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第五章 同じ空の下で

※ChatGPTを全文で使用しています。

旅人は、三日後に町へ来た。

北から来たというその人は、リーナが思っていたより若かった。

けれど、若さより先に、歩いてきた距離の方が目についた。

外套の裾には、乾いた泥がついている。

靴の革は何度も直され、肩にかけた鞄の縁は擦り切れていた。

腰には短い剣があったが、兵士のものには見えなかった。

守るためというより、旅を続けるために持っている。

そんな剣だった。

旅人は広場で水をもらい、しばらく町の人たちと話していた。

リーナは、マーサの小屋の前で、薬草の札を書いていた。

乾かした葉を束ね、同じものを間違えないように短い名をつける。

熱冷まし。

咳止め。

傷洗い。

腹痛。

どれも簡単な字だった。

けれど、間違えれば困る人がいる。

だから、リーナは一枚ずつ確かめながら書いていた。

「名簿を預かっている方は、どなたでしょう」

広場の方から、旅人の声が聞こえた。

リーナは筆を止めた。

町の人たちの視線が、自然とこちらへ向く。

旅人もそれに気づき、リーナの方を見た。

目が合った。

リーナは筆を置き、立ち上がった。

「私です」

旅人は少し驚いたようだった。

けれど、すぐに姿勢を正した。

「失礼しました。エルといいます」

「リーナです」

名乗ると、エルは小さくうなずいた。

そのうなずき方が、少し変わっていた。

ただ名前を聞いた人の反応ではなかった。

受け取ったものを、雑に扱わないようにする人のうなずきだった。

リーナは、そう感じた。

「古い名を集めている旅人が来ると聞きました」

「はい」

エルは肩の鞄に手を添えた。

「王国の跡を回っています。失われた村の名、家族の名、行方の分からない人の名。分かるものを記録しています」

広場にいた男が鼻で笑った。

「そんなものを集めて、何になる」

名簿をめぐって、町の誰かが口にした言葉と似ていた。

リーナは、エルがどう答えるのかを待った。

エルは怒らなかった。

困った顔もしなかった。

ただ、少しだけ考えてから言った。

「戻らないものは、戻りません」

広場が静かになった。

「でも、戻らないからといって、なかったことにはしたくありません」

その言葉に、リーナは指先を止めた。

なかったことにはしたくない。

それは、彼女が何度も思ってきたことだった。

読めない木札を、別の名で埋められなかったとき。

名簿を勝手に決められなかったとき。

自分の中の空白を、別の言葉でふさぎたくなかったとき。

エルは続けた。

「忘れないためです。誰かを裁くためでも、誰かを王にするためでもありません。ただ、そこにいた人を、いたままに残すために」

リーナは、エルの鞄を見た。

その中には、たくさんの紙が入っているのだろう。

名が書かれた紙。

読めない名がある紙。

もう誰にも確かめられない名がある紙。

軽いはずなのに、重そうに見えた。

「町の名簿を、見せていただくことはできますか」

エルが言った。

リーナはすぐには答えなかった。

名簿は、町の人たちのものだ。

リーナのものではない。

「全員の許可が必要です」

エルはうなずいた。

「分かりました」

「町の中だけで共有すると決めた名もあります」

「それは写しません」

「本人が伏せると決めた名もあります」

「書きません」

「分からない名もあります」

「分からないと記録します」

リーナは、エルを見た。

その答えは早かった。

用意していたようでもあった。

「分からないと、書くのですか」

「はい」

「空白のままにするのではなく」

「空白にも、意味があると思っています」

リーナは黙った。

空白にも、意味がある。

その言葉は、胸の奥のどこかに静かに落ちた。

リーナの中にも、空白がある。

生まれた場所。

母の名。

逃げていた理由。

手を離してはいけなかった誰か。

どれも分からない。

けれど、それは何もなかったということではない。

分からないまま、そこにあるもの。

リーナは、ゆっくり息を吸った。

「今日すぐには、お見せできません」

「はい」

