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第一章 星を見る約束

※ChatGPTを全文で使用しています。

王宮の裏庭には、午後になると白い花の匂いが満ちた。

大きな庭ではなかった。

王族が客を迎えるための庭でも、儀式のために整えられた庭でもない。

台所の裏手に近く、石畳の隙間には小さな草が生え、古い水桶が壁際に置かれている。

庭師が見れば、手入れが行き届いていないと言ったかもしれない。

けれど、アビシニアはその庭が好きだった。

表の庭では、歩き方を見られる。

礼の角度を見られる。

誰と話し、どこを見て、どれだけ王女らしくしているかを見られる。

でも裏庭では、少しだけ違った。

裾を持ち上げて走っても、すぐには叱られない。

花の名を間違えても、誰も記録しない。

水桶を運ぼうとして傾けても、乳母が呆れた顔をするだけだった。

「姫様、それは持ち方が違います」

リーナが言った。

アビシニアは水桶の取っ手を両手で握ったまま、むっとした顔をした。

「持てているわ」

「水が半分こぼれています」

「半分は残っているでしょう」

「乳母様に見つかったら、半分叱られます」

リーナは真面目な顔でそう言った。

アビシニアはしばらく耐えたが、とうとう笑ってしまった。

水桶の中で、残った水が小さく揺れた。

リーナは乳母の娘だった。

年はアビシニアとほとんど変わらない。

けれど、リーナの方が少しだけ落ち着いていて、少しだけ手先が器用で、少しだけ大人の言いつけを守るのが上手だった。

だからアビシニアは、時々リーナをずるいと思った。

リーナは、何をしても自然だった。

水桶を持つことも、花を摘むことも、乳母に呼ばれて返事をすることも。

王女らしくしなさい、と言われることもない。

それに、リーナの髪は明るかった。

午後の光の中で見ると、亜麻色の髪は細い金の糸のように透けた。

風が吹くと、白い花の間でやわらかく揺れる。

アビシニアは、それを見るのが好きだった。

好きで、少しだけ嫌だった。

自分の髪は黒く、ほどくとすぐに絡まる。

母の髪とも、乳母の髪とも、庭で働く者たちの髪とも違っていた。

肌の色もそうだった。

王家直系に現れる色だと、大人たちは言った。

尊い色だと、古い伝承にある色だと。

けれど、アビシニアにはよく分からなかった。

尊いと言われても、目立つだけだった。

伝承と言われても、鏡の中の自分が好きになるわけではなかった。

「リーナの髪は、麦みたい」

アビシニアは言った。

リーナは白い花を摘む手を止め、不思議そうに首を傾げた。

「麦、ですか」

「そう。陽に当たると、明るくなるでしょう」

アビシニアは、リーナの髪を指先で少しつまんだ。

細くて、やわらかい。

「ずるいわ」

「ずるい、ですか」

「だって、明るいもの。私の髪は、すぐ絡まるし、黒いし」

リーナは少し考えた。

それから、真剣な顔で言った。

「姫様の髪は、夜みたいです」

アビシニアは頬をふくらませた。

「夜は暗いでしょう」

「でも、星があります」

「星?」

「はい」

リーナは空を見上げた。

昼の空はまだ明るく、星など一つも見えなかった。

それでもリーナは、そこに何かを探すように目を細めた。

「うまく言えません。でも、姫様の髪は、お星さまのひかりを集めた、ふわふわの夜空みたいです」

アビシニアは、まだ頬をふくらませていた。

けれど、怒る言葉は出てこなかった。

ふわふわの夜空。

そんなふうに自分の髪を見たことは、一度もなかった。

「夜空は、ふわふわしていないわ」

「でも、姫様の髪はふわふわしています」

「絡まるのよ」

「絡まっても、きれいです」

リーナはあまりにも真面目に言った。

だからアビシニアは、ますます何も言えなくなった。

少し離れたところで、白い花が風に揺れた。

台所の方から、鍋の蓋が鳴る音がした。

遠くの廊下を、誰かの足音が通り過ぎていく。

王宮はいつも音に満ちていた。

人の声。

衣擦れ。

水の音。

鐘の音。

扉の開く音。

そのどれもが、アビシニアには当たり前だった。

当たり前すぎて、なくなることなど考えたこともなかった。

「本物の夜空を見れば、分かります」

リーナが言った。

アビシニアは瞬きをした。

「夜空?」

「はい。星がたくさん出る夜です。南庭の奥なら、空が広く見えます」

