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第二章 滅亡の夜

※ChatGPTを全文で使用しています。

鐘の音を聞いたとき、リーナはまだ眠っていなかった。

本当なら、もう寝台に入っていなければならない時間だった。

明日の朝も早い。

乳母の娘であるリーナには、覚えることがたくさんあった。

姫様の外套を受け取るときの手の位置。

廊下を歩くとき、どのくらい後ろに下がるか。

呼ばれたときの返事の仕方。

茶器を置く順番。

髪飾りの箱を開ける向き。

どれも小さなことだった。

けれど、母はいつも言った。

「小さなことを間違えない人だけが、大切なときに姫様のおそばにいられるのです」

リーナは、その言葉を大事にしていた。

いつか自分は、母のように姫様のそばに立つ。

姫様が朝起きる前に部屋を整え、髪を結い、外套を差し出し、必要なものを先に用意する。

姫様が何かを言う前に、少しだけ分かる人になる。

それが、リーナの将来だった。

けれど、その夜のリーナは、侍女になるためのことを少しも考えられなかった。

寝台の端に座り、膝の上に置いた布を畳んでは、また広げる。

角を合わせる。

しわを伸ばす。

母に教わった通りに、きちんと畳む。

それなのに、指先は何度も止まった。

南庭の奥。

柱廊の影。

星を見る約束。

昼間、姫様は頬をふくらませていた。

夜は暗いでしょう、と言った姫様の顔を思い出すと、リーナは少し笑いそうになった。

姫様は、自分の髪があまり好きではないらしい。

黒くて、すぐ絡まるから。

明るくないから。

けれど、リーナには本当にそう見えたのだ。

姫様の髪は、ただ暗いのではない。

ほどくとふわりと広がって、光を吸い込むようで、でもよく見ると細いところがきらきらしている。

うまく言えなかった。

だから、夜空みたいだと言った。

お星さまのひかりを集めた、ふわふわの夜空。

姫様は信じていない顔をしていた。

だから、見せたかった。

本物の夜空を。

南庭の奥なら、空が広く見える。

リーナはそれを知っていた。

以前、母が夜に連れて行ってくれたことがある。

その夜だけ、母は乳母ではなく、リーナだけの母だった。

姫様の髪を結う手でも、王妃様に礼をする手でもなく、リーナの手を引く手だった。

「さみしいときは、上を見なさい」

母はそう言って、リーナの手を握ってくれた。

だからリーナは、姫様にも見せたかった。

自分が母からもらった、あの星空を。

そこへ行くには、夜が深まり、廊下の灯が一つ落とされ、見張りの足音が遠ざかるのを待たなければならない。

見つかったら、きっと叱られる。

リーナは畳んだ布を胸に抱えた。

少しだけなら、叱られてもよいと思った。

姫様が笑ってくれるなら。

姫様が、自分の髪を少しでも嫌いでなくなるなら。

それに、リーナも見たかった。

姫様と一緒に見る星を。

部屋の外で、母の足音がした。

リーナは慌てて布を置き、寝台に入ったふりをした。

掛け布を胸まで引き上げ、目を閉じる。

扉が少し開いた。

「リーナ」

母の声だった。

リーナは返事をしなかった。

眠ったふりをするのは、あまり上手ではない。

けれど、今夜だけは見逃してほしかった。

母はしばらく黙っていた。

それから、小さくため息をついた。

「眠っていないでしょう」

リーナは目を開けた。

「……はい」

「明日は、姫様の朝の支度を見学する日です」

「はい」

「寝不足の侍女は、髪飾りの箱を落とします」

「まだ侍女ではありません」

「だから、今から練習するのです」

母はそう言って、寝台のそばへ来た。

叱る声ではなかった。

少し呆れていて、少し優しい声だった。

リーナは掛け布の端を握った。

「お母様」

「何です」

「姫様の髪は、夜空みたいだと思いますか」

母は一瞬、答えに困ったようだった。

「急に何を言うのです」

「昼間、姫様に言いました」

「姫様は何と」

「夜は暗いでしょう、と」

母は小さく笑った。

「姫様らしいですね」

「でも、星があります」

リーナは真面目に言った。

母はリーナの髪を撫でた。

「そうですね」

「だから、今夜」

言いかけて、リーナは口を閉じた。

母の手が止まった。

