空野有 8月31日②
岩田屋町の病院でお世話になり始めて、二年が経った頃に出会った中谷勇次は、有にとって驚きの存在だった。
館内で治療を受けた不良に対し、喧嘩を売り、同行していた姉に怒られて子ザルのように首根っこを持たれた勇次を見た時、有は自然と父の手紙から得たUMAの名を口にしていた。
そして、勇次は当然のように有の呟きに答えてくれた。
更に聞き覚えのあるUMAの名を出して返答してきた。名前も知らない相手なのに、有は必死に頭を絞って言葉を紡いだ。
そのどれに対して勇次は「分かる、分かるぞ!」と言った。
有は嬉しくなって、思いつくままに喋った。
そうして有と勇次は、互いの名前も知らない状態でUMAの話をし続けた。
もっともびっくりしたのは、その場限りの会話だったつもりが、翌日にも勇次は有の病室を訪ねてきて、UMAの話で盛り上がってくれたのだった。
有の生活の中で一番楽しい時間だった。
けれど、どうしてこんなにも楽しいと有は感じるのだろう?
と勇次が帰った後の病室で有は首をひねった。
友達ができたから? UMAの話ができたから? 少し違うと思った。
停学中で暇なんだ、と言う勇次と毎日のようにUMAの話をしていて、有はようやく納得する答えを見つけた。それは以下のようなことだった。
中谷勇次は本心からUMAがいると信じている。
UMAが好きだから見たいと有が語るとき、周囲の反応は常に「あぁ、あのいない存在ね」という冷やかな実感を持って頷かれる。世間的にUMAはいるか、いないか分からない。
どちらかと言えばいない存在なのだから当然だった。
しかし、ならば、それは有の長く生きられないかも知れない、という本当かどうか分からない病気もまた、どちらかと言うなら本当だろうと周囲の人間に認識されている、ことを意味した。
少なくとも、それが本当で有が死んでしまった時の為に心の準備をしておこう、という身構えを周囲の人から感じる瞬間ではあった。
なのに、中谷勇次はUMAが最初からいると確信して、有とUMA議論を交わしてくれた。それは有にとって、医者からの宣告を嘘だと確信してくれていることと同義だった。
滅茶苦茶で理路騒然とした答えではあるけれど、それが有にとって最も納得のできる結論だった。
◯
勇次と知り合って一ヶ月が経った頃、看護婦さんに姉への誕生日プレゼントは何が良いかと相談をした。
すると、「昔、彼氏に自作の絵本を送ったことがあるのよ。その彼氏の好きなところを、一つ一つ書いていくという、今となっては最強の黒歴史の内容だけど。描いている時は楽しかったし、内容さえ間違えなきゃオススメだよ」という案をもらった。
「絵本ですかぁ。ちなみに、その彼氏さんとは今も付き合ってるんですか?」
「ん? あー、絵本を描いた時がピークだったね。その三日後に別れたわ」
「あれっ、あれー? でも、オススメやねんな?」
「おっ、空野くんの関西弁を久しぶりに聞いたなぁ。もちろんよ。私の場合はほら、男と女のいざこざもあったしね」
「男と女?」
「やっぱり、アレよね。早い方が面倒ないって言うのも分かるけど、早すぎるのもちょっと、ねぇ?」
アレ? 早い?
