第三章 失われた記憶
※ChatGPTを全文で使用しています。
最初に聞こえたのは、鐘の音ではなかった。
耳の奥で、さああ、と細かな音がしていた。
砂をこぼすような、遠い雨のような音だった。
体が冷たい。
けれど、寒いのとは違った。
震える力も、もうあまり残っていなかった。
息を吸おうとすると、胸の奥が浅くきしむ。
深く吸えない。
だから、声も出ない。
目を開けたつもりだった。
けれど、視界は白くかすんでいた。
その白の中から、花の匂いがした。
白い花が揺れている。
小さな花びらが、風に押されて少しだけ傾く。
水桶の中で、水がきらりと光る。
裏庭だ。
そう思った。
けれど、どうして自分がそこにいるのかは分からなかった。
「リーナ」
声がした。
振り向くと、姫様がいた。
まだ小さな姫様。
頬を少しふくらませ、水桶の取っ手を握っている。
「姫様」
リーナは答えた。
すると姫様は、もっと頬をふくらませた。
「また姫様って呼んだ」
「姫様ですから」
「今は裏庭よ」
「裏庭でも、姫様は姫様です」
「リーナは時々、乳母みたいなことを言うわ」
「乳母の娘ですから」
そう答えると、姫様は一瞬だけ黙った。
それから、我慢できなくなったように笑った。
リーナも笑った。
ああ。
これは、忘れてはいけないものだ。
そう思った。
姫様の笑い方。
頬をふくらませる顔。
水桶の中で揺れる光。
白い花の匂い。
忘れてはいけない。
リーナは、そう思った。
さああ、と耳の奥の音が広がった。
白い花の輪郭がにじむ。
指先が冷たい。
握っていたはずのものが、少しずつ遠くなる。
場面が揺れた。
花の白が、夜の色に変わる。
南庭だった。
母の手が、リーナの手を引いている。
リーナはまだ、もっと小さかった。
母の歩幅についていけず、何度も小走りになった。
夜の王宮は静かで、廊下の灯は少なく、母の横顔だけが薄く見えていた。
「お母様、叱られませんか」
小さなリーナが聞いた。
母は前を見たまま、少しだけ笑った。
「少しだけなら」
「叱られる量を自分で決めてはいけないのでは」
「そうですね」
「では」
「今夜だけです」
母はそう言って、リーナの手を握り直した。
その夜だけ、母は乳母ではなかった。
姫様の髪を結う手でも、王妃様に礼をする手でもなかった。
リーナだけの母だった。
南庭の奥に出ると、空が広かった。
王宮の屋根に切られず、柱廊の影にも隠れず、夜が大きく開いていた。
星があった。
声を出さなくても、そこにあった。
リーナは息をのんだ。
「きれい」
母は隣に立って、同じ空を見上げた。
「さみしいときは、上を見なさい」
「上?」
「星は、誰のものでもありません」
母の声は静かだった。
「姫様のものでも、王妃様のものでも、私のものでも、あなたのものでもない。けれど、誰が見てもそこにあります」
リーナは、母の言葉を全部は分からなかった。
でも、母が自分の手を握っていることだけは分かった。
「お母様も、見ますか」
「ええ」
「私がさみしいとき、お母様も?」
母は少しだけ黙った。
それから、リーナの髪を撫でた。
「見ます」
リーナは空を見上げた。
星は遠かった。
けれど、遠いから消えるわけではなかった。
リーナは、それを胸の中で数えた。
母の手。
南庭。
星。
さみしいときは、上を見ること。
数えれば、残せる気がした。
けれど、指先はもう母の手を覚えていなかった。
冷たい。
ひどく冷たい。
耳鳴りが強くなり、星の輪郭が白くにじんだ。
また、光が揺れた。
今度は昼間だった。
姫様の黒い髪が、風にふわりと広がっている。
「夜は暗いでしょう」
姫様は少し不満そうに言った。
リーナは首を振った。
「暗いだけではありません」
「暗いわ」
「星があります」
「星?」
「お星さまのひかりを集めた、ふわふわの夜空みたいです」
言ってから、リーナは少し恥ずかしくなった。
うまく言えなかった。
もっときれいな言葉があればよかった。
姫様が自分の髪を嫌いでなくなるような、ちゃんとした言葉が。
けれど、姫様は目を丸くした。
それから、自分の髪を指でつまんだ。
「これが?」
「はい」
「リーナの髪の方がきれいよ」
「私の髪は、ただ明るいだけです」
「明るい方がいいわ」
「姫様の髪は、星が見える夜です」
姫様は黙った。
信じていない顔だった。
でも、少しだけ嬉しそうでもあった。
だからリーナは言った。
「今夜、見に行きましょう」
「どこへ」
「南庭です。空が広く見えます」
「夜に?」
「はい」
「叱られるわ」
「少しだけなら」
姫様はリーナを見た。
それから、二人で笑った。
忘れてはいけない。
姫様に星を見せること。
姫様の髪は、ただ暗いのではないこと。
夜には星があること。
忘れてはいけない。
また、場面が揺れた。
石の壁。
閉じていく隙間。
母の顔。
「星を、見なさい」
リーナは叫んだ。
「お母様!」
声は石にぶつかって戻ってきた。
手が痛い。
喉が痛い。
けれど、母の顔はもう見えない。
暗闇が落ちる。
姫様の手が、リーナの手を握る。
「行こう」
