顔は常に引きつっているし、気安く話かけてくる男子には先輩、同級生関わらず冷たい態度を取った。普段なら、もう少し優しく断るのに、とあずきは更に苛立ちを募らせていた。
そんな矢先の四月最後の火曜日だった。葵と一緒に明日放送のドラマについて喋りながら廊下を歩いていると、上級生の噂話を聞いた。
中谷勇次と喧嘩をした三人が退学になった、という内容だった。あずきは葵を置き去りにして話をしている上級生に近づいて話を聞いた。
内容は以下のようなことだった。
彼らは万引きの常習犯で、複数の後輩や気の弱い同級生に命じて親の財布から金を抜き取らせてもいた。同級生のうちの一人は不登校にもなっていた。
発覚のきっかけは中谷勇次の保護者である姉、優子によるものだった。
優子は勇次を連れて怪我をした上級生のもとを訪れ、謝って回っていたそうだった。そこで優子は上級生の一人に万引きの事実を指摘した。というのも、優子は町のスーパーに勤めており、万引きしている彼を何度か見かけていた。一人の供述から、勇次が喧嘩した上級生全員の関与が認められた。
結果論だが、入学式で中谷勇次が喧嘩をしなければ彼らの悪事は暴かれなかった。
では、中谷勇次は正義か悪か?
それは人の立場、見方によってまったく異なる。ならば、田中あずきにとって彼は正義か悪か?
暴力は当然、悪だ。しかし、暴力でなければ解決できない悪もある。ヒーロー番組の見過ぎかも知れないが、傷を負わない正義を正義と言って良いのかとあずきは考えてしまう。であるなら、中谷勇次は悪だと周囲から思われる傷を負いながら正義を貫いているようにも見えてくる。
けれど、彼の正義とは何だろう?
堂々巡りだった。あずきは中谷勇次に憧れた過去があるために、彼を良く見ようとする気持ちがあることを認めない訳にはいかない。自分が携わり、関わってきたもの全てが良いものであって欲しい。そんな子供のエゴがあずきの中には深く根を下ろしている。
だから、ちゃんと面と向かってあずきは中谷勇次に問わなければならない。
貴方の正義とは何か? と。
◯
守田裕の彼女が千原蓮華だと知ったのはゴールデンウィークに入る二日前のことだった。蓮華は三月中旬に参加したライブイベント(眠る少女にとって初めてのライブだった)のお客さんの一人で、ライブ終わりに声をかけてきた。
「私もバンドを組みます。いつかちゃんとライブするので連絡先を交換してください」
蓮華は眠る少女のファンというより、ボーカル兼ギターのあずきをライバル視していた。顔を合わせば、蓮華は曲のダメなところや歌い方の悪いところをあずきに指摘した。
眠る少女は結成して数ヶ月の素人集団であり、あずきに関してもギターを弾きながら歌う経験は乏しく自覚があるほどにつたなかった。蓮華の言うことはごもっともとあずきは常に頷いていた。
そんな蓮華に彼氏がいるとは聞いていた。ただ、それが同じ学校のしかもクラスメイトの守田裕だとは思わなかった。
放課後のスタジオ練習を終え、近くのコンビニへ立ち寄ると蓮華が居た。偶然と言うよりは待っていたのだろう。蓮華はニコニコ笑いながら「あずきさん」と声をかけてきた。
葵は用事があると先に帰ってしまっていたので、あずきは一人で対応することになった。正直、面倒な気持ちが勝っていた。
「裕くんと同じクラスなんですね!」
「ほんと、奇遇だねぇ」
「ねぇ今度、皆で遊びましょうよ!」
「皆って?」
「そーですね。あたしと裕くんと、あずきさんともう一人誰か男の子誘ってダブルデートしましょう」
そうだね、とあずきは曖昧に頷いて、蓮華とは別れた。
ダブルデート。
デートだけでも、自分に関係ないと思ってしまうのにダブルと来たものだから、もはやあずきにとって遠い異国の言葉だった。あずきは男の子とデートをしている姿を想像したことさえなかった。
去年まで実家で生活をしていた姉の友香がいつも彼氏とデートに出掛けるのを見ていたから、それがどんなものか知らない訳ではない。更に言えば、中学時代に何度か告白もされたから彼氏を作る機会がなかった訳でもなかった。
けれど、あずきは誰かと付き合おうとは思わなかったし、恋愛をしている自分を想像することもなかった。
そこには父の影響が強くあった。
