未来
ダニエルから一連の話を聞き終えたヴィクトリアは、しばらく何も言わず天井を見上げていた。垂れ下がっている天蓋の向こう側をぼんやりと眺めながら、ここ数日の出来事を思い返す。
初めて会った時から使用人たちの視線が妙に温かかった理由を、ようやく理解した気がする。先日の食堂での腰の痛さに倒れそうになったのも、さらに信憑性を増してしまった行いだったのだとヴィクトリアは今更ながら気がついた。
だが一方で、その誤解が役立っていたのも事実だった。このタウンハウスに滞在してから一度も怪しまれずにこれたのはすべてその誤解のおかげだと思うと、ダニエルだけを責める気にはなれなかった。
(…でも、これからも周りにそう思われていると思いながら過ごすのはなんだか気まずいわね)
風邪を引いてるヴィクトリアはさらに身体が重くなった気がして、できることならこのまま毛布に潜って現実から目を逸らしたいと思った。
「…あの、ヴィクトリア…?」
恐る恐る、といった声音が聞こえる。
ヴィクトリアが話を聞き終えてからずっと黙っていたため、ダニエルもさすがに不安になったらしい。ベッドの傍で座ったまま、どこか落ち着かない様子でこちらを窺っている。
ヴィクトリアが怒っているのか、はたまた怒りを通り越して呆れているのかを探るように、ダニエルは不安そうな顔を向けてくる。
「大丈夫よ、怒っていないわ。むしろ、この誤解のおかげで今まで怪しまれずに済んでいたのだと合点がいっていたところよ」
「よ、よかった…!」
ヴィクトリアの言葉を聞いた瞬間、ダニエルの表情はぱっと明るくなり、心の底から安心したように肩の力を抜く。
「でも、ダニエルの将来に影響が出ないか心配だわ」
「え……?僕の将来?」
思いがけない言葉だったのか、ダニエルは目を丸くし、不思議そうにヴィクトリアを見つめた。
「ヴェルターたちは私たちのことを恋人同士だと思っているのでしょう?」
「う、うん……たぶん……」
歯切れの悪い返事が返ってくる。
ヴィクトリアは少しだけ視線を伏せ、言葉を続けた。
「だったら将来、あなたに本当に恋人ができた時に困るかもしれないわ」
「……え?」
ダニエルは目を瞬かせ、ヴィクトリアは苦笑を浮かべる。
「だって…もし私がその恋人だったら、ダニエルには過去に恋人がいたんだって事実に少なからずショックを受けてしまうと思うわ…」
それは誤解だと説明されたとしても、一度芽生えたわだかまりが完全になくなるとは限らない。
「誤解だったとしても、良い気分にはならないと思うの。だから少し心配になったのよ」
その言葉を口にしながら、ヴィクトリアの胸には別の思いが広がっていく。
ダニエルには未来がある。
いつか本当に好きな人と出会い、想いを通わせ、やがて家族になる日が来るかもしれない。そんな未来を、自分という異質な存在が少しでも曇らせてしまうのなら。本当なら今すぐヴェルターたちに事情を話し、すべて誤解だったと打ち明けるべきなのだろう。
それなのに、自分はダニエルの優しさに甘え続けている。呪いを軽々しく人に話すべきではない、そんな理由を盾にして。
(……結局、私は自分を守っているだけなのね)
ヴィクトリアは胸の奥が少しだけ痛んだ。
呪われているのだから仕方がない、自分にはどうしようもないことなのだから。そう言い聞かせながら、どこかで被害者であることに甘えている自分がいる。
そんな自分が嫌になり、ヴィクトリアはそっと毛布を握り締める。
朝になればカラスへ変わる呪い。
歳を取ることもなく、人としての未来を思い描くことさえ難しい。呪いを受けたあの日から、ずっと目を逸らしてきた現実だった。
仮に誰かと結ばれたとしても、何十年経っても変わらない姿を周囲は不審に思うだろう。それに愛する人との子どもも持てないだろう。そもそも、自分は子どもを授かることができるのだろうか。もし授かったとして、人とカラスの姿を行き来する身体に命は耐えられるのだろうか。朝を迎え、カラスへ変わった瞬間、その小さな命はどうなってしまうのだろう。
そこまで考えたところで、ヴィクトリアは思考を止めた。考えても答えは出ない。なにより、その答えを知るのが怖かった。
だからずっと諦めていた。呪いを解かない限り、自分にはそういう未来はないのだと。
「ヴィクトリア?」
不意に名前を呼ばれ、ヴィクトリアははっと我に返る。気づけば随分と長い間、黙り込んでしまっていたらしい。
目の前ではダニエルが心配そうにこちらを見つめていた。
「なんでもないわ、少し考え事をしていただけよ」
ヴィクトリアはそう言って微笑むが、その笑みはどこか儚く、無理に作ったものだとすぐに分かる笑顔だった。
ダニエルは何かを決意したように息を吸い込む。
「あ、あのさ……!さっきの話だけど、僕は、その……ヴィクトリアと……」
ダニエルの言葉が途中で止まる。頬は少しずつ赤く染まり、視線は落ち着きなく揺れていた。
ヴィクトリアは急かすことなく、静かに見つめる。
「………」
二人の間に沈黙が流れる。
「〜〜〜〜っ!!ご、ごめん!!やっぱりなんでもない…!!」
耐えきれなくなったようにダニエルは勢いよく立ち上がり、そのまま扉へ向かって歩き出した。
「ダニエル?どうしたの?」
突然の行動にヴィクトリアは目を丸くする。
ダニエルは振り返ることもできず、背を向けたまま慌てて答えた。
「ちょ、ちょっと、新しい水差しと薬を取ってくるよ…!!」
それだけ言い残すと、ダニエルは逃げるように部屋を飛び出していく。扉が閉まる音がして、部屋は静寂に包まれた。
ヴィクトリアは毛布を胸元まで引き上げ、ゆっくりと横になる。目を閉じると、先ほどのダニエルの言葉が自然と頭の中で繰り返された。
『あ、あのさ……!さっきの話だけど、僕は、その……ヴィクトリアと……』
その先に続こうとしていた言葉を、ヴィクトリアはなんとなく察していた。
それが彼本来の優しさから口にしかけたものだったのか。それとも、自分へ向けられた特別な想いだったのか。その答えは分からないが、最後まで言葉にしないでくれたことだけは、ありがたかった。
もし聞いてしまっていたら、自分はきっと、その想いに応えることはできないのだから。呪いにより歳を重ねることもできない自分と、普通に歳を重ねていくダニエル。
いつか必ず、二人の時間は噛み合わなくなる。
そんな未来を考えるだけで胸が苦しかった。
(……もう、自分だけ置いていかれるのは懲り懲りなの)
願うのなら、愛する人と同じ速さで歳を重ねていきたい。同じ景色を見て、同じように年老いて、そんな当たり前の未来を自分も歩みたい。けれど、その願いは呪いを受けたあの日に諦めた。
(ダニエル、ごめんなさい)
心の中でそっと謝りながら、ヴィクトリアは再び眠りについた。