「今夜?」

「何でもありません」

「リーナ」

母の声が少し低くなった。

リーナは掛け布を握りしめた。

嘘をつくのは苦手だった。

侍女になるなら、必要なことだけを言い、言わなくてよいことは言わないようにしなさい、と母は言った。

けれど、これはその練習とは少し違う気がした。

「……少しだけ、南庭へ行こうと思いました」

母の目が細くなった。

「一人で?」

「姫様と」

母は今度こそ、はっきりため息をついた。

「叱られたいのですか」

「少しだけなら」

「叱られる量を自分で決めてはいけません」

「はい」

リーナはうつむいた。

母は厳しい顔をしていた。

けれど、怒鳴らなかった。

「姫様を危ない場所へお連れしてはいけません」

「南庭の奥だけです」

「夜の王宮に、子どもだけで行ってよい場所はありません」

「でも」

「でも、ではありません」

リーナは黙った。

母の言うことは正しい。

分かっていた。

将来、姫様のそばに立つなら、姫様を危ないことに誘ってはいけない。

姫様が行きたいと言っても、止めなければならない時がある。

それでも、リーナは昼間の姫様の顔を思い出した。

頬をふくらませて、でも少しだけ笑いそうだった姫様。

自分の髪を、まだ信じられない顔で触っていた姫様。

「姫様に、星を見せたかったのです」

リーナは小さく言った。

母は黙った。

その沈黙で、リーナは母が思い出したのだと分かった。

あの夜のことを。

まだリーナがもっと小さくて、母の袖を握って離さなかった夜のことを。

母は、リーナの額に手を置いた。

「その気持ちは、覚えておきなさい」

「はい」

「けれど、今夜は寝なさい」

その沈黙が、叱られるよりも長く感じた。

やがて母は、リーナの額に手を置いた。

「……はい」

リーナはうなずいた。

母は立ち上がり、扉へ向かった。

その背中を見ながら、リーナは少しだけ残念に思った。

約束を破ることになる。

姫様は怒るだろうか。

それとも、やっぱり夜空は見なくてもいいと言うだろうか。

明日の朝、謝ろう。

そう思ったときだった。

鐘が鳴った。

最初は、一つ。

低く、遠く、王宮の奥で何かが目を覚ましたような音だった。

母の足が止まった。

リーナは寝台の上で身を起こした。

二つ目の鐘が鳴った。

今度は、壁が震えた。

母の顔から、色が消えた。

「お母様?」

三つ目の鐘が鳴った。

それは、リーナが知っているどの鐘とも違っていた。

朝を告げる鐘ではない。

客人を迎える鐘でもない。

儀式の始まりを知らせる鐘でもない。

母は扉を開け、廊下を見た。

外から、誰かの走る音が聞こえた。

夜の王宮で、人は走らない。

リーナはそれを知っていた。

母に何度も教えられていた。

急ぐときほど静かに歩く。

王宮では、足音さえ礼儀の一部なのだと。

けれど今、廊下の足音は礼儀を忘れていた。

近づき、遠ざかり、また別の足音が重なる。

母が振り返った。

その顔を見た瞬間、リーナは、もう叱られる話ではなくなったのだと分かった。

「リーナ」

母の声は静かだった。

静かすぎた。

「外套を着なさい」

「はい」

リーナは寝台から降りた。

床が冷たい。

手も、少し震えている。

「姫様のところへ行きます」

リーナは顔を上げた。

南庭ではない。

星を見るためでもない。

それでも、姫様のところへ。

リーナは外套を羽織り、母の後を追った。

廊下に出ると、夜の王宮は、もう昼間の王宮ではなかった。

灯は残っていた。

けれど、いつもの灯ではなかった。

壁に沿って並ぶ燭台の火が、風もないのに揺れている。

影が長く伸び、石床の上を何度も折れた。

廊下の端で、侍女の一人が布を抱えたまま立ち尽くしていた。

その足元には、落としたらしい銀の盆が転がっている。

誰も拾わない。

いつもなら、母がすぐに注意したはずだった。

廊下に物を落としたままにしてはいけません。

姫様のお通りになる場所です。

けれど母は、何も言わなかった。

それが、リーナには怖かった。

「お母様」

「声を落としなさい」

母は前を見たまま言った。

「何が起きているのですか」

「まだ分かりません」

母はそう答えた。

けれど、分かっていない声ではなかった。

言えない声だった。