「町の人に聞きます。見せてよいものと、見せてはいけないものを分けます」

「お願いします」

エルは頭を下げた。

深すぎない、けれど軽くもない礼だった。

リーナはその礼を見て、少しだけ不思議に思った。

旅人なのに、礼儀を知っている。

兵士ではないのに、剣を持っている。

若いのに、古い名を集めている。

「あなたは、なぜそれをしているのですか」

気づくと、リーナはそう聞いていた。

エルは少しだけ目を伏せた。

「頼まれたからです」

「誰に」

「忘れない人に」

答えになっているようで、なっていない。

けれど、リーナはそれ以上聞かなかった。

エルの顔に、これ以上はまだ言葉にしない方がよいものが見えたからだ。

亡国の民には、聞かない方がよいことが多い。

旅人にも、きっとあるのだろう。

リーナはそう思った。

その日の午後、リーナは町を回った。

エルに名簿を見せてよいか。

どの名を写してよいか。

どの名は町の中だけに留めるか。

死んだ者の名を、記録院という場所へ送ってよいか。

記録院。

エルは、そう言った。

王国の名を、失われた人の名を、できるだけ集める場所だという。

王宮ではない。

王座でもない。

誰かを支配するための場所でもない。

忘れないための場所。

リーナはその言葉を、何度も胸の中で繰り返した。

忘れないため。

けれど、自分は忘れている。

そのことが、少しだけ苦しかった。

夕方になって、リーナはマーサの小屋へ戻った。

許可を得られた名。

伏せる名。

まだ迷っている名。

死んだ家族の名だけは残してほしいという願い。

帝国には渡したくないが、記録院になら預けてもよいという声。

紙は何枚にもなった。

エルは、小屋の外で待っていた。

中に入らなかったのは、リーナが呼ぶまで待つつもりだったからだろう。

「お待たせしました」

リーナが言うと、エルは首を振った。

「早いくらいです」

「早くありません。まだ聞けていない人もいます」

「では、聞けたところまでで」

その言葉に、リーナは少しだけ目を上げた。

できるところまで。

誰かが、そう言った気がした。

けれど、思い出せない。

リーナは机に紙を広げた。

エルは向かいに座り、鞄から記録用の紙と筆を出した。

二人はしばらく、黙って名を写した。

リーナが町の名を読み上げる。

エルが書く。

分からないところは、分からないと書く。

伏せる名は、伏せると書く。

本人の希望があるものは、そのまま添える。

単調な作業だった。

けれど、雑にはできなかった。

途中で、エルが手を止めた。

「あなたは、名を丁寧に扱う人ですね」

リーナは困った。

褒められた気がしなかった。

ただ、間違えたくないだけだった。

「違う名を書いたら、その人が帰れなくなる気がします」

そう言うと、エルは静かにリーナを見た。

その目が、少しだけ揺れた。

「同じことを言った人を、知っています」

リーナの胸の奥で、何かが小さく触れた。

「誰ですか」

エルはすぐには答えなかった。

外では、夕方の風が吹いていた。

小屋の壁が小さく鳴る。

遠くで、子どもが誰かを呼んでいる。

エルは、筆を置いた。

「アビシニアという人です」

その名を聞いた瞬間、リーナの指先が冷たくなった。

痛みではない。

恐怖でもない。

ただ、胸の奥の空白に、遠い風が触れたようだった。

「アビシニア」

リーナは、ゆっくり繰り返した。

知らない名だった。

知らないはずの名だった。

けれど、知らないと言い切るには、胸の奥が静かに震えていた。

エルは、リーナの顔を見ていた。

急かさなかった。

「その人は」

リーナは言った。

声が少しかすれた。

「どんな人ですか」

エルは、少しだけ考えた。

「今は、記録院に関わっている方です」

「記録院」

「失われた名を、忘れないための場所です」

リーナは、机の上の紙を見た。

町の名。

伏せると決められた名。

読めないまま残した名。

「その方が、作ったのですか」

「設立に関わりました」

「王族の方ですか」

エルは、少しだけ目を伏せた。

「王家の血を引く方です」

「では、王女様なのですね」

エルはすぐには答えなかった。

その沈黙の中で、誰かの姿を思い出しているように見えた。