と有が疑問を浮かべると、看護婦さんは気まずそうに笑って
「あんまり、言い過ぎると里菜ちゃんに怒られるかな。とりあえず、物は試しよ。明日、買い物に行くし買ってきてあげる。手書きの絵本セット」
と言った。
「本当ですか?」
母から貰っているお金を出して、看護婦さんに渡そうとすると、「買ってきてからで良いよ。レシートと一緒に、ね」と言った。
「分かりました」
そうして翌々日に看護婦さんから頂いた真っ白な絵本を前に有は悩んでしまった。何を描こう、と。
姉への感謝? うん、それは当然だ。
けど、ページ数は十二ページもある。
姉への話題だけでは埋まらない。
思い出話……、と考えて浮かぶ光景があった。
家族四人で唯一出掛けたハイキングコースで見かけた、すずらん畑。
ベルみたいな白い形の花。上ではなく下へと向いて咲く、あの花を表紙にしたい。
有はそう思った。
父の説明を聞いて有が得た教訓は、綺麗なものは触っちゃいけない、だ。
そして、それはいつしか有の中で「大切なものは触っちゃいけない」に変わっていた。
どんなに気に入ったものであっても、触り過ぎれば汚れるし、物であれば壊れてしまうかも知れない。本当に大切なものとは距離を取らなくちゃいけない。
有にとって姉は綺麗で、何よりも大切にしたい人だった。
そんな姉とすずらんは奇妙に一致して有には感じられた。
表紙が決まった。
内容は後で考えるとして、有は表紙のすずらんのスケッチをコピー用紙で練習し始めた。
しかし、何度描いても納得できるものはできなかった。
何枚も失敗作を重ねていると、すずらんとは、こんな形で良かったのだろうか? という疑問さえ浮かんできた。
そんな頃に勇次が有の病室を訪れた。
「監督ー、なに描いてんだ?」
とコピー用紙を手に取って、勇次が言った。
有は姉への誕生日プレゼントに絵本を描こうとしている、という話をした。
「なるほど、姉貴へのバースデープレゼントね」
「でも、上手く描けなくて」
「これすずらんだよな?」
「うん」
「ふーん。じゃあ、俺が取ってきてやるよ」
「なにを?」
「すずらん」
突然の申し出に有は面喰って「あてはあるの?」と尋ねた。
「あん? ねぇよ。でも」
「でも?」
「UMAを見つけるよりは、楽だろ?」
それは、そうかも知れないけれど。
勇次は本当にその日の夕方にすずらんを摘んできてくれた。
何故か可愛らしいハンカチに包まれた、すずらんは可憐で、どこか儚かった。
姉の誕生日プレゼントが出来上がり、母に頼んで姉へ送ってもらった頃だった。
母が退屈しのぎに、とノートパソコンを一台買ってくれた。
ネットにも繋げるようにしてくれていたので、有はその日からパソコンでUMA関係を調べるようになった。そこでUMAを個人で追い続けている北村治という人物のブログを見つけた。
彼はUMAが生息していそうな山や湖、川などを公開していて、その中の一つに岩田屋町の山があった。
それを勇次に伝えると、「夏休みに入ったし、ちょっくら捕まえてくるわ」と言った。
有は勇次が本気かどうか上手く判断がつかなかったが、夏休みという単語に心惹かれてしまった。
「勇次くん今、夏休みなんだね」
「そーそー。監督は何か夏の予定とかあんの? プールとか」
「んー、外出届を出せば外には行けるんだけど、特に予定はないかなぁ。プールも海も行ったことないし」
それに川に流された後から、有は水がいっぱいに満たされた場所を避けるようになった。台風の日に窓の外を覗いてコンクリートの上を流れる水を見た時でさえ、その場にへたり込むのだから自分の心の弱さにびっくりしてしまう。
「プールも海もねぇの? じゃあ、監督って泳げんの?」
「泳げないよ。というか、水の中で目を開けたこともないし」
「マジか」
「だって、お風呂で潜ったりしないでしょ?」
「そりゃあ、そーだが。ちょっとびっくりだわ」
「そうかなぁ」
と頷いた時に思い出したことがあった。「そう言えば、八月三十一日は僕の誕生日だから家族でご飯に行くよ」
「へぇ。良いな! 何、食べるんだよ?」
「何が良いかなぁ?」
「そーだな。迷ったら、バイキングって手があるぜ。寿司も焼肉もカレーも唐揚げもある。あ、あとケーキとかもあったなぁ」
「凄いね! バイキングかぁ……。でも、僕そんなに食べられないなぁ」
「好きなもんを好きなように食べりゃあ良いんだよ」
「なるほど」
そんな会話を交わした二日後、守田が病室を訪ね、勇次が本当に山に籠もったことを有は知る。
有言実行。
流石だ。
もしかすると本当に勇次がUMAを捕まえてくるかも知れない。
そんな淡い期待と興奮が一週間続き、その間上手く眠ることができず、有は寝坊を繰り返した。睡眠の変化は有自身よりも周囲を心配させる。
母がしきりに、どうしたの? と尋ねてくれたが、友達がUMAを捕まえて来てくれるかも知れないと思うと眠れない、とは流石に言えなかった。
「暑さのせいかな、ははは」
と笑って有は誤魔化す他なかった。
次に勇次が有の前に姿を見せたのは、有の誕生日。
つまり、八月三十一日だった。
それも家族でご飯を食べて病院に戻ってきた夜の九時過ぎだった。
「よぉ、監督。誕生日おめでとう。これから散歩に行かねぇか?」
断る理由はなかった。
いつから用意していたのか廊下には車椅子があって、それに有を乗せると、勇次は普通の足取りで病院を抜け出し、夜の町へと出た。
どこへ行くの?
