自由
やがて馬車の車輪はゆっくりと速度を落とし、王城の正面広場で止まった。ヴィクトリアはダニエルと一度だけ視線を交わすと、作戦どおりカラスの姿のまま開いた窓から外へ飛び立つ。
「無理しないでね、ヴィクトリア! 何かあったらすぐ戻ってきてね!」
背後から、ダニエルの心配そうな声が聞こえてきたが、ヴィクトリアは振り返ることなく、大きく羽ばたいて空高く舞い上がる。
あっという間に馬車も人々の姿も小さくなり、見上げなければ見つけられないほどの高さまで昇った。
誰に教わったわけでもないのに、羽ばたき方、風を捉える角度、旋回の仕方のすべてを身体は知っていた。羽を広げれば風が身体を持ち上げ、わずかに翼を傾けるだけで進む方向が変わる。まるで何十年も空を飛び続けてきたかのように、少しも迷うことなく身体が動いていた。
(すごい…!)
生まれて初めて見る景色に、ヴィクトリアは思わず心の中で息を呑む。眼下には王都が箱庭のように広がり、白と淡い青を基調とした王城は夕陽を受けて黄金色に輝いている。遠くには森が連なり、その先にある海が陽光を反射してきらめいていた。地上にいては決して見ることのできない景色に、ヴィクトリアはしばらく見惚れていた。
(もっと飛びたい…!)
その衝動は、ごく自然に胸の奥から湧き上がり、もっと高く、もっと遠くへ、とヴィクトリアの心を踊らせた。人間社会の煩わしいしがらみなど忘れて、このままどこまでも飛んでいきたい。翼を動かすたびに身体は軽くなり、このまま王都を飛び越え、森も国境も越えて、本当の自由を手に入れたかのような錯覚さえ覚える。
(ああ…ようやく…ようやく、私は自由になったのよ…!)
空を舞い、翼をはためかせこのまま飛び続けていたい衝動に駆られる。甘美な誘惑は、ヴィクトリアの理性を少しずつ溶かしていく。どうせ呪いは解けず、この身体は少しずつ蝕まれていく。それならいっそのこと自分から呪いを受け入れてしまえばいい。家族も皆、最後はカラスになったのだから。
第一、たとえ呪いが解けたとしても、家族はもう戻ってこない。結局、自分はひとりぼっちのままなのだ。ヴィクトリアの胸の奥にぽっかりと穴が開いたような空虚さが広がる。
(そうよ…私にはもう誰もいないじゃない)
好きだった人はもういない。
三百年前に置いてきてしまった。
「……っ」
ヴィクトリアは首を振り、自分が今、何を考えていたのかにぞっとした。まるで誰かに囁きかけられるように、自らカラスになることを望まされていた。この呪いは、人としての心を少しずつ削り取り、カラスとして生きることを受け入れさせようとしているのだ。
(だめ、呪いに負けてはだめよ…!)
ヴィクトリアはぐっと翼に力を込める。
この衝動に身を委ねれば、そのぶんだけ呪いは進行する。次々と家族がカラスへ変わっていく姿を、ヴィクトリアは嫌というほど見てきた。だからこそ、今まで飛ぶことは避けてきた。人の姿へ戻れる限られた時間を守るため、自分が自分であり続けるために。
ヴィクトリアは胸の奥から湧き上がる本能を振り払うように、ゆっくりと息を整えた。
(私はカラスじゃない!私はカラスじゃない!私はカラスじゃない…!!)
その言葉を何度も心の中で繰り返し、自分という存在を繋ぎ止めながら、王城の上空を慎重に旋回する。
空を飛ぶ一羽のカラスを気に留める者などほとんどいないだろうが、それでも、王城の周囲を何度も飛び回れば、不審に思われる可能性はある。最悪の場合、害鳥と判断され、狩人や衛兵に射落とされる危険も否定できない。
ヴィクトリアは昂る本能を押し殺すように高度を保ち、必要以上に飛び回らないよう自らを戒めながら、王城の周囲の散策を始める。