リーナは母の袖を握りそうになって、やめた。

廊下で母の袖を引くのは、よくない。

そう教わっていたからだ。

でも、今だけは握りたかった。

王宮の奥で、また鐘が鳴った。

低く、重く。

その音の下に、別の音が混じった。

どくん。

リーナは足を止めた。

「今の」

母が振り返る。

「止まらないで」

「下から、音が」

「聞かなかったことにしなさい」

「でも」

「リーナ」

母の声が鋭くなった。

リーナは口を閉じた。

床の下から聞こえた音は、心臓のようだった。

王宮そのものが、暗い場所で大きく息をしているような音。

どくん。

もう一度、響いた。

母はリーナの手を取った。

いつもの母の手ではなかった。

髪を結うときの手。

額に触れて熱を測る手。

失敗した布の畳み方を直す手。

そのどれとも違っていた。

冷たく、強かった。

「急ぎます」

「はい」

二人は廊下を進んだ。

途中、兵が走ってきた。

母は壁際にリーナを寄せた。

兵は二人に気づいても、礼をしなかった。

そのまま走り過ぎ、角を曲がる前に叫んだ。

「内門を閉じろ!」

内門。

リーナはその言葉を知っていた。

王宮の外側の門ではない。

王族の住まう奥宮へ続く、内側の門。

そこを閉じるということは、外から何かを防ぐだけではない。

内側にいる者を、閉じ込めることでもあった。

母の手に、力が入った。

「痛いです」

「あ……」

母はすぐに手を緩めた。

「ごめんなさい」

母が謝った。

リーナは驚いた。

母は、リーナに謝ることが少なかった。

間違いを直すことはあっても、謝ることはあまりない。

母はいつも正しかったからだ。

その母が、今、謝った。

リーナの胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

姫様の部屋に近づくにつれて、人の声が増えた。

けれど、誰も大きくは話していない。

声をひそめ、走り、扉を閉め、また走る。

王宮は騒がしいのに、どこか息を殺していた。

母は姫様の部屋の前で足を止めた。

扉は少し開いていた。

中から、薄い灯が漏れている。

「姫様」

母が声をかける前に、扉の内側から小さな声がした。

「リーナ?」

リーナは息をのんだ。

「姫様」

扉が開いた。

姫様は薄い上掛けを肩にかけて立っていた。

髪はほどけ、黒い巻き毛が肩の上に落ちている。

昼間、夜空みたいだと言った髪。

でも今は、星の光を集めているようには見えなかった。

灯の下で、その髪は暗く、重く、姫様の顔を小さく見せていた。

「リーナ、どうして」

姫様は言いかけて、母の顔を見た。

それだけで、何かが違うと分かったのだろう。

「何が起きているの」

母は部屋へ入り、扉を閉めた。

「姫様。王妃様から、奥の通路へお連れするよう申しつかっています」

「お母様は?」

「陛下のもとへ」

「お父様は?」

母は答えなかった。

姫様の顔が少し白くなった。

リーナは姫様のそばへ行きたかった。

けれど、母が先に動いた。

棚から外套を取り、姫様の肩にかける。

手早く紐を結ぶ。

髪を整える時間はない。

それでも母の指は、姫様の髪が顔にかからないよう、そっと横へ払った。

いつもの朝の支度とは違う。

でも、母の手はやはり姫様のそばにあった。

リーナは、それを見ていた。

いつか自分も、あのように立つのだと思っていた。

姫様が困ったとき、必要なものを差し出せるように。

姫様が不安なとき、先に道を整えられるように。

けれど今、自分は何もできない。

ただ、外套の端を握りしめているだけだった。

「リーナも一緒に?」

姫様が聞いた。

母は一瞬だけ目を伏せた。

「途中までです」

途中まで。

その言葉を聞いたとき、リーナは母を見た。

母はリーナを見なかった。

「途中までとは何」

姫様が言った。

「リーナも一緒に行くのでしょう」

「行けるところまでは」

「最後まで」

姫様の声が強くなった。

リーナは胸が熱くなった。

姫様は、自分を連れて行こうとしてくれている。

南庭へ行く約束のときと同じように。

少しだけ叱られるなら二人で叱られようと言ったときと同じように。

でも、母の顔は変わらなかった。

「急ぎます」

