第四章 亡国の民
※ChatGPTを全文で使用しています。
リーナは、自分が何を失ったのかを知らなかった。
失ったことだけは、知っている。
夜になると、胸の奥に空いた場所が痛む。
誰かの名を呼ぼうとして、声になる前に消えてしまう。
けれど、それが誰なのかは分からない。
拾われたとき、リーナは何も言えなかったという。
ただ一つ、自分の名だけを覚えていた。
リーナ。
だからリーナは、その名で生きている。
旧王国領の外れに、名のない町があった。
町と呼ぶには少し足りず、村と呼ぶには人が多すぎる。
壊れた石壁の内側に木の家が増え、布張りの小屋が並んだ。
焼け残った倉庫に屋根を足し、崩れた礼拝堂の壁に板を打ちつけ、誰かが去ったあとの井戸を、別の誰かが使うようになった。そうして、いつの間にか人が集まる場所になった。
そこには、王国を失った者たちがいた。
王都から逃げてきた者。
国境の村を焼かれた者。
商人だった者。
兵士の家族だった者。
名を変えた者。
名だけを抱えてきた者。
誰もが、何かを失っていた。
だから、リーナの空白も、特別なものではなかった。
少なくとも、周りの人はそう扱った。
「思い出せないなら、無理に思い出さなくていい」
リーナを引き取った老女は、よくそう言った。
老女の名はマーサといった。
もとは王都の下町で針仕事をしていたらしい。
夫を亡くし、息子を亡くし、逃げる途中で家も失った。
それでもマーサは、朝になると火を起こし、布を縫い、誰かの破れた袖を直した。
「生きているだけで、まずは十分だよ」
マーサはそう言って、リーナの髪を雑に結んだ。
リーナはうなずいた。
その優しさに、何も言わなかった。
けれど、夜になると、ときどき胸の奥が痛んだ。
痛みというより、穴に近かった。
何かがない。
でも、何がないのか分からない。
手を伸ばしても、そこには何もない。
名前を呼ぼうとしても、呼ぶべき名が分からない。
そういう夜、リーナは外へ出た。
小屋の裏手に、少しだけ空の開けた場所がある。
洗い場と、薪置き場と、崩れた石柱の残骸の間。
そこからなら、屋根に邪魔されず、星が見えた。
なぜ星を見るのか、リーナには分からなかった。
誰かに教わった気もする。
自分で覚えた気もする。
ただ、さみしい夜には、上を見る。
それだけが、体に残っていた。
星は遠かった。
遠いのに、そこにあった。
リーナが覚えていても、忘れていても。
泣いていても、泣いていなくても。
何かを失っていても、何を失ったか分からなくても。
星は、ただそこにあった。
それが慰めなのか、痛みなのか、リーナには分からなかった。
分からないまま、見上げていた。
朝になると、リーナは水を汲んだ。
井戸は町の中央にある。
朝早くから人が並び、桶の音と、眠そうな子どもの声と、咳をする老人の声が混じった。
リーナは桶を持ち上げるのが、あまり得意ではなかった。
肩に古い傷があるからだ。
左肩から背中にかけて、細く引きつれた跡が残っている。
寒い日や雨の前には、そこが重く痛む。
重い桶を持つと、指先までしびれることがあった。
マーサは、無理をするなと言った。
「水汲みは若い男たちに任せればいい」
けれど、リーナは自分で汲める分だけ汲んだ。
大きな桶は持てない。
二つは運べない。
走ることもできない。
だから、小さな桶を一つだけ持つ。
何度も往復する。
それならできた。
リーナは、できないことを数えるより、できることを先に探すようになっていた。
誰に教わったのかは分からない。
けれど、それが自分には合っていた。
町では、誰もが何かをしていた。
足の悪い老人は、子どもたちに火の扱いを教えた。
片目を失った男は、荷車の車輪を直した。
声を出せなくなった女は、手振りで薬草の分け方を教えた。
幼い子どもたちは、落ちた薪を拾った。
完全な者など、ほとんどいなかった。
それでも、朝になると誰かが火を起こし、誰かが水を運び、誰かが泣いている子どもを抱いた。
リーナも、その中にいた。
彼女は、特別なことはできなかった。
傷を治すことも、失われた家を戻すことも、死んだ人を帰すこともできない。
自分自身の過去さえ、取り戻せない。
けれど、読める名を読むことはできた。
水を運ぶことはできた。
泣いている子どもの隣に座ることはできた。