と有が尋ねても、勇次は楽しげに笑うだけで答えてくれなかった。その代わりに「家族とのご飯は、どーだったんだ? 監督」と聞いてきた。
「勇次くんが教えてくれたバイキングに行ってきたよ」
それから有はバイキングでの夕食について、思いつく限りの話をした。勇次は有の話に耳を傾けながら、迷いのない足取りで町中をすいすいと進んで行く。
結果、たどり着いたのは学校だった。
「ようこそ、岩田屋高校に」
と勇次が言った。
「勇次くんと守田くんが通っている学校だっけ?」
「そーそー」
夜九時を過ぎた学校の校門は当然だけれど、閉まっている。
裏の方へと回っていくと金網の一部が切り抜かれていた。
「え? これから学校に入るの?」
勇次がニヤッと笑った。
あ、本気だ。
不法侵入? と不安になったが、勇次は慣れた手つきで、車椅子のタイヤと金網の間をキーロックで繋いだ。
「流石に車椅子が入るくらい金網を切る訳にはいかなくてな。だから、こっからは歩きな」
「この金網の切り抜き、勇次くんがしたの?」
「おー、ここ数日、機を見計らってな!」
それって犯罪なんじゃあ……、と思ったが、勇次は別段気にした様子がなかったので、有は口を挟まなかった。
「よし。じゃあ、行くぞ」
と言う勇次に続くようにして、金網をくぐり、学校内に足を踏み入れた。
グラウンドを横切る時、さらさらとした地面の感触があって新鮮だった。
上を見上げると校舎もあって、電気の点いていない大きな建物は、それだけで不気味な印象を有に与えた。
もしかして勇次くんは肝試しをしようと言うのだろうか?
怖いのは苦手なんだけどなぁ、
と不安になりながら、勇次の背中を追いかけていると、たどり着いたのは校舎ではなかった。校舎から少し離れた場所にある小さな建物が目的地のようで、それが何か、有はすぐに分かった。
プールだ。
◯
更衣室には鍵が掛かっておらず、そこを抜けて外に出るとプールサイドだった。
夜の暗がりの中に、いわゆる二十五メートルプールが広がっていた。
「よぉ、来たか!」
と言う声がして、そちらの方を見るとプールサイドの端にビニールシートを敷いて座った守田裕の姿があった。
シートの上にはジュースやお酒、お菓子やパン、半額シールの貼られたスーパーのお惣菜が広がっていた。
守田は手に持った缶を一気にあおってから、
「久しぶり! 監督! そして、誕生日おめでとう!」と言った。
「うん、ありがとう」
と有が答えたのと同時に勇次が叫ぶ。
「守田、勝手に始めてんじゃねぇよ!」
「うるせぇ! 俺は今、傷心中なんだよ! 結局、ビキニの水着姿は見れなかったし、千秋先輩のアドレスもゲットできなかったんだからな!」
「は? なに、言ってんだ? 酔ってんのか?」
「お前のせいでなぁ~~」
「だから、なに言ってんだ? 殴るぞ」
よく見るとプールの隅の四か所に工事現場で見る(と言っても有は工事現場を実際には見たことはないけれど)本格的な電灯が置かれていた。
「これから、何か始めるの?」
有の当然の疑問に勇次は黙り、守田がからからと笑った。
「勇次のプランだとすげぇことが起きる予定だったんだが、俺の独断で止めちゃったので、単なる飲み会だな」
「勇次くんのプラン?」
守田が面白くて仕方がないという顔をした。
「監督、勇次がさ、夏の間なにをしていたと思う?」
「わかんない」
「おい、守田ぁ」
と勇次が威圧的に言ったが、守田の表情は変わらない。