母はそう言って、壁際の飾り棚に手をかけた。

リーナは初めて、その棚の奥に小さな金具が隠されていることを知った。

母が金具を押すと、壁の一部が音もなく沈んだ。

姫様が息をのむ。

石壁の奥に、細い通路が現れた。

暗い。

灯はない。

冷たい空気だけが、そこから流れてきた。

「この通路は」

「王族の避難路です」

母が答えた。

「姫様、リーナ。中へ」

リーナは足を踏み出した。

けれど、姫様は動かなかった。

「乳母は?」

母は姫様を見た。

「私は、後から参ります」

リーナは母の声を聞いた。

その声が嘘だと、すぐに分かった。

母は、嘘をつくのが上手ではなかった。

少なくとも、リーナには。

「お母様」

リーナは言った。

母は振り返らなかった。

「後から来るのですよね」

母は答えなかった。

姫様が母の前に立った。

「一緒に来て」

「姫様」

「命令よ」

姫様の声は震えていた。

王女の命令というより、子どものお願いだった。

母は膝をついた。

「姫様。どうか、リーナをお連れください」

リーナの息が止まった。

「お母様」

「あなたは姫様と行きなさい」

「いやです」

声が勝手に出た。

母はようやくリーナを見た。

その顔は、母の顔だった。

侍女を教える顔ではない。

乳母として姫様を見る顔でもない。

リーナだけの母の顔だった。

「リーナ」

「いやです。お母様も一緒です」

「私は、ここで扉を閉じます」

「誰か他の人が」

「ここを知っている者は多くありません」

「なら、なおさら」

「だから、私が残ります」

リーナは首を振った。

母は近づき、リーナの肩に手を置いた。

「よく聞きなさい」

「聞きません」

「リーナ」

「聞いたら、決まってしまいます」

母の目が揺れた。

リーナは自分が何を言ったのか、半分しか分かっていなかった。

けれど、本当にそう思った。

聞けば、母は残る。

聞けば、姫様と行かなければならない。

聞けば、星を見る約束とは違う約束をしなければならなくなる。

母はリーナを抱きしめた。

強く。

苦しいほどだった。

「姫様のおそばに」

「いやです」

「あなたが、できるところまででいい」

「……分かっています。でも」

「姫様の手を離さないで」

リーナは泣きそうになった。

「お母様も」

母はリーナの髪に頬を寄せた。

「あなたは、私の娘です」

その言葉が、リーナには分からなかった。

当たり前のことだった。

そんなこと、言われなくても知っている。

なのに、母は今、初めて言うように言った。

「だから、行きなさい」

外で、足音が近づいた。

母はリーナから体を離した。

姫様がリーナの手を取った。

「行こう」

姫様の手も冷たかった。

リーナは動けなかった。

母がリーナの背を押した。

「走りなさい」

「お母様!」

「振り返ってはいけません」

リーナは通路の中へ押し込まれた。

姫様も一緒だった。

母は壁の仕掛けに手をかけた。

石が動き始める。

「お母様!」

リーナは戻ろうとした。

姫様が手を離さなかった。

石の隙間が狭くなる。

母の顔が、少しずつ見えなくなる。

そのとき、母はリーナを見た。

乳母としてではなく、母として。

「星を、見なさい」

リーナは息をのんだ。

それは、南庭の夜に母が言った言葉だった。

さみしいときは、上を見なさい。

石壁が閉じた。

暗闇が落ちた。

リーナは壁にすがりついた。

「お母様! お母様!」

石は答えなかった。

向こう側で、足音が止まった。

誰かが低く何かを言った。

母の声がした。

けれど、言葉は聞き取れなかった。

金属の音。

何かが倒れる音。

それから、静かになった。

リーナは壁を叩いた。

何度も。

手が痛くなっても叩いた。

「開けて」

声がかすれた。

「開けてください」

姫様も隣で壁に手を当てていた。

けれど、石は動かなかった。

どくん。

床の下で、また音がした。

リーナは震えた。

王宮の奥で、何かが生きている。

何か大きなものが、目を覚ましている。

姫様がリーナの手を握った。

「行こう」

リーナは首を振った。

「お母様が」

「行こう」

姫様の声も震えていた。

リーナは姫様を見た。

暗くて、顔はよく見えなかった。