分からないことを、分からないと言うことはできた。
だから、それをした。
リーナは、文字が読めた。
はじめてそれに気づいたのは、マーサの小屋に来て三年ほど経ったころだった。
商人の荷札を見て、そこに書かれた数が間違っていると言ったのだ。
商人は驚いた。
マーサも驚いた。
リーナ自身も驚いた。
読める、と思ったのではない。
ただ、違うと思った。
荷札には二十と書かれていた。
けれど、荷は十七しかなかった。
「お前、字が読めるのかい」
マーサに聞かれて、リーナは困った。
「少しだけ」
「誰に習った」
リーナは首を振った。
「覚えていません」
マーサはそれ以上聞かなかった。
亡国の民には、聞かない方がよいことが多い。
その日から、リーナは町の中で、文字に関わる仕事を少しずつ手伝うようになった。
仕事といっても、立派なものではない。
字を書けない人の代わりに、短い伝言を書き留める。
荷の数を控える。
配られる麦の量を記す。
薬草の束に札をつける。
遠くへ行く者に、誰かの名を書いた紙を持たせる。
それだけだった。
それでも、人はリーナを頼った。
彼女の字は、読みやすかった。
言葉遣いも、どこか丁寧だった。
紙を扱う手つきも、乱暴ではなかった。
「昔、よい家にいたのかもしれないね」
そう言われることがあった。
リーナは笑って首を振った。
「覚えていません」
そう答えると、相手はたいてい、それ以上聞かなかった。
ある日、年若い男が、破れた帳面を持ってきた。
男は旅の途中でこの町に寄った者だった。
旧王国の北の村から来たという。
顔は日に焼け、手は荒れていた。
腰には短い剣を下げていたが、兵士というより、ただ必要だから持っているように見えた。
「この名を、読めるか」
男はそう言って、帳面を差し出した。
帳面はひどい状態だった。
雨に濡れ、煤に汚れ、端は焦げている。
紙は波打ち、ところどころ張りついていた。
開くたびに、細かな黒い粉が落ちた。
リーナは両手で受け取った。
「全部は難しいです」
「分かるところだけでいい」
男は言った。
その声が少し震えていた。
リーナは帳面を机の上に置き、窓際へ寄せた。
午後の光が、煤けた紙の上に落ちる。
文字は、ところどころ消えていた。
けれど、残っている線もあった。
リーナは指で紙を押さえた。
読める文字を拾う。
消えかけた線を追う。
似た字を間違えないように、何度も見直す。
一つ。
二つ。
三つ。
名前が戻っていく。
完全ではない。
失われた字もある。
もう読めない名もある。
けれど、読める名は、そこにあった。
「ここは、サナ」
リーナは言った。
男の喉が動いた。
「妹だ」
リーナは顔を上げなかった。
「こちらは、たぶん、ミオ」
「母だ」
男は両手で顔を覆った。
リーナは、紙から指を離さなかった。
名前を読むことは、簡単なことではなかった。
間違えれば、その人を別の誰かにしてしまう。
読まなければ、その人は紙の汚れの中に沈んだままになる。
だから、リーナはゆっくり読んだ。
一文字ずつ。
できるところまで。
読める名を別の紙に写し終えるころには、外は少し暗くなっていた。
男は、紙を両手で受け取った。
「ありがとう」
リーナは首を振った。
「読めなかったところもあります」
「それでも」
男は紙を胸に抱いた。
「それでも、ここに戻った」
リーナは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
名前が戻る。
人が戻るわけではない。
死んだ人が帰るわけではない。
焼けた家が建つわけでもない。
けれど、男は確かに、何かを受け取った顔をしていた。
その日から、リーナのところには、古い紙や札が持ち込まれるようになった。
家族の名。
村の名。
墓標に刻むはずだった名。
逃げる途中で離れた者の名。
誰かが最後に呼んだ名。
リーナは、それらを読んだ。
読めるものは紙に写した。
読めないものは、読めないと書いた。
分からないものを、分かったふりはしなかった。
「冷たいね」
そう言われたこともある。
年配の女だった。
焼け残った木札を握りしめ、そこに夫の名があるはずだと言った。
けれど、木札の文字は半分以上失われていた。
リーナには、読めなかった。
「ここは、分かりません」
そう言うと、女はリーナを見た。