「UMAを探すっつって山に籠もっていたくせに、そこで知り合ったオッサンのところで住み込みのアルバイトをしてたんだと」
「ちっ」
と勇次が舌打ちをしてから、「いや、でも監督。ちゃんとUMAも探してたんだぜ」と弁明するように言った。
「結局、見つかってねぇじゃねぇか」
「そう簡単に見つかるかよ」
という勇次と守田の会話に挟むように有が言った。
「アルバイト?」
「鯉を飼育しているオッサンが山に居たんだよ。で、まぁぎっくり腰になって動けねぇっつーんで鯉の世話とか家事とかを俺が代わりにやってたんだよ」
「勇次くん、家事とかできたんだ」
「まぁ、少しな」と言って勇次は缶ビールを手にしてから、「監督は何飲むよ?」と尋ねた。
「何があるんだろ?」
「見ての通り」
そう言われても困ってしまう。
「じゃあカルピス、かな」
単に一番に目が止まっただけだった。
「はいよ」
勇次が缶のカルピスを有に差し出した。
三者が飲み物を手にすると、勇次が飛び込み台に立ち
「では、セイブツ部の初集会&監督の誕生日おめでとう会を始めたいと思います!」
と叫んだ。
よっ!
と酔払いの守田が煽る。
「かんぱーい!」
と勇次が言い、守田と有も続く。
そして、守田が有の持ったカルピスに缶ピールをぶつけてくる。
飛び込み台に立ったままの勇次はその場で缶ビールを一気飲みしてから、
「んじゃあ、守田。電気を点けてくれ」
「はいよぉ」
コードが幾つも繋がれたスイッチを守田が押した。
すると、プールの端に置かれた電灯が一斉に光った。
全て一点を差していて、プールの中央に真ん丸の光を作り出した。
「あれ? もっと全体を明るくするつもりだったのに、一点だけだぞ」
と守田が首を捻る。
「角度を変えた方が良いんじゃねぇの?」
と勇次が言ったが、それを有が止めた。
「このままで良いよ、……ううん、違う。このままが良い」
「お、どーした監督?」
と勇次が言った。
有はプールの中央に浮かぶ光の玉に目を奪われたまま
「だって、月がプールの真ん中に浮かんでいるみたいじゃない?」と言った。
月が、と勇次と守田は同時に呟いて、プールに視線を送った。
「なるほど」
「確かに」
二人が頷き、「監督がそれで良いなら、オッケーだわ」と言うと、勇次はそのまま、プールへと飛び込んだ。水の跳ねる音が周囲に響いた。
「勇次、てめぇ! 俺がずっと我慢してたことを!」
と守田も叫ぶと、缶ビールをあおってからプールへ飛んだ。
「本当はなぁ。大量の金魚をプールに放したかったんだがなぁ」
勇次が不満げに言った。
「金魚?」
「監督、金魚を見たことないって言ってたろ?」
確かに、言った気がする。
「アルバイトのオマケで、大量の金魚が貰える手筈だったから、プールで一緒に泳ぐってプランだったんだよ、俺は」
「勇次、マジでそれはやらせねぇからな」
言って守田が勇次の方に水をかけた。
「監督。プールの水の料金って知ってる?」
「プールの水? ううん、知らない」
「調べたらさ、二十七万円だとさ。金魚を泳がせたってバレて、水を入れ替えるから弁償って、言われたら洒落にならねーだろ」
物凄く現実的な理由だった。
「バレねぇよ」
「勇次! お前のそーいう楽観的なところ、本当に直した方が良いぞ。じゃねぇと、ガチで優子さんに夕食を作ってもらえなくなるからな!」
「うっ」
何か嫌なことでも思い出したのか、勇次は守田と有に背を向けて、プールの真ん中に向かって泳ぎはじめた。そして、光の真ん中で止まって、有を呼んだ。
「監督、来いよー」
え?
