田中あずき 春②
家を出て行った父と再会したのは2010年、去年のクリスマスだった。友香に誘われて行ったライブハウスでのことだった。そのステージに立った「朝虹は晴のちに雨」というバンドのボーカルが父だった。
父の歌は決して上手くなかった。ただ必死さだけは伝わってきた。
まず、浮かんだのは父が不器用だということだった。彼を一度だって器用な人だと思ったことはなかったけれど、ここまでとは思わなかった。それ故に、あずきは舞台の上に立つ父から目が離せなかった。
妻と娘を愛している。父はそれだけを、もっとも困難なそれだけを伝えるためにマイクを取って叫んでいた。
ライブが終わった後、友香と共に父の所に行って話をした。たいしたことは父もあずきも言わなかった。
年が明け、あずきと葵はあきの誘いを受けて眠る少女を結成した。曲は基本的に葵が作ってくれた。どれも素晴らしい出来栄えだった。
イベントの打診や舞台衣装などはあきが担当してくれた。あきの働きかけのおかげで、三月中旬に一回目のライブを行った。そして、二回目のライブはゴールデンウィークを予定していた。
一回目は曲数も少なく、本番に緊張してしまって演奏も歌も不完全燃焼だった。そのため、二回目は入念な準備をした。
絶対に上手く行くと思った。不確定要素はない。いや、なかった。
「で、ダブルデートの話なんだけど!」
明日からゴールデンウィークに入る朝だった。教室に登校した途端に女の子のスカートに顔を突っ込むことしか考えていない男代表(偏見)守田裕が声をかけてきて、あずきはうんざりした。
ダブルデートという今まで一度もしたことがないイベントのせいで、あずきの気持ちは乱れていた。
蓮華には行くとしてもライブイベントの後の日程にして欲しいとお願いしていた。しかし、率直な気持ちは面倒臭く、今からでも断りたかった。
「もう一人誘う男なんだけど、田中さん。誰が良いとかある? あれなら、俺が選りすぐりの良い人を紹介しちゃうけど!」
守田のムカつく顔を見ていると、これはチャンスかも知れないという思いが浮かんできた。
「どうしたの? 田中さん?」
「え? 何が?」
「あー、いや、何かちょっとにやけてたから」
「そう?」手で口もとを隠した。「ねぇ、守田くん。もう一人の男の子なんだけど」
「うん。あ、リクエストある?」
「中谷勇次くんとかどう?」
上機嫌だった守田が心底嫌そうな表情を浮かべた。逆にあずきはほんの少し自分が機嫌良くなったのが分かった。
◯
清々しい朝だった。
昨日、眠る少女の二回目のライブを終えた。演奏歌唱ともにミスが少なく、ちゃんとやろうと思っていたMCもできて、物販に置いた手作りのCDも半分売れた。充分成功と言える結果だった。
だから、と言う訳ではないけれど本日のダブルデートも上手く行くとあずきは思った。勇次と面と向かって喋って聞きたいことを聞いて、彼は忘れているけれどお礼を言う。そうして、ようやく中谷勇次に対して一区切りつけられる。
納得ができるかどうかは分からないけれど、やることはやったという気持ちになれる。そのために手を抜かない。
あずきは中学を卒業して買った紺のショートブーツを履くつもりだった。一三九八〇円、一目惚れだった。ブーツがさりげなく目立つよう服は薄い色で揃えようと思った。スカートを三つ並べて考えた結果、膝が隠れる白色のスカートにすると決めたので、上は薄いグレー色のニットにした。
鏡の前に立ってみる。靴下は長いものより、ショートブーツの中に入るくらい短いものが良いだろう。一応、携帯のカメラで自分の姿を写してみる。
うん、悪くない気がする。
葵に写真を添付して送った。どうかな? と。返事はすぐにあった。「可愛いよ! あと、帽子があっても良いかもね!」
なるほど。帽子か。確か姉が置いていった服や雑貨の中に帽子があった。姉の部屋の押し入れを開けると、つばの広い黒の帽子と赤いニット帽の二つが見つかった。ついでにネックレスもあったので身につけて、黒のつば広帽子を被って鏡の前に立ってみた。
うーん。大人っぽさ狙ってます、みたいな感じが凄い。ネックレスは外す。帽子は、赤のニット帽子を被ってみる。やっぱり、うーんとなったので、つば広とニット帽の二つを写真に撮って葵に送った。
「赤のニット帽子の方が、あずきちゃんっぽいよ」
ということで、赤のニット帽子は被って行くと決めた。次はハンカチだった。ピンクは可愛い過ぎるかな、と思ってライトブルーのハンカチをスカートのポケットに入れた。