けれど、手が震えているのは分かった。

姫様も怖いのだ。

姫様も泣きたいのだ。

それなのに、行こうと言っている。

リーナは母の言葉を思い出した。

姫様のおそばに。

できるところまででいい。

姫様の手を離さないで。

リーナは涙をぬぐった。

「はい」

声は小さかった。

でも、姫様には聞こえた。

二人は暗い通路を進んだ。

星を見るための夜だった。

南庭へ行くはずだった。

柱廊の影に隠れて、少しだけ叱られるはずだった。

本物の夜空を見て、髪の話の続きをするはずだった。

けれど今、二人が見ているのは、石の壁と暗い階段だけだった。

星は見えなかった。

リーナは姫様の手を握り直した。

「姫様」

「何」

「手を、離さないでください」

姫様は答えた。

「離さない」

その約束だけは、守れると思った。

そのときは、まだ。


二人は、石の階段を下りていった。

通路は狭く、壁は湿っていた。

足元に灯はない。

ただ、どこか遠くで揺れる青白い光が、石の継ぎ目をかすかに浮かび上がらせている。

リーナは、姫様の手を握っていた。

本当は、自分が手を引かなければならないのだと思った。

母に言われたからではない。

姫様のおそばにいる者は、そうするものだと教わっていたからだ。

けれど、暗闇の中では、どちらがどちらを支えているのか分からなかった。

姫様の手も冷たい。

自分の手も冷たい。

二人分の震えが、指の間で重なっていた。

「リーナ」

姫様が小さく呼んだ。

「はい」

「この通路、知っている?」

「知りません」

「乳母は、知っていたのね」

「……はい」

それ以上は言えなかった。

母は知っていた。

だから残った。

知らなければ、一緒に逃げられたのかもしれない。

そんなことを考えてはいけないと思った。

母が選んだことを、悪いことのように思ってはいけない。

けれど、胸の奥が痛かった。

どくん。

床の下で、また音がした。

リーナは足を止めそうになった。

姫様も同じように肩を震わせた。

「今の音」

姫様が言った。

「分かりません」

リーナは答えた。

本当は、分からないのではなく、考えたくなかった。

王宮の下に何があるのか。

なぜ鐘が鳴っているのか。

なぜ母が残ったのか。

考えると、足が動かなくなりそうだった。

だからリーナは、母の言葉を思い出した。

姫様の手を離さないで。

できるところまででいい。

できるところまで。

それがどこまでなのか、リーナには分からなかった。

階段が終わると、細い廊下に出た。

廊下の先は二つに分かれていた。

右はさらに地下へ下りる階段。

左は低い扉へ続く道。

壁には古い紋章が刻まれている。

リーナには読めない文字だった。

けれど、姫様はそれを見て息をのんだ。

「王家の印」

「こちらですか」

リーナが聞くと、姫様は少し迷った。

「分からない」

その言葉に、リーナは驚いた。

どうして。

王宮のことは、自分よりずっと知っているはずだ。

その姫様が知らないなら、自分に分かるはずがない。

それでも、どちらかを選ばなければならなかった。

遠くで、何かが崩れる音がした。

石が割れるような、重い音。

そのあと、上の方から人の声が響いた。

言葉にはならない。

ただ、叫びだった。

姫様が振り返った。

リーナも振り返った。

閉じた石壁の向こうには、もう戻れない。

「行きましょう」

リーナは言った。

自分の声が思ったよりしっかりしていたので、少し驚いた。

姫様がリーナを見た。

暗がりの中で、その目だけがはっきり見えた。

「どちらへ」

「王家の印がある方へ」

「どうして」

「姫様のための道なら、印があるはずです」

本当にそうかは分からなかった。

けれど、何かを決めなければならなかった。

姫様は少しだけ唇を噛んだ。

それから、うなずいた。

二人は左の扉へ向かった。

扉は重かった。

姫様が両手で押す。

リーナも隣から押した。

ぎい、と低い音がした。

扉の向こうは、さらに広い空間だった。

古い倉庫のようだった。

木箱が積まれ、布をかぶせられた家具が壁際に並んでいる。

使われなくなった燭台、割れた鏡、古い額縁。

王宮の表には出されないものが、長い年月の埃をかぶって眠っていた。