「それでも、何か書いておくれよ」
リーナは黙った。
「この人の名なんだ。何もないより、何かあった方がいい」
その気持ちは分かった。
何もないことの怖さを、リーナは知っていた。
けれど、筆を取ることはできなかった。
「違う名を書いたら、その人が帰れなくなる気がします」
リーナは言った。
女は怒った。
泣いた。
リーナを責めた。
マーサが間に入り、女を外へ連れていった。
その夜、リーナは長いあいだ眠れなかった。
自分は冷たかったのだろうか。
何かを書いてあげるべきだったのだろうか。
読めないものを、読めないと言うことは、優しさではないのだろうか。
けれど、どうしても書けなかった。
名前を間違えるのが怖かった。
誰かの名を、勝手に決めてはいけない。
その思いだけは、胸の奥にあった。
なぜそう思うのかは、分からない。
分からないけれど、そこだけは譲れなかった。
翌朝、女はもう一度リーナのところへ来た。
目は赤かった。
手には、昨日の木札があった。
「読めないと、書いておくれ」
女は言った。
リーナは顔を上げた。
「よろしいのですか」
「よくはないよ」
女は苦く笑った。
「でも、あんたの言ったことを一晩考えた。違う名を書かれるのは、あの人も嫌だろう」
リーナは小さくうなずいた。
紙に、丁寧に書いた。
読み取り不能。
それから、木札の形と、残っている文字の一部を写した。
女はそれを受け取った。
「いつか、読める人がいるかもしれない」
リーナは言った。
「そうだね」
女は紙を胸にしまった。
「それまでは、読めないまま持っておくよ」
リーナは、その言葉に少しだけ救われた。
分からないものを、分からないまま持つ。
それは、リーナ自身にも似ていた。
リーナには、分からないものが多かった。
自分がどこから来たのか。
誰に手を引かれていたのか。
なぜ星を見ると胸が痛むのか。
なぜ、誰かの名を間違えることがこんなにも怖いのか。
分からない。
けれど、分からないからといって、なかったことにはできない。
読めない木札が、そこにあるように。
リーナの中にも、読めない何かがある。
それを、別の言葉で埋めてしまってはいけない。
そう思った。
季節がいくつも過ぎた。
町には、少しずつ子どもが増えた。
逃げてきた者が住みつき、住みついた者が畑を耕し、畑のそばに小屋が建った。
春には、壊れた石壁の外に小さな花が咲いた。
夏には、井戸の水がぬるくなった。
秋には、麦の袋を数える仕事が増えた。
冬には、古い布をほどいて毛布を縫い直した。
リーナは背が伸びた。
肩の傷は残ったが、痛みとの付き合い方を覚えた。
重いものは持たない。
冷える前に布を巻く。
痛む日は、無理をしない。
昔のリーナなら、無理をしたかもしれない。
そう思ってから、リーナは首をかしげた。
昔の自分を、覚えていないのに。
それでも、時々そんなふうに思うことがあった。
自分は、前にも誰かのそばに立とうとしていたのではないか。
誰かの手を離すまいとしていたのではないか。
けれど、その誰かの顔は浮かばない。
声も、名も。
ただ、手の感触だけが、夢の中に残ることがある。
小さくて、冷たくて、震えていた手。
リーナは、その手を握っていた。
夢の中では、絶対に離してはいけないと思っている。
けれど、目が覚めると、手の感触だけが残り、誰の手だったのかは分からない。
そういう朝は、胸が痛んだ。
マーサは、何も聞かなかった。
ただ、温かい粥をよそってくれた。
「食べな」
リーナはうなずいた。
食べる。
それも、生きることだった。
ある冬の終わり、町に小さな騒ぎが起きた。
帝国から役人が来るという噂が流れたのだ。
税を取りに来るのか。
住みついた者を追い出すのか。
旧王国の者を調べに来るのか。
人々は不安になった。
町の広場で、何人かが言い争った。
「名簿を隠せ」
「隠したら余計に怪しまれる」
「帝国に名を渡すのか」
「渡さなければ、配給も受けられない」
リーナは広場の端に立っていた。
彼女の前には、町で作った名簿がある。
誰が住んでいるか。
誰が病気か。
誰が子どもを抱えているか。
誰が冬を越す麦を持っていないか。
それは、帝国のために作ったものではなかった。
町の中で、誰を助けるべきか分かるようにするためのものだった。
けれど、名簿は名簿だった。