最後の判断は母に任せようと思い、リビングで「どう?」とあずきは尋ねた。テレビを見ていた母があずきの姿を見て「んー可愛いよ。初めてのデートにはもってこいね!」と言った。
顔から火が出るような気がして「違うからっ」と強く反応してしまった。うわぁ、丸分かりだぁと後悔しつつ「後輩の女の子と遊びに行くだけだよ」と付け加えた。
「はいはい」と母が余裕の笑みで頷いてキッチンに立った。「何か食べていくでしょ?」
「お願い」
「ちなみにだけど、赤のニット帽は赤ずきんちゃんっぽいから、狼には気をつけなさいね」
「赤ずきんちゃんって、懐かしい」
「分かったー?」
「分かった」
◯
待ち合わせの駅前に中谷勇次は姿を見せなかった。
守田裕が何度も電話したが繋がらなかった。その為、守田、千原蓮華、あずきの三人で遊ぶことになった。
その時点で、あずきは家に帰りたかった。朝のそわそわした服選びの時間を返して欲しいし、中谷勇次とどう喋ったらいいかと相談をした葵にも心底申し訳なかった。
蓮華の提案で映画を観に行くことになり三人で電車に乗った。車内では蓮華があずきに話かけてきてくれたので、退屈はしなかった。だが、蓮華の話題は基本的に昨日の眠る少女のライブだったので、間接的に守田にあずきがバンドを組み歌っていることがバレてしまった。
問題はないが、何となく居心地の悪いものを感じた。
ちなみに守田は集まった時から常にニコニコと笑っていて、あずきが話題を振っても予想がつく無難な返答しか寄越さなかった。間違っても彼が教室で普段話している「乳頭温泉の素晴しさ」などと言った話になる気配は欠片もなかった。
あずきは下ネタが得意ではないが、守田の提供する日常に潜む卑猥なものを見つけてくる発想には時々感心していた。個人的に一番、面白かったのは「ハネオツパイというネズミやリスに似たツパイ類」の話だった。
マレーシアに住んでいて主食がアルコールだというハネオツパイは地上最強の酒豪珍獣とされいているらしい。「そんなハネオツパイから我々が想像すべきは、はね、おっぱい。跳ねる、おっぱいである!」
発想と途中までの説明は聞き耳を立てたくなる話なのに、オチでちゃぶ台をひっくり返すような台無し感。葵いわく「あれも一つの才能」と言うほどで、彼と喋れば退屈しないだろうとあずきは踏んでいた。
しかし、蓮華の前でニコニコしている守田は本当に面白くなかった。話題提供も市内に出来た新しいカフェがお洒落と言った如何にも女子が好きそうなものに終始していた。
蓮華は嬉しそうにカフェの話に乗っかっていたけれど、あずきは守田の上滑りな物言いや作ったようなニコニコ笑いに苛々していた。
守田を殴ったらスイッチが切り替わって、いつも通りの話題を喋ってくれないかなぁと思いながら、映画を観た。あまりぱっとしない内容のファンタジーで、派手な演出と豪華なキャストが売りだった。途中から予想がつく展開にうんざりしてしまい、あずきは考えごとをはじめた。
今日、どうして勇次は待ち合わせに来なかったのだろう? 守田は寝ているだけだろう、と言っていた。実際はどうか確認のすべはないけれど、勇次は最初から来るつもりはなかったんじゃないか、と思った。それはあずきが居るからかも知れないし、守田と彼女がイチャイチャしているのを見て不快になりたくなかったからかも知れない。
しかし、一番は入学式で喧嘩をして停学になった。言わば悪目立ちしてしまったために、からかわれたり厄介事に巻き込まれたりするのを避けたんじゃないか、と思った。
少なくともあずきならば、知っている人が一人しかいない集まりに停学が明けて一週間しか経っていない状態で出向いたりはしない。
冷静に考えてみれば勇次が来てくれる可能性は低かったのかも知れない。
はぁ、自然とため息が漏れた。
機会は次もあるよ、と考えないでもなかったけれど準備に手を抜かなかった分、心の負担が大きかった。
もう勇次に話を聞いたりお礼を言うのは止めようかな。愚痴とも文句とも言えぬ後ろ向きな言葉が幾つも浮かんで消える。
今日ダメだったんだから、どうせ次もダメだよ。空回りでもやることはやったしもう良いんじゃない。充分だよ。
内容が頭に入ってきていない映画を前にあずきの気持ちは更に沈んでいった。
◯
守田が言っていたお洒落なカフェは人が多くて入れそうになかった。そのため、地元の駅の一駅手前にある黒芦町のドトールに三人で行くことになった。道中は映画の話をしていたけれど、あずきは頷くばかりだった。
ドトールは禁煙席と喫煙席に別れていて、禁煙席が全て埋まっていた。蓮華が喫煙席は嫌だと言うので、テイクアウトをして外の公園で喋ろうとなった。