「あの方は、王冠を持たないのです」

静かな声だった。

リーナは、その言葉の意味をすぐには分からなかった。

王家の血を引く。

けれど、王冠を持たない。

それがどういうことなのか、リーナにはまだ分からない。

けれど、その言葉は、胸の奥の空白に触れていた。

「持てるものを、持たないのですか」

「はい」

エルはうなずいた。

「あの方は、そう選びました」

「なぜ」

「王冠より、残さなければならないものがあったからです」

リーナは、机の上の紙を見た。

町の名。

伏せると決められた名。

読めないまま残した名。

「名ですか」

「名だけではありません」

エルは言った。

「そこで生きた人たちが、確かにいたということです」

リーナは、膝の上で手を握った。

その人を、知らない。

知らないはずだ。

それなのに、聞かないままにはできなかった。

「その方のことを、聞かせてください」

リーナは言った。


エルは、すぐには答えなかった。

机の上には、町の名が並んでいる。

読めた名。

伏せると決められた名。

読めないまま残した名。

エルはそれらを一度見てから、静かに筆を置いた。

「どこから話せばいいのか、少し迷います」

「長い話なのですか」

「はい」

エルは小さくうなずいた。

「けれど、今ここでお話しするなら、きっと長さではありません」

リーナは、エルを見た。

「その方は、たくさんのものを奪われました」

エルの声は低かった。

けれど、悲しみだけではなかった。

「名も、国も、自分が何者であるかを決める言葉も。周りの人たちは、あの方をいろいろな名で呼ぼうとしました。王女。鍵。災い。王冠を継ぐ者」

リーナの指先が、膝の上で小さく動いた。

鍵。

その言葉に、理由の分からない冷たさが走った。

「でも、あの方は、最後には自分で選びました」

「選ぶ」

「はい」

エルは言った。

「誰かに決められた名で生きるのではなく、誰かのために王冠をかぶるのでもなく、自分が何を残すのかを」

リーナは、机の上の紙を見た。

自分の名。

町の人たちの名。

読めないままの名。

「その方は、強い人なのですね」

そう言ってから、リーナは少しだけ違う気がした。

強い。

その言葉では、足りない気がした。

エルも、すぐにはうなずかなかった。

「強いだけの方ではありません」

「では」

「怖がる方です」

リーナは顔を上げた。

エルは、遠いものを見るような目をしていた。

「人の心に踏み込むことを怖がり、誰かの選択を奪うことを怖がり、それでも、必要なときには前へ進む方です」

リーナは息を止めた。

人の選択を奪う。

その言葉は、町の名簿を一人ずつ確認して回った日のことを思い出させた。

勝手に載せてはいけない。

勝手に伏せてもいけない。

本人に聞けるなら、聞かなければならない。

「それは、優しいということですか」

「優しさだけではないと思います」

エルは言った。

「たぶん、痛みを知っているということです」

リーナは黙った。

痛みなら、自分にもある。

けれど、自分の痛みは、名前を持っていない。

どこから来たのかも分からない。

「その方は、自分の痛みを覚えているのですか」

「はい」

エルは静かに答えた。

「忘れないことを選んだ方です」

忘れない。

リーナは、その言葉を胸の中で繰り返した。

自分は、忘れている。

忘れたくて忘れたわけではない。

けれど、忘れている。

そのことが、急に申し訳ないことのように思えた。

リーナは視線を落とした。

「私は」

声が、思ったより小さく出た。

「私は、忘れています」

エルは何も言わなかった。

リーナは、膝の上で手を握った。

「何を失ったのかも、誰を置いてきたのかも、分かりません。覚えているのは、自分の名だけです」

言葉にすると、胸の奥の空白が少し痛んだ。

「でも、失ったことだけは分かります」

エルは、ゆっくりとうなずいた。

「それは、なかったことではありません」

リーナは顔を上げた。

「覚えていなくても、ですか」

「はい」

エルは言った。

「覚えていないことと、なかったことは違います」

その言葉は、すぐには胸に入ってこなかった。

リーナは何度か瞬きをした。