中谷勇次に助けられる前、中学二年生の終わり、父は浮気をして家を出て行った。母や姉は平然としていたが、あずきはひどく混乱した。しかも、そこであずきと姉は父親が違い半分血が繋がっていないことも知った。
訳が分からなくなったあずきは家を飛び出した。行く場所なんてなくて葵の家を頼った。葵のお母さんは事情を聞くと「分かった。あずきちゃんのお母さんには私から連絡を入れておくから」と言ってくれた。
「ありがとうございます」
「誰にでも混乱する時期はあるからね。気にしないで」
葵も自分の母の言葉に小さく頷いていた。あずきは自身をひどく子供に感じた。中学二年生で十四歳。子供でない訳がないのに、あずきは子供であることが嫌だった。
父は私たちを捨てた。
まさに子供の言い分だった。しかし、あずきはその考えから逃れられなかった。心の底からあずきは父を信頼していたし、愛してもいた。父もあずきのことを愛してくれていると思っていた。なのに、父はあずきや姉、母を捨てて知らない女のところへ行ってしまった。
あずきは父を憎まずにはいられなかったし、父の性である『男』を嫌悪せずにはいられなかった。
男なんて皆、女の子のパンツの中に手を入れることしか考えていないし、飽きたら他に行く結局は女の子をモノとしか見ていない不純極まる存在なんだ。
なんと感情的な結論だろう。けれど、当時のあずきは真剣にそう考えていたし、それ故に怒っていた。
葵の家にお世話になって三日が経った夕方、姉の友香が訪ねてきた。手土産に母が作ったサンドイッチを持ってきてくれて葵、あずき、友香の三人で喋った。あずきは母のきゅうりのサンドイッチを食べつつ、ここ三日考えていたことを脈絡なく喋った。話を聞いた友香はあずきの主張を極端だと言った。
「世の中には色んな人がいるよ。一途に一人を愛し続けている人だっている。でも、皆が皆そうじゃないってだけ。それに、ちゃんと人を好きになるって素敵なことだと思うよ。恋愛が世界の全てとは言わないし、絶対にしなくちゃいけないことでもないけど。してみると意外と楽しいし、ないと味気ない気もする。わたしはそう感じるって言う話であって、あずきはあずきが思う通りにしたら良いよ。あんたは他人に合わせて納得することは出来ないんだから、ずれても浮いても、ちゃんと納得して進んでいくしかないんじゃない?」
友香のあずきは他人に合わせて納得できないという部分で葵が深く頷いているのを見て、え? 私ってそーいう認識? とあずきは戸惑ったが、それは後回しにして口を開く。
「お姉ちゃんは納得して恋愛しているの?」
「んー、そういう考え方を恋愛に持ち込んだことないないからなぁ。でも、恋愛って納得とかじゃなくて、ただ一緒に居たいとか触れ合いたいとか、もっと即物的で制御できないものだと思うよ」
「分からないよ」
「世の中の全部が分かるものなはずないじゃん」
それはその通りだった。分からないものは仕方がない。恋愛については、いつかあずきにも制御できないものが訪れた時に考えるとして、まずは目の前にある問題に焦点を合わせる。
父と友香との血の繋がっていないことについて。
それはつまり、あずきと友香は血が半分しか繋がっていない。けれど、答えはシンプルで少し照れくさいものへと行き着いた。
あずきと友香は今まで間違いなく家族で姉妹だった。
生まれた時から友香をお姉ちゃんと呼んでいたし、友香もあずきを妹として見てくれていた。それが血の繋がりによって変わるかと考えればそんなはずはなかった。
母はずっと父のことだけが好きだった訳ではなく、その前にも結婚して良いと思える男性がいた。そして、父もまた母よりも一緒に居たいと思う女性がいて、今そこにいる。
「そういうもんだよ」
と友香はあずきの思考回路を先回りしたように言う。
そっか。そういう風に飲み込むものなのか。
「けど、それはそれとして、あずきはちゃんと怒っていいだよ。お父さんは責められるべきことをしているんだから」
友香は笑っていたけれど、彼女もまた父が出ていったことをショックに感じていたんだと伝わってきた。
「難しいよ」
「だね。けど、世の中って難しいことばっかりだからさ」
葵のお母さんと葵に礼を言って、あずきは家へ戻った。その帰り道に友香はあずきの手を取った。あずきの中には納得のできないモヤモヤがあったけれど、友香の手は柔らかく温かかった。それがあれば良いんだ、とあずきは思った。