人の名が書かれている。
それをどう扱うかで、人の不安は変わる。
「燃やそう」
誰かが言った。
「名がなければ、連れていかれない」
別の誰かが怒鳴った。
「名がなければ、助けも届かない」
声が重なった。
リーナは名簿を抱えた。
紙の重みは軽い。
けれど、そこに書かれた名は軽くなかった。
マーサがリーナを見た。
「どうする」
リーナは答えられなかった。
自分に決める権利があるとは思わなかった。
名簿にある名は、リーナのものではない。
だから、リーナは言った。
「一人ずつ、聞きましょう」
広場が静かになった。
「自分の名を載せるか、伏せるか。家族の名をどうするか。本人に聞ける人には、聞きましょう」
「時間がかかる」
男が言った。
「かかります」
リーナは答えた。
「でも、勝手に決めてはいけないと思います」
その場の全員が納得したわけではなかった。
それでも、誰もすぐには反論しなかった。
その日から、リーナは家々を回った。
名を載せる人。
伏せる人。
子どもの名だけは載せないでほしいと言う人。
死んだ家族の名も残してほしいと言う人。
帝国には渡したくないが、町の中では忘れないでほしいと言う人。
答えは、一つではなかった。
リーナは、それを一つずつ聞いた。
紙に書いた。
分からないことは、分からないと書いた。
未定のものは、未定と書いた。
本人に確認できないものは、確認できないと書いた。
面倒だと言う者もいた。
そんなことをしても何も変わらないと言う者もいた。
それでも、リーナは続けた。
できるところまで。
数日後、帝国の役人は来なかった。
噂だけだった。
人々は安心し、少し笑い、広場の言い争いは忘れられていった。
けれど、リーナの手元には、確認された名簿が残った。
それは以前より面倒なものになっていた。
載せる名。
伏せる名。
町の中だけで共有する名。
まだ決めない名。
きれいではない。
整ってもいない。
けれど、それぞれの人が、自分で選んだ形だった。
リーナはその名簿を布で包み、棚の奥にしまった。
そのとき、胸の奥で何かが小さく動いた。
誰かの意志を、勝手に扱ってはいけない。
そんな言葉が、どこかにあった気がした。
けれど、誰の言葉なのかは分からなかった。
リーナはしばらく棚の前に立っていた。
思い出せそうで、思い出せない。
けれど、その日は無理に追わなかった。
思い出せないものを、無理に別の形にしてはいけない。
それも、今のリーナには分かっていた。
夜、リーナは小屋の裏に出た。
空は晴れていた。
星が見える。
町の灯は少ない。
風が吹くと、布張りの屋根が小さく鳴る。
遠くで子どもが泣き、誰かがなだめている。
ここには王宮はない。
白い花の庭も、石の柱廊も、磨かれた床もない。
リーナは、それらを知らない。
知らないはずなのに、ときどき胸が痛む。
自分は何を失ったのだろう。
何度もそう思った。
けれど、その夜、リーナは少しだけ違うことを考えた。
失ったものが分からなくても、今ここにいる人の名なら読める。
泣いている子どもに水を持っていくことはできる。
煤けた帳面から、誰かの母の名を拾うことはできる。
読めない字を、読めないと正直に言うことはできる。
人の名を、勝手に決めないことはできる。
全部はできない。
できるところまで。
リーナは、空を見上げた。
星は遠かった。
けれど、遠いから消えるわけではなかった。
そのことを、誰かに教わった気がした。
誰だったのかは、思い出せない。
それでも、リーナはその夜、少しだけまっすぐ立っていられた。
翌朝、北から来た商人が、広場で噂を落としていった。
王国の跡を回り、古い名を集めている旅人がいるという。
帝国の役人ではない。
商人でもない。
兵士でもない。
若い男で、旅慣れた外套を着て、古い道や崩れた村を訪ね歩いているらしい。
失われた名を聞き、紙に書き、どこかへ運んでいるのだという。
「また記録の話か」
広場にいた男が笑った。
「そんなものを集めて、何になる」
別の女が肩をすくめた。
「死んだ人は戻らないよ」
リーナは笑わなかった。
古い名。
その言葉だけが、胸の奥で小さく触れた。
痛みではなかった。
けれど、何かが、ほんの少しだけ動いた。
リーナは顔を上げた。
空はまだ明るい。
星は、まだ出ていなかった。