レジ前も混雑していたので守田が
「飲み物は俺で買うから。先に公園の方に行っておいてよ」と言った。
「分かったぁ。あたし、ロイヤルミルクティーが良いな、アイスで」蓮華が間延びした声で言った。
「はいよ。田中さんは?」
何もいらない、と言うのは流石に悪い気がして「ホットコーヒーで」と答えた。
「了解」
やっぱり守田はニコニコと笑った。
蓮華と二人で公園の方へ歩いた。妙に蓮華はご機嫌で眠る少女にはラブソングがない、と言った。売れる音楽の王道はラブソングで宇多田ヒカルも椎名林檎もaikoも云々という話をあずきは、そーだねと頷いて聞いた。
気を抜いていたとしか言いようがないけれど、隣に蓮華が歩いているのを考慮せず前から来た男三人を避けようとして、蓮華の肩が男の一人にぶつかった。男が手に持っていた缶ジュースが地面に落ちた。カルピスウォーターだった。液体が地面に広がった。幸い男の服にも蓮華の服にもカルピスはかかっていなかった。
あずきが、すみませんと反射的に謝ろうとした所で、蓮華が男を睨んで「痛いじゃない。謝りなさいよ」と言った。
男が「は?」と蓮華を見下ろした。「お前が前見ずに歩いてたんだろーが?」
「なに言ってんの? あたしは謝りなさいって言ったのよ? 謝ることもできなっ」
ばしんっ。
蓮華の言葉が終わる前に男が彼女の頭を叩いた。男の目が冷たいものに変わっていた。蓮華が男を睨み、何か喋ろうとして、
ばしんっ。
また蓮華の頭を男が叩いた。二回目は的確に耳を狙ったのが分かった。蓮華の中で今痛みと共にキーンという音が響いているはずだった。
「ちょっとっ」とあずきが蓮華の前に立った。
男はあずきも叩くかと思ったが、そうはせず笑った。「あー良かった。君はまともそーだね」「お前、突然殴ってやんなよ」「本当だよ、可哀相だろぉ」「しつけだっつーの」と男三人が互いの顔を見合わせてニヤニヤしはじめた。
守田のニコニコ顔もムカつくが、こいつらのニヤニヤ顔はそれ以上だった。正直、守田の五倍くらい腹が立つ。
「あのさぁ。そこの子ぉ。お前がぶつかってきたんだよな? で、お前のせいでカルピスが落ちた訳よ。違いますかー?」「カルピスって懐かしい味するよな」「あー昔、お母さんがいれてくれたヤツな」「お前ら、ちょっと黙ってろって。おい、そこの子ぉ?」「しつけが必要なんじゃねー?」「ごめんなさいはぁー?」「日本語喋れますかぁー?」
蓮華は俯いていた。
「ごめんなさい」とあずきが謝った。「この子がよそ見しているのに、私が気付かなかったせいで缶ジュースが落ちちゃって。弁償します」
男三人がニヤニヤ笑いながら、あずきを見る。足もとから、スカートのすそ、腰、胸元。遠慮のない彼らの視線は服を抜けて身につけている下着や素肌を見るような厭らしさがあった。拳を強く握る。
「君が悪いって訳ね」ねっとりとした絡みつく声だった。「じゃあさ、そこに自販機あるからさ一緒に行こうよ」「そーだね。お金を渡されちゃったら、カツアゲみたいになるしねぇ」「そこの俯いてる子はいらねーから」
あずきは蓮華を叩いた男の視線に合わせて「分かった」と頷いた。男が指差した方向は公園でも人気の少ない場所で、正直言えば何をされるか分かったものじゃなかった。
それでも逃げるという選択肢はなかった。
「おーい。田中さん、蓮華? どうかしたの?」
守田が小走りでこちらに近づいてくるのが見えた。手にはドトールの紙袋が握られていた。
あずきは守田の顔を見た瞬間、深く息を吐くことができた。蓮華が顔を上げる。そこに浮かぶ表情が横目で確認できた。切なそうな表情の中、口元だけは僅かな引きつりがあった。あずきから見て、それは笑みに見えた。
「裕くん! 怖かったよぉ」
「え? どーしたの?」
「乱暴されたの、この人たちに。……すごく痛くて」
「乱暴?」
絶妙な言葉だった。守田の表情が戸惑いから怒りに彩られていく。待って、とあずきは叫びたかった。
「おい、そこの子ぉ。お前、男が来たからって調子乗ってんじゃねぇーぞ」「お前が悪いんだろーが」「被害者ぶってんじゃねーよ」
守田は既に男たちだけを見ていた。会話でこの場を収める気がないのは一目で分かった。それでも、あずきは守田と男の間に入った。
「待って! 守田くん。違うから、ちょっと待って」
守田が口を開く前に、蓮華が殆ど叫ぶように言う。
「あずきさんはっ! あたしがぁ! 乱暴されたのに見てただけじゃない! 今更口出ししないでよっ!」
アンタが口を出すな!