「南庭は、夜に行ってはいけない場所でしょう」

「はい」

リーナはうなずいた。

「でも、柱廊の影を通れば、見張りの人には見つかりにくいです」

「リーナ」

アビシニアは少し目を丸くした。

「あなた、そんなことを知っているの」

リーナは、急に困った顔になった。

「知っているだけです。行ったことは、少ししかありません」

「少しはあるのね」

「乳母様には内緒です」

「悪い子だわ」

アビシニアはそう言ってから、口元を押さえた。

笑いがこぼれそうになったからだ。

リーナも、ほんの少しだけ笑った。

「今夜、見に行きましょう」

「今夜?」

「はい。少しだけです。星を見るだけです」

「見つかったら叱られるわ」

「たぶん、少しだけ叱られます」

「少しだけ?」

「たぶんです」

「たぶんは信用できないわ」

「では、私が先に叱られます」

「それはだめ」

アビシニアはすぐに言った。

リーナは驚いたように目を上げた。

「だって、私が行きたいと言ったことにするなら、私も叱られないとおかしいでしょう」

「姫様が叱られるのは困ります」

「リーナだけ叱られる方が困るわ」

二人はしばらく見つめ合った。

それから、どちらからともなく笑った。

白い花の匂いが、風に乗って二人の間を通り抜けた。

「では、二人で少しだけ叱られましょう」

リーナが言った。

アビシニアは、少し考えるふりをした。

本当は、もう決めていた。

夜に寝所を抜け出す。

柱廊の影を通る。

南庭の奥で、星を見る。

王女らしくないことだった。

乳母に知られたら、きっと長く叱られる。

母に知られたら、静かに困った顔をされる。

父に知られたら、たぶん笑う。

そして、笑ったあとで、やはり叱る。

それでも、胸の奥が少し弾んだ。

「では、少しだけ見に行くわ」

アビシニアは言った。

リーナの顔が明るくなった。

「約束です」

「約束ね」

リーナは小指を出した。

アビシニアは少し迷った。

王女がそんなことをしてよいのか、誰かに見られたらまた何か言われるのではないか、と一瞬だけ思った。

けれど、ここは裏庭だった。

誰も、王女らしさを記録しない場所だった。

アビシニアは小指を絡めた。

「今夜、南庭で」

「はい。星を見に」

「私の髪が本当に夜空みたいか、確かめるのよ」


「はい」

リーナは真面目にうなずいた。

「きっと、分かります」

その言い方があまりにまっすぐだったので、アビシニアはまた少し頬をふくらませた。

「分からなかったら?」

「そのときは、もう一度見ます」

「また抜け出すの?」

「はい」

「また叱られるわ」

「少しだけです」

今度こそ、アビシニアは声を出して笑った。

裏庭の白い花が揺れた。

水桶の水面に、午後の光が跳ねた。

リーナの亜麻色の髪が、その光を受けて明るく透けた。

アビシニアはその日、自分の黒い髪を少しだけ触った。

絡まりやすくて、重くて、ほどくと乳母が困る髪。

でも、リーナはそれを夜空みたいだと言った。

お星さまのひかりを集めた、ふわふわの夜空。

まだ信じたわけではなかった。

けれど、今夜、本物の星を見れば、少しだけ分かるかもしれない。

そう思った。

「姫様、リーナ!」

乳母の声がした。

二人は同時に肩を跳ねさせた。

「水桶はどうなりました!」

アビシニアは足元を見た。

水桶は傾き、残っていた水のさらに半分が石畳に広がっていた。

リーナが小さく息をのんだ。

アビシニアは、慌てて水桶を起こした。

「半分は残っているわ」

「姫様」

リーナが小声で言った。

「もう半分も、ほとんど残っていません」

乳母が裏庭に入ってくる足音がした。

アビシニアとリーナは顔を見合わせた。

そして、同時に笑ってしまった。

その笑い声は、白い花の匂いと一緒に、午後の庭へ溶けていった。

その夜、二人は星を見に行くはずだった。

南庭の奥で、柱廊の影に隠れて。

少しだけ叱られる覚悟をして。

アビシニアの髪が、本当に夜空に似ているのか確かめるために。

けれど、その夜、南庭の空を見る者はいなかった。

空は赤くなかった。

星も、まだ遠かった。

最初に二人を呼んだのは、夜空ではなく、王宮の奥で鳴り続ける鐘だった。

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