覚えていないこと。

なかったこと。

それは同じではない。

読めない木札を、捨てなかったように。

空白の欄を、空白のまま残したように。

自分の中の空白も、そこにあるものとして扱ってよいのだろうか。

「私は、その方を知っていたのでしょうか」

リーナは聞いた。

エルは、すぐには答えなかった。

その沈黙で、リーナは答えを急いではいけないのだと分かった。

「確かなことだけを言います」

エルは言った。

「お願いします」

「記録の中に、あなたの名があります」

リーナの指先が止まった。

「私の」

「はい。リーナという名です」

リーナは息を吸った。

それは自分の名だ。

拾われたとき、唯一残っていた名。

「その名は、王国が滅びた夜の記録に残っています」

小屋の外で、風が鳴った。

リーナは、机の端をつかんだ。

王国が滅びた夜。

赤くなかった空。

遠い音。

白くかすむ視界。

さああ、と耳の奥で続いていた白い音。

思い出したわけではない。

けれど、体のどこかが、その夜を知っているように震えた。

「誰が」

リーナは言った。

「誰が、私の名を」

エルは、静かに答えた。

「アビシニア様です」

リーナは、声を失った。

アビシニア。

その名が、もう一度胸の奥に触れた。

今度は、風ではなかった。

小さな光のようだった。

「詳しいことは、まだ分かっていません」

エルは言った。

「記録は欠けています。白塔と王冠炉に残されたものにも、読めない箇所があります。誰がどこで別れたのか、すべてが分かるわけではありません」

リーナはうなずいた。

分からないものを、分かったことにはしない。

それは、自分にも分かる。

「けれど、あなたの名は残っていました」

エルは続けた。

「そして、あの方はその名を、失われたものとしてではなく、探すべき名として残していました」

リーナは、膝の上で手を握った。

探すべき名。

自分は、探されていたのだろうか。

誰かに。

アビシニアという、その人に。

胸の奥の空白が、痛んだ。

けれど、それはいつもの痛みとは少し違っていた。

穴の底に、光が差したような痛みだった。

「私は、思い出せません」

リーナは言った。

「はい」

「その方の顔も、声も。私が何を約束したのかも」

「はい」

「それでも」

リーナは、机の上の紙を見た。

読めないまま残した名。

空白の欄。

本人が伏せると決めた名。

そして、自分の中の、何も書けない場所。

「なかったことには、したくありません」

エルは、静かにうなずいた。

「それでいいと思います」

リーナは、少しだけ息を吐いた。

いい。

その言葉に、胸の奥がゆるむ。

思い出せないことを、許されたわけではない。

忘れてしまったことが、消えたわけでもない。

けれど、空白を空白のまま持っていてもいいのだと、初めて誰かに言われた気がした。

「アビシニア様は」

リーナは、ゆっくりその名を呼んだ。

知らない名。

知らないはずの名。

それでも、もうただの知らない名ではなかった。

「今、どこにいらっしゃるのですか」

エルは窓の外を見た。

夕暮れの光が、壊れた石壁の向こうに沈みかけている。

「遠い場所です」

「遠い」

「はい。けれど、暗い場所ではありません」

エルは、少しだけ表情を和らげた。

「光の差す場所で、生きています」

リーナは、その言葉を聞いた。

光の差す場所。

なぜか、胸の奥で何かがほどけた。

生きている。

アビシニアという人は、生きている。

自分が思い出せなくても。

名を呼べなくても。

何を約束したのか分からなくても。

同じ空の下に、生きている。

リーナは、窓の外を見た。

まだ星は出ていない。

けれど、空は少しずつ深くなっていた。


その後も、エルは少しだけ話してくれた。

アビシニアが、どんなふうに記録院に関わったのか。

王冠炉と白塔に残された記録を、なぜ消してはならないと考えたのか。

そして、今も遠い場所で生きていること。

けれど、リーナには、そのすべてを一度に受け止めることはできなかった。

分かること。

分からないこと。

聞いたばかりの名。

胸の奥で、理由もなく震えるもの。

それらが、まだばらばらのまま置かれている。