守田の足が地面を蹴り、あずきが彼の手を取る。その勢いでドトールの紙袋が地面に落ちる。同時に男の一人が守田の腹に靴裏を深くめり込ませた。守田が息苦しそうな声をあげ、動きを止めて倒れそうになる。
「守田くんっ!」
と呼ぶ僅かな間に、もう一人の男が守田の後ろに回り込んで彼を羽交い締めにした。あずきの手は離れる。残った男が守田の鳩尾に勢いよく拳を沈める。力なく頭を落とした守田の顔を男が腰の入ったフルスイングで殴る。彼らは楽しそうな声をあげながら、もう一度拳を振った。守田の銀縁眼鏡が飛ぶ。「うひぁあ~」「ふぅう~」「よいしょお」と更に守田を殴る。血が飛び、守田の呻き声が小さく響く。
「もう止めて!」とあずきが泣きそうになりながら叫んでも彼らは止めなかった。「私、どこにでも行くから! もう殴らないで!」
男の一人がニヤニヤ笑いながら「分かった、分かった。じゃあ、一緒に行こっか」とあずきの肩に触れた。
何でも良かった。
守田が殴れずに済むなら何処で何をされても構わなかった。
「じゃあ、これが最後で~」
殴っていた男がわざとらしい助走をつけて守田を殴ろうとする。やめて。これ以上、守田が痛めつけられるのを見たら、あずきの中にある大切なものが壊れてしまう。泣きそうな気持ちと竦む足を奮い立たせて、あずきは守田の前に立った。
男の拳が近づくのが分かる。衝撃に備えて目を瞑り、歯を噛みしめた。
しかし、衝撃は無かった。
間の抜けた声が暗い視界の中で聞こえた。
「あん? 自分から殴れにくるなんて、お前マゾか何か?」
目を開けると背中があった。男の子のごつごつした逞しい背中だった。
あ、とあずきが声を出す、ほんのひと時で背中は姿を消し守田を羽交い締めにしていた男の顎に拳を振り抜いていた。
「なんだよ? 拳とそんなにキスしたかったのかよ? 気持ち悪りぃな。おい?」
「お前、何言ってんだよ?」
唯一殴られていない男が言う。
「はぁ? だーかーら、俺は拳を置いているだけで、お前らが勝手に近づいてきてんだよ? な? そーだろ? 地球の重力には誰も逆らえねぇもんな? だから、これは喧嘩じゃねぇんだよ。お前らが俺の拳にぶつかりたいマゾ野郎だもんなぁ?」
「訳わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ! だいたい、お前誰だよ! 関係ねぇーだろ!」
男が声を荒げた。
彼は緩く笑って平然と答える。
「中谷勇次。チンピラだよ」
勇次は男をまっすぐ見て笑みを消す。「でさぁ、ここで殴られてた茶髪、俺の連れなんだけど。こいつ殴ってたってことは、お前ら死ぬ準備できてんだよなァ?」
地面に倒れた守田が僅かな笑い声をあげた。あずきは守田に近づいて、大丈夫? と彼の傷口を見ようとして守田がそれを手で制した。
「田中さん、今日の白のスカート似合ってるんで、俺の血で汚しちゃ台無しですよ」と言って、守田が笑った。教室で見るイタズラ小僧のような無邪気な笑みだった。
絶対そっちの方が似合ってるよ。
あずきが触れるのに躊躇ったのを見てか蓮華がすぐに守田に触れ、彼の頭を太ももに乗せてハンカチで血を拭った。「裕くん、大丈夫? ごめんねぇ、あたしのために」
わざとらしいねこなで声にあずきは苛立ちを越え、嫌悪感さえ抱いた。
「おーい守田ぁ」
勇次は彼の眼鏡を拾ってきて、しゃがんだ。周囲を見れば男三人には地面に倒れていた。守田と近い目線になった勇次はにっと笑って「このお礼は、おまえん家のスペシャルカレーで良いぜ」と言った。




