空野有 8月31日①
先天性中枢性肺胞低換気(せんてんせいちゅうすうせいはいほうていかんき)症候群。
別名「オンディーヌの呪い」。
それが空野有の患っている病名だった。
簡単に言えば、眠っている最中に呼吸が止まる病気で、睡眠の際は鼻マスクを用意し機械を使った人口呼吸をする必要があった。
本来は三十歳から五十歳の男性によく見られる症状なのだが、有の父が患っていた為か、有は四歳の頃から病状があらわれはじめた。
元から体が弱かったこともあり、有はその頃から病院生活が日常になった。
ちなみにオンディーヌとは、ドイツの作家フリードリヒ・フーケの「ウンディーネ」を原作に、フランスの戯曲家ジャン・ジロドゥが書いた戯曲だ。
有はジロドゥが書いたオンディーヌの物語を父の口から聞いた。
「まずウンディーネとは水の精霊でね。本来、魂のない存在なんだ。けど、人間との恋によってウンディーネは魂を得ることができるんだよ。けど、オンディーヌはね、最初から魂を持って人間と恋をするんだ。そして、魂を持っているからこそ、人間の夫を庇ってしまう。悪いことをしていないのに、悪いことをしたって言うんだ」
「なんで?」
と当時の有は聞いた。「なんで、オン、でい、ぬ? は、してへんのに悪いことをしたって言うたんやろ?」
「オンディーヌ、な」と父が笑った。「悪いことをしてしまった人が大切で、失いたくなかったから嘘をついたんだよ」
「どういうこと?」
「有も大きくなったら分かるよ」
「お父さん、そればっかりやん!」
少し責めるように言った有の顔を見て、父は視線を彷徨わせた。
「いや、だって、がっつりとした不倫物語を子供用にするって、すげぇハードルなんだって!」
「ふ、りん? ってなに?」
「有も大きくなったら、うーん。……大きくなっても、しちゃ駄目だぞ」
「えー」
そんな父が亡くなったのは、有が六歳の時だった。
◯
同じ時期に父共々お世話になった病院の先生が遠くの病院へ赴任することが決まった。母は有と一緒に先生が赴任する岩田屋町へ引っ越すことを提案した。
しかし、有は曖昧な返事しかできなかった。
有は父の死によって、生きる為に大切な何かを地面に落としたような気持ちになっていた。有はベッドの上で一日誰とも顔を合わせず、言葉も交わさない日々を過ごすようになった。
母や姉が何度も有を気遣ってくれたが、有は何も応えられなかった。
昼にも眠るようになって、その度に看護婦さんが鼻マスクをつけてくれて、そんな些細なことが申し訳なくなって有は死にたくなった。
有は父の下へ行く方が自然なことだと思った。
そこへ行けば誰にも迷惑をかけなくて済むのだ。
なんて素晴しい世界なんだろう?
当時の有にとって死は紙に○と書くよりも簡単だった。
だから、有は死ぬ場所を選ぼうと思った。
どこでも有はとても簡単に死ぬことができる。
ただ、そこで眠れば良いのだ。簡単すぎて、笑ってしまう。
有は眠る場所を求めて夜、病院を抜け出した。
最後くらいベッドじゃない場所で眠ってみたかった。まだ春がはじまる前の夜で、あるだけの服を着こんで外を出たけれど、小さな有の体は終始寒さに震えていた。
鼻水も出てきて、歯がカチカチと音を立てた。
吐いた息が外灯に白く照らされる度に、有はそれが消えるまで眺めた。夜の町は有の目には別世界のように映っていて、ここが死者の世界だと言われても、納得するほどだった。
もしかしたら、この角を曲がったら父に会えるかも知れない。
有は自分が気付いていないだけで、もう死んでいるのだ。
そんな想いに絡め取られて、たどり着いたのは河川敷だった。
川は夜の暗闇に呑まれていて、その姿を確認することは難しかったけれど、周囲を満たす静かな音は間違いようのない川の流れる音だった。
これが噂に聞く、三途川なのかもしれない。
けれど、もし本当にそうだったとしても、有は川を渡りたくなかった。それは有にとって最も苦しい経験からくるものだった。
それがあったのは、まだ父が生きていた頃だ。
病院の許可が出て家族で一度ハイキングへ行った。姉が学校で訪れたと言うハイキングコースだった。
その日はゴールデンウィークということもあって人が多かった。