リーナは首を振る。
お母様が。
お母様が、まだ。
でも、姫様の手も震えていた。
姫様も怖いのだ。
姫様も泣きたいのだ。
リーナは涙をぬぐった。
姫様のおそばに。
できるところまででいい。
姫様の手を離さないで。
「はい」
そう答えた。
忘れてはいけない。
母の言葉。
姫様の手。
暗い通路。
離さないという約束。
忘れてはいけない。
次の瞬間、床が崩れた。
手が離れる。
「リーナ!」
姫様の声。
伸ばした手。
届かない指。
落ちていく体。
痛み。
白い光。
暗闇。
リーナは、どこかで自分が倒れているのだと分かった。
本当の体は、冷たい石の上にある。
肩が痛い。
頭が熱い。
息をすると胸がきしむ。
でも、記憶はまだ流れていた。
流れていく。
流れていってしまう。
だめ。
リーナは、必死に手を伸ばした。
何に伸ばしているのか分からない。
けれど、伸ばさなければならなかった。
忘れてはいけない。
白い花。
水桶。
姫様の笑顔。
母の手。
南庭。
星。
姫様の黒い髪。
お星さまのひかりを集めた、ふわふわの夜空。
母の声。
星を、見なさい。
姫様の声。
離さない。
忘れてはいけない。
忘れてはいけない。
忘れてはいけない。
そのとき、また別の記憶が浮かんだ。
裏庭の午後。
姫様が頬をふくらませている。
「姫様って呼ばないで」
「では、何とお呼びすればよいのですか」
「アビー」
「いけません」
「どうして」
「姫様だからです」
「今は二人だけよ」
「二人だけでも、姫様は姫様です」
姫様は不満そうに唇を尖らせた。
「リーナはかたい」
「お母様にも言われます」
「じゃあ、いつか呼んで」
「いつか?」
「本当に二人だけのとき」
リーナは困った。
本当に二人だけのとき。
それがいつなのか、分からなかった。
王宮にはいつも誰かがいる。
姫様のそばには、乳母がいて、侍女がいて、兵がいて、王妃様がいて、王様がいる。
でも、もし本当に二人だけになったら。
もし、誰も聞いていない場所で、姫様がもう一度そう言ったら。
そのときは。
「考えておきます」
リーナは言った。
姫様は少しだけ笑った。
「約束?」
「約束ではありません」
「じゃあ、考える約束」
「それなら」
「それなら?」
「……考えます」
姫様は満足そうにうなずいた。
アビー。
呼ばなかった名。
呼べなかった名。
いつか呼ぶかもしれなかった名。
忘れてはいけない。
リーナは、その名を胸の奥で握った。
アビー。
姫様。
アビシニア様。
どれが本当の呼び名なのか、分からなくなっていく。
だめ。
忘れてはいけない。
アビー。
アビシニア。
姫様。
リーナは、声に出そうとした。
けれど、口が動かなかった。
名前が、遠ざかる。
白い花の匂いが薄くなる。
水桶の光が消える。
母の手の温かさが、指先からほどける。
南庭の空が、黒い布のように閉じていく。
星が一つずつ滲む。
姫様の髪が、夜の中に溶ける。
「星を、見なさい」
母の声が遠くなる。
「離さない」
姫様の声も遠くなる。
視界が白くかすんでいた。
その白さが、記憶の中にも流れ込んでくる。
耳の奥では、さああ、と音が続いている。
その音が、言葉の輪郭を少しずつ削っていった。
白い花は、ただの白になった。
水桶の光は、どこにあったのか分からなくなった。
母の手の温かさは、指先から先にほどけていった。
南庭の空も、星も、白い霧の向こうへ沈んでいく。
忘れてはいけない。
忘れてはいけない。
忘れては。
何を。
リーナは、分からなくなった。
何か大切なものを握っていたはずだった。
小さな手。
冷たい手。
震えていた手。
誰の手だったのか。
思い出せない。
母。
母は。
母の顔は。
声は。
髪を撫でる手は。
だめ。
だめ。
忘れたくない。
忘れたくないのに。
暗闇の底で、誰かがリーナを呼んだ気がした。
遠くで、声がした。
さああ、という音の向こう側で、誰かが話している。。
言葉は近いのに、意味だけが遠かった。
「……生きているぞ」
知らない声。
「子どもだ」
別の声。
誰かの手が肩に触れた。
その瞬間、痛みが遅れて戻ってきた。
「息がある。運べ」
体が持ち上げられる。
痛みが戻った。
リーナは目を開けようとした。
開かなかった。
誰かの腕に抱えられている。
母ではない。
姫様でもない。
知らない人の腕。
リーナは何かを言おうとした。
名前。
呼ばなければならない名前。
忘れてはいけない名前。
唇が動いた。
音にならなかった。
「名は?」
誰かが聞いた。
名。
自分の名。
リーナ。
そうだ。
自分はリーナ。
リーナ。
それだけは、まだあった。
でも、その前に誰かがいたはずだった。
自分が手を離してはいけなかった人。
星を見せるはずだった人。
呼べなかった名の人。
その名は。
リーナは探した。
暗闇の中を、必死に探した。
けれど、そこにはもう、何もなかった。
ただ、遠くに、小さな光が一つだけ残っていた。
星のような光。
それが何だったのか、リーナには分からなかった。
分からないまま、彼女はもう一度、意識を失った。