エルも、それ以上は急がなかった。

「明日、また伺ってもよろしいですか」

「はい」

リーナはうなずいた。

「まだ、確認できていない名があります」

「分かりました」

エルは、机の上の紙を丁寧にまとめた。

写し取ったものと、写してはいけないものを混ぜないように、何度も確かめる。

その手つきを見て、リーナは少しだけ安心した。

この人は、名を雑に扱わない。

エルは鞄を閉じ、立ち上がった。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

リーナも立ち上がった。

扉の前で、エルは一度だけ振り返った。

「リーナさん」

「はい」

「分からないことは、分からないまま残してよいと思います」

リーナは、すぐには答えられなかった。

エルは、それ以上言わなかった。

ただ、静かに頭を下げた。

扉が閉まる。

足音が、少しずつ遠ざかっていく。

小屋の中に、夜の静けさが戻った。

リーナは、しばらく窓の外を見ていた。

夕暮れの色は、もうほとんど消えていた。

壊れた石壁の影が黒く沈み、布張りの屋根の端が夜風に揺れている。

この町には、王宮はない。

白い花の庭もない。

磨かれた床もない。

夜になったら星を見に行こうと約束した相手も、思い出せない。

それでも、空はあった。

王宮の上にも。

この名のない町の上にも。

遠い光の差す場所にも。

同じ空が、広がっている。

リーナは、膝の上の手を見た。

この手は、誰かの手を握っていたのかもしれない。

離してはいけないと思っていたのかもしれない。

それでも、今はここにある。

水を汲む手。

名を書く手。

読めないものを、読めないまま残す手。

忘れている。

けれど、何もなかったわけではない。

リーナは、そう思った。

うまく言葉にはできなかった。

けれど、何もなかったのとは違う。

リーナは筆を取った。

机の上には、町の名簿がある。

その横に、まだ何も書かれていない小さな紙が一枚あった。

自分の欄には、まだ空白が多い。

生まれた場所。

母の名。

滅亡の夜。

手を握っていた相手。

忘れてはならないと誓ったこと。

どれも書けない。

書けないものを、別の言葉で埋めることはできない。

けれど、書けることもある。

リーナは、ゆっくり筆を下ろした。

リーナ。

まず、自分の名を書いた。

それから、少し迷って、次の行に書いた。

星を見るのが好き。

筆先が止まる。

理由は分からない。

そう書こうとして、リーナは一度、窓の外を見た。

空はもう深くなっていた。

一番星が、壊れた石壁の上に小さく光っている。

リーナは、もう一度紙に向き直った。

理由は、まだ分からない。

そう書いた。

まだ。

その一文字を入れたことに、自分で少し驚いた。

理由は分からない。

それでもよかったはずだった。

けれど、今はただ、その空白を自分のものとして残したかった。

リーナは紙を乾かし、町の名簿とは別に畳んだ。

誰かに渡すための紙ではない。

記録院へ送るための正式な記録でもない。

それは、リーナが自分のために書いた、最初の記録だった。

外へ出ると、夜風が頬に触れた。

マーサの小屋の裏手には、いつもの空が広がっている。

洗い場と、薪置き場と、崩れた石柱の残骸の間。

そこから見える星は、王宮で見た星と同じなのかもしれない。

リーナには分からない。

けれど、同じ空の下にいる人がいる。

自分の名を、失われたものとしてではなく、探すべき名として残した人がいる。

その人は、光の差す場所で生きている。

そして自分も、ここで生きている。

リーナは空を見上げた。

星は遠かった。

けれど、遠いから消えるわけではなかった。

胸の奥の空白は、まだ空白のままだ。

けれど、その底に、ほんの少し光が差していた。

リーナは、小さく息を吸った。

明日の朝も、水を汲む。

名を読む。

読めないものは、読めないまま残す。

できるところまで。

その上で、夜になったら、また空を見るだろう。


同じ空の下で。

リーナは、しばらく星を見上げていた。

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