母が作ってくれた弁当を囲んだ昼食を終えて、有と姉は白い花を見つけた。
地面に向いて、花びらを咲かす綺麗な花。
すずらんだと父が教えてくれた。
有が手を伸ばすと父がそれを止めた。
「すずらんには毒があるんだ。だから、素手で触っちゃいけないよ」
父のその言葉は、後に有の中で、綺麗なものは触っちゃいけないという形になった。
すずらんに触れられないことに残念がったのは、有よりも姉の方だった。
姉は学校では男の子よりも勝気で、クラスで一番足が速いことを自慢するような女の子だったけれど、花やぬいぐるみが好きな一面を持っていた。
そんな姉に誘われて、ハイキングコースから外れた川へと足を踏み入れた。
姉の手を借りて石から石へと乗り移っていく楽しさは、普段の病院生活では想像もできないものだった。
その日の有ははしゃぎ過ぎていた。
父が居て、母が居て、姉までいて。初めて踏み入れた川の水は冷たくて、更にその川には魚まで泳いでいた。
夢のような世界だった。
有はきらきらと光る水面の底で泳ぐ魚に触れたくて、川の奥まで進み、足を滑らせた。同級生の中でも、最も体重の少ない有はあっさりと川の流れに乗り、凄い速度で下流へと向かってしまった。
服が水を吸って重く、暴れればそれだけ口の中に水が入ってきた。
パニックだった。
川の流れる音と、自分の濁った叫びだけは今でも覚えている。
気が付いたら、有は知らない病院のベッドの上だった。
後から聞いた話だが、有は一人のお姉さんに助けられたらしい。
そのお姉さん、宮内ひかりは暴れる有を助ける代わりに五百メートルの距離を流されて、その体を岩に引っ掛けて発見された。その時にはもう命を失っていた。
声も顔も知らない宮内ひかりの葬儀に行った時、彼女の弟と思われる少年が虚ろな表情で泣いているのが目に入った。
それを見た時、有も一緒に泣いた。
五歳に満たない有は、その時、人の死を全身で感じていた。
もし、姉が死んだら、一生彼女に会えないとしたら、そういう形の想像で少年の悲しみを有は自分のものにしようとした。
有は一人の女の子の死の結果の上に立っている。
その責任を当時の有は想像することが出来なかった。
ただ、有があちら側に行ければ、助けてくれたお姉さんに、また父に会えるのだと言う事実だけが、有にとって何よりも重要だった。
しかし、彼らに会う為には川を渡らなければならない。
体を必死に動かせばそれだけ身は深く底へと潜って行き、暗く冷たい場所へと引き込まれていく。声も段々と濁り、耳の奥に残る恐怖の色がありありと浮かぶ自分の声に、更に恐れ、体は更に暴れ出す。
間違いようのない悪循環。
有が川に渡る勇気を持てず、とぼとぼと冷たい風の吹く河川敷を歩いていると突然、光が浮かぶのが分かった。川の上にその光は現れた。
まあるいお月様。川の水面に浮かんだ月の光。
空を見上げれば雲の切れ間から、月がこちらを見ていた。
綺麗だった。
父の言葉が浮かぶ。
触っちゃいけないよ、と。
けれど、有の手は、足は自然と空に浮かぶ月へと向かった。
「こんばんは」
突然、声がして有は月から視線を逸らした。
目の前には一人のお姉さんが立っていた。気配をまったく感じなかった。
有は何も言えずにお姉さんの姿を確認したが、顔は暗がりの為、見えなかった。
「こんな時間に、こんな場所に君みたいな子が、どうしたの?」
有はなんと言えば良いのか分からなかった。
ただ、その声にはどこか聴き覚えがあるような気がした。
「もしかして、迷子になっちゃったの?」
「大丈夫、です」
絞りだすようにして、有は言った。
大丈夫です。行く場所は決めてますから。
「そう、なら良いけど。君みたいな子が、私は心配だよ」
「僕、みたいな子?」
「だって、君は呪われてるんでしょ」
「えっ?」
確かに有は呪われている。
眠れば呼吸ができなくなり、そのまま死に至る。
それはオンディーヌという水の精霊が恋した人間を庇う為についた嘘。
優しいオンディーヌの呪い。
どうしてオンディーヌは嘘をつき、それが呪いにまでなってしまったのだろうか。有には分からない。
ただ、オンディーヌの呪いは、嘘はこの現代まで生き続けている。少なくとも、有と死んでしまった父の中では。
気づけば有は泣いていた。