天井近くに細い窓があった。

そこから、夜の光が少しだけ差し込んでいる。

リーナはその光を見上げた。

星は見えなかった。

けれど、外がまだ夜であることだけは分かった。

「ここは」

姫様がつぶやいた。

そのとき、倉庫の反対側で音がした。

二人は同時に身をすくめた。

木箱の影から、誰かが出てきた。

兵だった。

王宮の兵ではなかった。

鎧の形が違う。

胸に刻まれた紋章も違う。

リーナにはその意味は分からない。

けれど、その兵が姫様を見た瞬間、目の色を変えたことは分かった。

「いたぞ」

低い声だった。

姫様の手が強くなる。

リーナは息を止めた。

兵が一歩近づく。

「王女だ」

その言葉で、リーナの体が動いた。

考えたわけではなかった。

リーナは姫様の前に出た。

「だめです」

声は震えていた。

けれど、出た。

兵がリーナを見た。

「どけ」

「だめです」

リーナはもう一度言った。

自分が何をしているのか、分かっていた。

兵を止められるはずがない。

子どもの体で、大人の兵を押し返せるはずがない。

それでも、母は言った。

姫様のおそばに。

できるところまででいい。

できるところまでが、今なら。

ここだった。

姫様が後ろで息をのんだ。

「リーナ」

「姫様、お急ぎを。走ってください」

「いや」

「走ってください、姫様」

リーナは振り返らなかった。

振り返れば、動けなくなる。

姫様の顔を見れば、手を伸ばしてしまう。

兵が剣に手をかけた。

そのとき、倉庫の奥で別の扉が開いた。

「こちらへ!」

知らない男の声だった。

リーナは一瞬だけ目を向けた。

灰色の外套を着た男が、奥の扉を開けている。

顔は影でよく見えない。

けれど、その手は姫様へ向けられていた。

「急げ!」

姫様がリーナの腕をつかんだ。

「一緒に」

リーナはうなずこうとした。

その瞬間、床が揺れた。

どくん。

今までで一番大きな音だった。

倉庫の壁にひびが走る。

天井から埃が落ちる。

積まれていた木箱が崩れ、古い鏡が床に落ちて割れた。

兵がよろめいた。

姫様も足を取られた。

リーナは姫様の腕をつかんだ。

「姫様!」

もう一度、床が揺れた。

今度は、足元の石が割れた。

リーナは、自分の体が傾くのを感じた。

姫様の手が離れかける。

だめ。

離してはいけない。

そう思った。

けれど、崩れた木箱が二人の間に落ちた。

リーナの手から、姫様の指が抜けた。

「リーナ!」

姫様の声が聞こえた。

リーナは手を伸ばした。

届かなかった。

灰色の外套の男が、姫様を抱えるようにして奥の扉へ引いた。

姫様は暴れていた。

リーナへ手を伸ばしていた。

「リーナ!」

その声に、リーナは答えようとした。

「姫様」

声が出たかどうか分からなかった。

崩れた床が、リーナの足元をさらった。

体が落ちる。

石の角が肩に当たった。

息が詰まる。

腕を伸ばす。

何かをつかもうとする。

指先に、布が触れた。

姫様の外套ではなかった。

古い幕だった。

それもすぐに破れた。

落ちる。

暗い。

上の方で、姫様の声がした。

「リーナ!」

リーナは思った。

手を離さないと約束したのに。

母に言われたのに。

できるところまででいいと言われたのに。

できなかった。

体が何かにぶつかった。

痛みが走った。

頭の奥で、白い光が弾けた。

それでも、リーナは目を開けようとした。

姫様を見なければならない。

母の言葉を忘れてはいけない。

南庭の星空を、姫様に見せなければならない。

けれど、見えたのは、暗い石の天井だけだった。

遠くで、まだ鐘が鳴っている。

一つ。

二つ。

三つ。

リーナは唇を動かした。

姫様。

声にはならなかった。

その代わり、母の声が聞こえた気がした。

星を、見なさい。

リーナは、暗闇の中で空を探した。

どこにもなかった。

それでも、探した。

やがて、痛みも、鐘の音も、石の冷たさも、少しずつ遠ざかっていった。

最後に残ったのは、握っていたはずの小さな手の感触だった。

それも、ゆっくりほどけていった。

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