「そーだよ。気持ち良いぜ」
と守田まで、有を手招きしている。
ちょっと待って欲しい。
病院生活が長い有にとって、プールとは遠い国の文化のようなものだ。
いつも入っている病院のお風呂は当然だけれど、狭い。
そんな有が突然、高校生用のプールへ連れて来られて「来いよー」と言われても困る。
まず、確実にプールの底に足がつかない。
その上で、水に浮かんだことのない有が勇次のいるプールの中央に行くなんて、世界がひっくり返ったって不可能だ。
だいたい、それ以前の問題だってある。
台風の日に窓の外を見ただけで、その場にへたり込んでしまうのが空野有だ。
そんな有からすれば、波がないとは言え水の塊を前にして思うことは恐怖だった。プールに飛び込むことは恐怖そのものに飛び込むことだった。
有にとって恐怖は死と同価値と言って良かった。
眠れば呼吸が止まり死に至る訳だから、どれだけ現代科学において大丈夫だと言われても、眠るその瞬間に恐怖がない訳がない。
このまま一生、目を覚まさないかも知れない。
そういう感覚を毎日、眠るその瞬間に感じる。
けれど、それはまだいい。
有がただ一人、静かに息を引き取るだけなのだから。
有にとっての真の恐怖は、有自身が気を失っている間に自分のせいで誰かが亡くなっていることだ。以前の宮内ひかりのように。
今、プールに飛び込めば有は間違いなく溺れるだろう。もがき苦しみ、それを助けようと勇次と守田はしてくれるはずだ。そんな有の苦しみによって勇次と守田のどちらかが死んだりしたら、
――そんな想像は有が死ぬことそれ以上に絶望的な恐怖だった。
「勇次くん。無理だよ」
震える声で有が叫んだ。
光の真ん中で勇次が有を見上げる。
有は続ける。
「僕、一度、川で溺れたことがあるんだ。その時、僕を助けてくれた人が、その、僕の代わりに亡くなったんだ。だから、」
「監督ー」
そう言ったのは勇次ではなく、守田だった。
「中谷勇次はUMAを捕まえる男なんだろー? ならさ、溺れた有を捕まえるくらいで死なねぇよ」
「守田もたまには良いこと言うじゃねーか。そうだよ、俺がそう簡単に死ぬかっつーの。でも、」
と言って、勇次は真っ直ぐ有を見据えた。
「監督が無理なら、良いよ。その分、俺らが泳ぐからよ」
その瞬間に有の中で浮かんだのは父の、綺麗なものは触っちゃいけない、という言葉だった。後に、その言葉は有の中で「大切なものは触っちゃいけない」に変わり、それが今、更なる結論となった。
「本当に大切なものには、ちゃんと触れにいかなくちゃいけない時がある」
監督と呼んでくれる、この年上の二人を有は本当に大切にしたいと思う。
だからこそ、彼らに迷惑をかけてでも、彼らと同じ場所へ行きたいと思った。
行くべきだ、と。
改めて有はプールの飛び込み台に立つ。
光はプールの真ん中に集まり、やっぱり月のように浮かんでいた。そして、その水面には勇次が浮かんでいて、有を見ている。
自然と足が震えた。川で溺れた時の濁った声が自分の耳の奥で蘇った。まるで過去の自分が、赤ん坊のように泣いているようだった。
大丈夫だよ、目の前には中谷勇次がいるのだから。
過去の自分を置き去りにするように、有は飛び込み台を蹴った。
了




