第十六話 最速下降チャート
深海をネオン紫の軌跡が駆け抜ける。
レールガンマグロとの戦いから一日。
ノアはただひたすら下へ向かっていた。
目指す場所は一つ。
世界の底。
前世で一度も勝てなかった男。
アインがいる場所。
そのためだけに。
そのためだけに生き残る。
視界の端で赤黒いノイズが揺れた。
ノアは確認する。
【残り寿命:28日】
静かに目を細めた。
「一日か」
マグロ攻略。
レベリング。
スキル統合。
結果として得たものは大きい。
だが。
失った時間もまた大きかった。
「残り二十八日」
「一秒も無駄にはできないな」
計算が合わない。
前世の公式記録。
魂の同期。
転生のタイミング。
理論上、ノアとアインは同じスタートラインにいたはずだった。
なのに。
あいつはもう、この世界の最深部へ到達している。
「どんだけ先行されてんだよ」
思わず笑った。
焦りはある。
だが恐怖はない。
むしろ逆だ。
前世で一度も届かなかった背中。
何度挑んでも勝てなかった世界一位。
その背中が今も前を走っている。
追いつく。
追い越す。
そして勝つ。
偵察でもいい。
情報収集でもいい。
あるいは――確認してから判断する。
全部ひっくるめて。
まずは確認だ。
「最速下降チャート開始」
その瞬間。
ノアの身体を海流が包んだ。
《亜音速航行》起動
ズドォォォォォォン!!
海が爆発する。
凄まじい加速。
周囲の景色が線になる。
今までの《ハイドロ・ダッシュ》とは比較にならない。
文字通り。
弾丸だった。
深海生物たちが反応する。
巨大な甲殻類。
鋭い牙を持つ捕食魚。
深海クラゲの群れ。
だが。
未来フレーム予測が描く紫色の予測線が、その全てを無意味にする。
敵が動く。
その前に。
ノアはもうそこにいない。
あるいは。
敵の攻撃判定が発生する前に、その空間を通り過ぎている。
戦闘すら発生しない。
ただの通過。
ただの作業。
「経験値効率が悪い」
それだけだった。
かつてなら命懸けだった相手。
攻略法を考え続けた強敵。
今では立ち止まる理由にすらならない。
ノアはさらに加速する。
水深が増していく。
光は消えた。
音も消えた。
ただ暗闇だけが広がる。
途中。
巨大なイソギンチャクの群生地を通過した。
その隙間を泳ぐクマノミのような小魚たち。
色鮮やかな身体。
警戒心の強い視線。
普通なら何らかのイベントが発生する場所。
だが。
「スキップ」
ズドォォォォォォン!!
一瞬で通過。
小魚たちは何が起きたのか理解できない。
残ったのはネオン紫の残像だけだった。
さらに下降。
さらに下降。
さらに下降。
数百メートル。
数千メートル。
もはや距離感すら曖昧になる。
そして。
ある地点を超えた瞬間。
ノアの表情が変わった。
「……ん?」
静かすぎる。
今までいた深海とは違う。
生物の気配がない。
海流のノイズも少ない。
未来フレーム予測にも何も映らない。
まるで。
周囲の生物が、この先へ近づくこと自体を避けているようだった。
嫌な沈黙。
不自然な静寂。
深海生物はいる。
だが。
誰も先へ進もうとしない。
何かを恐れている。
ノアは速度を落とした。
直後。
視界のシステムログが激しく乱れる。
【警告】
【警告】
【解析不能】
【解析不能】
【観測権限不足】
【データ破損】
ネオン紫のノイズが画面を埋め尽くす。
世界樹システムが悲鳴を上げていた。
「は?」
ノアが眉をひそめる。
今まで何度もエラーは見た。
だがこれは違う。
世界そのものが拒絶している。
その先を。
観測することを。
理解することを。
そして。
ノアは見た。
遥か下方。
観測不能領域の奥。
紫色のノイズが弾ける空間。
そこに。
何かがいる。
巨大な影。
いや。
違う。
巨大なのは、その周囲を支配している圧力だ。
中心にいる存在そのものは、異様なほど小さい。
小さすぎて見失いそうになる。
だが。
理解できた。
あれだ。
探し続けていた存在。
前世で何度も見上げた背中。
追い続けた世界一位。
全身の神経が震える。
寿命のことも。
深海の恐怖も。
一瞬だけ忘れていた。
ノアは静かに笑う。
「……いた」
ネオン紫の瞳が細く歪んだ。