空に向かって、大声で、力いっぱいに。
父を失って初めて流す激しい涙だった。
有の声は周囲の響き、それを聞きつけた男性が近づいてきた。
お姉さんの姿はなくなっていた。
男性は警官だった。
涙を流し続ける有から、病院の名前を聞いた警官が連絡してくれて、有はいつもの呼吸器をつけて眠りについた。
理由は分からない。
ただ、有は自ら死ぬことは出来ないのかも知れない、と思った。
有が強く「それ」を実感したのは、それから母の提案通りに岩田屋町に引っ越して、迎える最初の月曜日のことだった。
朝、空野有宛てに一通の封筒が届いた。
持ってきてくれた看護婦さんに礼を言って、有は封筒を受け取った。
送り主の住所はなく、ただ後ろの隅っこに「JK」とあった。
看護婦さんに尋ねると、イニシャルというものだと教えてくれた。名前の最初の文字を言い、有の場合は「YS」になるらしい。
封を慎重に開けると、また封筒が入っていて、そこには父の字で「月曜日の有へ」とあった。
その封筒を開けると便箋が入っていて、父から有へ向けた手紙だった。
昼を過ぎて顔を出した母に父の手紙のことを尋ねると、「JK」は会社らしく年月日を指定して手紙を届けてくれるのだと言う。
父は有が自分と同じ病気を患ったと知った日から、有に向けた手紙を書きはじめたらしい。
その手紙は父の死後、毎週月曜日に届けられ、母が確認しただけで数は千を超えるとのことだった。一年に月曜日が、年にもよるけれど、五十二回はある。
単純計算で二十年以上は毎週月曜日に父から手紙が届く。
父は有に手紙を通じて二十年は生きろと遠回しに言っている。
有は手紙を握りしめて泣いた。
父の手紙はまるで呪いだった。
オンディーヌの呪いとは違った、父の呪い。生きろ、と常に有は唱え続けられる。
なんと優しく、愛に満ちた呪いだろうか。
父は確かに死んでしまった。
けれど、父が残してくれたものはこの世界にしかない。有が知らない父がまだここにいる以上、有自身が父の所へいく訳にはいかなかった。
◯
父からの手紙を母も姉も読もうとしなかった。
それは有へ父が宛てた手紙だから、と。
常に病室で日々を過ごす有にとってプライベート、自分だけの時間という感覚は希薄だった。いつ母や姉が有を訪ねてくるとも限らず、また決まった時間に診察や検査もある。
そういう日々が有の中では当たり前だった。
しかし、月曜日に父からの手紙を読む時、有は自分が病室のベッドの上へいることを忘れていた。手紙の中にある父の言葉の世界。
有は確実にその世界へ入り、父と同じものを見て感じて現実世界へと帰ってきた。
言ってしまえば、手紙を読むことは父の経験を体験するような感覚であり、生活の中で父ならどうするだろう?
という問いと答えを有自身が自然と考えるようになっていた。
そんな父の手紙の内容のメインは有や家族、父自身の体験談だった。
考えてみれば当然のことだけれど、それだけで千以上の手紙を書くのは難しい。父が(おそらく)手紙の内容に困って選んだネタは自分の興味のあるもの、特にUMA、未確認生物についてだった。
動物園にもロクに言ったことのない有にとって、父の手紙に書かれた摩訶不思議な生物たちの生態は、憧れそのものだった。
UMAにおいて一番惹かれたフレーズは、この世界の誰もまだ捕獲していない生物である、という点だった。
いるか、いないか分からない。
世論ではいないとされた生物。
しかし、それを発見、捕獲した瞬間、その生物は幻から現実の存在となる。
有の患うオンディーヌの呪いは完治するとは限らず、もしかすると長く生きられないかも知れない、とされている病気だった。
それは有が未成年で体が弱く、成人男性と同じ診断ができないことに起因していた。
だから、有にとって病気とUMAは同一の意味を持った。
UMAが幻から現実の存在になるように、いつか有の病気の特効薬が見つかって、たいしたことがないと語られる日が来るかも知れない。
歴史を見れば、それは有り得ないことではなかった。
そんな有にとっての夢は、父が語るUMAを一目で良いから見てみたい、というものだった。そうできたなら、有を蝕むオンディーヌの呪いだって、たいしたことがないと思えるはずだったから。




